血と金の均衡
粉暦19年、北方国境からの急報は、私の胸を重く締めつけた。
十年前の条件付き加盟で取り決めた「税免除期間」が切れる年だった。
だが、北方遊牧同盟の一部はこれを無視し、放牧地をさらに南下させ、農耕地を焼き払っていた。
被害に遭った農民たちはエルモラへ逃げ込み、広場で助けを求めて叫んだ。
議会は紛糾した。
商人派は「交易路を守るため、局地戦で済ませるべきだ」と主張し、軍閥派は「全面遠征で徹底的に叩け」と叫んだ。
私は両派の争いを黙って聞き、やがて口を開いた。
「北方遠征を行う。目標は遊牧同盟の首都を制圧し、彼らの支配構造を再編することだ」
この決断は、私にとっても賭けだった。
遠征は長引けば財政を圧迫し、失敗すれば統一の威信が失われる。
それでも、放置すれば北方の火種は全大陸に燃え広がる。
老兵たちは「盟主はまだ前線に立つのか」と驚いたが、私は答えなかった。
前線に立つのは、もうこれが最後かもしれないと心のどこかで感じていた。
北方遠征軍は三万。私はその先頭に立ち、雪原を進んだ。
氷原の風は骨をも凍らせ、馬の吐く息は白く凍りつく。
遊牧軍は軽騎兵で我らを翻弄し、補給線を襲撃してきた。
だが、私はあえて深追いせず、補給拠点を点々と築きながら進軍した。
三か月後、遊牧同盟の首都バルガスに到達。
市の門は堅く閉ざされ、城壁の上から弓と投槍が雨のように降り注いだ。
私は砲兵を前進させ、城門を粉砕させた。雪煙の中、突撃号令が響く。
混乱の中、敵の総大将バルガは馬で包囲を突破しようとしたが、我が軍の槍兵がこれを阻んだ。
捕らえられたバルガは、氷原の空の下、無言で私を見据えていた。
「十年前の約束を忘れたのか」
そう問うと、彼はわずかに笑った。
「約束は氷のようなものだ。春になれば溶ける」
その言葉は、勝利の味を苦くした。
北方首都を制圧し、支配構造を再編した後、私は帰還の途についた。
だが、帰還からわずか一か月で西方都市ベイラスが蜂起した。
原因は、遠征費用を賄うための増税だった。
港湾税、交易税、鉱山税――いずれも倍に引き上げられ、市民や商人層の怒りは頂点に達していた。
「盟主、蜂起軍はすでに市庁舎を占拠しています」
報告を受けた私は、再び出陣の支度を整えた。
だが、今回は前線に立たず、副官リュシアンに指揮を委ねた。
氷原での遠征が私の体力を確実に奪っていた。
咳が止まらず、夜になると胸が焼けるように痛んだ。
ベイラス蜂起は一か月で鎮圧されたが、商人派は議会で「軍閥派による強権政治だ」と糾弾した。
統一の旗の下で、政治は着実に亀裂を広げていた。
粉暦21年の初春、私は議会に商人派代表を呼び寄せ、密談を行った。
長机の上には、港湾都市ごとの税収推移と交易品目の一覧が並んでいる。
「遠征も蜂起鎮圧も終わった。だが、次に必要なのは取引だ」
私はそう切り出し、港湾税と交易税の段階的引き下げ案を提示した。
商人派の代表ラオ・シェンは、細い目をさらに細めて私を見た。
「盟主、減税は財政を圧迫します。何を担保に?」
私は机上の地図に指を置き、北方と南方を結ぶ新たな街道計画を示した。
「交易量が増えれば、税率を下げても収入は増える。君たちの利益も同じだ」
静かな沈黙の後、ラオ・シェンは頷いた。
こうして、商人派との和解は成立した。
しかし、議会内での支持基盤は以前よりも脆くなっていた。
軍閥派は「譲歩は弱さだ」と批判し、南方連合は「街道は北方優遇だ」と反発した。
統一の舵取りは、ますます細い綱渡りになっていた。
同年の夏、南方密林で武装衝突が発生した。
原因は交易所の設置場所を巡る争いだった。
私は即座に軍の派遣を決定したが、同時に和平交渉の使者も送った。
南方首長カラ・ミリからの返書は、予想外に穏やかだった。
「盟主よ、森の王は戦を望まぬ。だが、森の木々を切り倒す者には斧を向ける」
交渉団は二か月後、和平条約を携えて帰還した。
南方の木材供給と香辛料交易は安定し、密林への立ち入りは制限されることで合意した。
この成果は商人派から高く評価されたが、軍閥派は「脅しに屈した」と批判を続けた。
和平と戦争、そのどちらを選んでも、半分は私を非難する声になる――それが盟主の現実だった。
粉暦22年の秋、私は自らの死期を悟っていた。
氷原での遠征以来、咳は悪化し、熱は引かず、食事も喉を通らなかった。
執務机の上には、未処理の報告書が山のように積まれていたが、それらを処理する力は残っていなかった。
ある夜、私はリュシアン副官とアーシェを私室に呼んだ。
「後継者はアーシェだ」
リュシアンの眉がわずかに動いた。
「議会は必ず反発します」
「それでも、彼女しかいない。剣も交易も知る者だ」
アーシェは涙を堪え、静かに頷いた。
翌週、議会で私は後継者指名を正式に発表した。
軍閥派は怒号を上げ、商人派は沈黙した。
そのざわめきを背に、私は席を立ち、もう二度と議場に戻ることはなかった。
晩秋のある朝、私は港まで運ばれた。
海は静かで、陽光が波に反射してきらめいていた。
かつて外洋戦に出た旗艦《黎明》が、遠くに係留されているのが見えた。
あの甲板に立ち、水平線を見据えていた自分の姿が、まるで別の人生のように遠く感じられた。
「リュシアン…旗を頼む」
声は掠れていたが、彼はすぐに理解した。
粉暦の旗が私の枕元に掲げられ、潮風が頬を撫でた。
私はその布地の感触を指先で確かめ、静かに目を閉じた。