揺らぐ統一
粉暦6年の春。
港湾都市エルモラの執務室に、国境警備隊からの急使が駆け込んだ。
「盟主、北方遊牧民の一派が完全に離反しました。盟約を破棄し、国境砦を襲撃しています!」
机上の地図に、赤い駒が並べられる。南下する遊牧軍は、農耕地を焼き払いながら進んでいる。
私は議会を招集し、軍派と商人派の双方に声をかけた。
「北方への制裁遠征を行う」
私の宣言に、商人派は一斉に眉をひそめた。
「盟主、遠征は交易路を危険に晒します。和平交渉を――」
「和平の相手は、剣を鞘に収めた者だけだ」
短く言い切ると、議場に重い沈黙が落ちた。
遠征軍は二万。私が直接指揮を執る。
北方平原の風は刺すように冷たく、雪解け水でぬかるんだ大地は進軍を鈍らせた。
だが、遊牧軍の突撃を逆手に取り、谷間で待ち伏せ、騎兵の突撃を阻んだ。
三日後、敵は降伏。長バルガが自ら馬を駆って降参の意を示した。
降伏の場で、バルガは笑っていた。
「盟主、あんたは強い。しかし、強さは憎しみを呼ぶ。十年後、我らは再び戦うかもしれんぞ」
その言葉は、勝利の凱歌よりも深く私の胸に残った。
北方遠征の疲れを癒す間もなく、粉暦8年、西方山岳地帯で「紅斧団」が再び旗を掲げた。
かつて討伐したはずの反乱軍だが、鉱山労働者や追放された傭兵たちが新たに加わり、勢力を増していた。
紅斧団は山道を封鎖し、鉱石輸送を止め、武器を闇市場へ流す。これにより都市部では鉄器の価格が急騰した。
「このままでは兵器生産にも支障が出ます」
軍務卿の報告を受け、私は少数の山岳部隊を送り込む決断をした。
山は海よりも恐ろしい。霧に覆われ、足場は崩れ、敵は影のように現れては消える。
二か月に及ぶ山岳戦の末、紅斧団の拠点を陥落させた。首謀者は捕らえられ、エルモラの広場で処刑された。
処刑の日、群衆の中で私は奇妙な視線を感じた。
紅斧団の旗を模した赤い布を隠し持ち、私を睨む若者。
反乱は鎮圧できても、その思想まで消せるわけではない――それを悟った瞬間だった。
粉暦10年、南方密林部族との交易が再開されると同時に、摩擦が激化した。
彼らは鉄器と香辛料を求め、代わりに珍しい薬草や木材を提供してくれる。
だが、密林の奥で領土境界を巡る衝突が起こり、双方の死者は百を超えた。
和平交渉のため、私は南方首長カラ・ミリと会談した。
彼女は全身に鮮やかな刺青を刻み、冷ややかな瞳で私を見据えた。
「盟主よ、あなたは港の王だ。しかし森の王は私だ。森に足を踏み入れれば、あなたも狩られる側になる」
交渉は膠着したが、商人派の仲介で交易だけは継続された。
しかしこの一件は、南方との関係がいつでも戦争に転じうることを示した。
内政では、議会内の派閥争いが表面化した。
南方連合は人口を背景に発言権拡大を要求し、商人派は税制改革で優遇を求め、軍閥派は恒常的な軍拡を主張する。
私の一票が、いつも天秤を傾ける決定票になった。
「盟主、あなたがいなければ議会は割れる」
リュシアン副官の言葉に、私は苦笑した。
「いずれ割れる。それが人の世というものだ」
だが、割れるまでの時間を延ばすのが私の仕事だとも思っていた。
粉暦11年の冬、私は城の奥で家族会議を開いた。
盟主の座は世襲制ではないが、議会の多くは私の血を引く者に継がせたいと考えていた。
だが、現実は厄介だった。長子のレオニードは軍才に乏しく、議会の討論でも眠気を隠せない性分。
次子のアーシェは才覚に富み、交易商人たちからも好評だが、女であるがゆえに軍閥派が猛反対していた。
「父上、私がやります」
アーシェが真っ直ぐに言った。
「軍閥派が何を言おうと、私は大陸を治められます」
彼女の声には迷いがなかったが、私は答えられなかった。
この大陸の統一は、まだあまりにも脆い。女の盟主を認めぬ古い価値観が、半数以上の議員の頭に巣食っている。
その夜、私は執務机の上に広げた地図を見下ろし、指で粉暦の旗の模様をなぞった。
後継者問題は、いずれ私を縛る鎖になるだろうと予感していた。
粉暦12年、反乱と摩擦を抑えるため、私は武力ではなく文化で大陸を結びつける政策を打ち出した。
大陸共通の学舎制度を整備し、各地から才能ある若者をエルモラに集めて教育する。
「大粉学院」と名付けられた学び舎は、読み書きや算術だけでなく、歴史や法律、外交術も教える場となった。
卒業生は各地に戻り、地方政務に携わることで、統一の理念を広める役割を担った。
同時に、各地の祭や芸能を首都に招き、「大陸文化祭」を開催。
北方の馬舞、南方の太鼓劇、西方の鉱山歌、東方の絹舞踊――異なる文化が同じ舞台に並び、観客は歓声を上げた。
私はその光景を見ながら思った。
統一とは、軍旗の下に従えることではなく、ひとつの広場に集い、互いを知ることから始まるのかもしれない、と。
だが、文化政策がすべてを解決するわけではない。
北方では遊牧民の若者たちが、密かに武器を集めているという報告が上がった。
西方の鉱山では、紅斧団の思想を受け継ぐ者たちが再び徒党を組み始めている。
そして南方密林では、和平の影で新たな武具が作られていた。
リュシアン副官は机上に三通の報告書を並べた。
「どれも放置すれば、大きな火になるでしょう」
「放置せずとも、火はつくだろう」
私はそう言い、椅子に深く沈み込んだ。
盟主としての座は、まるで火薬庫の上に立つ一本橋だ。
前に進めば揺れ、立ち止まれば崩れる。
粉暦12年の年末、エルモラ港には再び賑わいが戻っていた。
冬の市では、南方の香辛料と東方の絹、北方の毛皮が並び、人々は買い物袋を抱えて笑っていた。
その姿を城のバルコニーから眺め、私は心の奥で小さく息をついた。
この光景が永く続くことを願いながらも、遠くの地平から忍び寄る影を知っていたからだ。
港の潮風に、粉暦の旗が翻る。
その布はまだ新しく、色も鮮やかだ。
だが、いつか風雨に晒され、ほつれ、縫い直さねばならない日が来るだろう――その時、自分はまだこの旗を掲げられているだろうか。
心のどこかで、答えを恐れていた。