粉暦の幕開け
港の潮の匂いは、いつもより濃かった。
朝靄に包まれたエルモラ港の防波堤から、私は帆を畳んだばかりの艦隊を見下ろしていた。海は穏やかで、波は静かに船腹を叩く。それはまるで、長い戦乱の後に訪れた束の間の安らぎを祝福するようにも思えた。
「提督、そろそろです」
背後からの声に振り返ると、副官のリュシアンが立っていた。まだ若いが、海戦での胆力は私が最も信頼するものだ。
今日は、百年以上続いた対立に終止符を打つ日だ。150の組織が一堂に会し、「プタンロード統一盟約」に署名する。大陸史の転換点になる――はずだった。
私は軍帽を外し、濃紺の礼服の襟を正した。鏡のない港で、服の皺を直す術はない。ただ、この胸の中にある決意が崩れなければ、それでいい。
エルモラ城へ向かう馬車の窓から、港の街並みを見下ろす。干物の匂い、酒場のざわめき、異国商人の声。戦の間も、この街だけは活気を失わなかった。だからこそ、ここが大陸統一の盟主都市になるのは必然だったのだ。
城の大広間は、すでに諸勢力の代表で埋まっていた。北方の毛皮に身を包んだ遊牧同盟の長、南方密林から来た刺青の首長、西方山岳の銀鉱を支配する領主たち。誰もが互いを警戒する目をしていた。
壇上には、金糸の刺繍が施された「粉暦の旗」が掲げられている。中央の白地には、大陸を象った灰色の輪郭と、その上を横切る一本の道――それは「プタンロード」、かつて東西交易を繋いだ古道の名でもある。
議会の筆頭書記が、調印の文を読み上げた。
「我ら、百五十の組織は、相互不侵・共同防衛・通商の自由を誓い、プタンロード統一盟約を結ぶ。」
調印台に最初に呼ばれたのは、私だった。
海戦での功績、諸勢力の橋渡し役としての実績、そして港湾都市エルモラの経済力。それらが私を初代盟主の座へ押し上げた。
羊皮紙に名を刻むとき、背筋を這い上がるような責任の重さを感じた。それは戦場で感じた恐怖よりも深く、静かに心を締めつけた。
全員の署名が終わった瞬間、外から太鼓と角笛の音が響き、港の群衆が歓声を上げた。
だが、壇上から見下ろした各代表の顔は、一様に笑ってはいなかった。統一は形だけであり、心までは一つになっていない。それを痛感した。
盟約の翌日、私は北方遊牧同盟の長、バルガと密談を持った。
彼は年老いた巨躯の男で、鋭い眼光の奥に氷原の冷たさを宿している。
バルガは調印式でも終始無言で、祝宴にも加わらなかった。
「条件は変わらん。南下しての放牧地確保、それと馬交易の税免除だ。」
それが加盟の代価だった。
「しかし、それでは南方連合が黙っていない」
私は反論した。南方は農耕民が多く、牧畜民の放牧地拡大は耕地の減少に直結する。
「ならば、統一はここまでだ」
バルガは椅子を軋ませて立ち上がり、去ろうとした。
私はその腕を掴み、視線をぶつけた。
「……税免除は十年だ。それ以上は議会の審議に委ねる。放牧地は南方と協議のうえで決める。それが限界だ」
長い沈黙のあと、バルガは小さく笑った。
「十年あれば、我らの馬は大陸を駆け巡るだろう。盟主、あんたは骨のある男だな」
こうして北方は条件付きで加盟した。だが十年後、この約束がどうなるかは、その時の政局次第だ。
統一は、未来に借金を背負うことでもある。私はそれを初めて理解した。
粉暦2年、私は議会に通貨統一を提案した。
「粉銀貨」。中央にプタンロードの道印を刻み、どの市場でも同じ価値を持たせる。
造幣所の建設には莫大な費用がかかったが、交易の活性化と税収の安定は約束された。
だが同時に、古くからの金貨文化や地方通貨を守りたい勢力から反発があった。
「盟主は我らの歴史を消すつもりか」
議会でそんな声が上がるたび、私は正面から受け止め、ひとつずつ論破した。統一に過去を塗り替える痛みは付き物だ。それでも進めねばならない。
粉暦4年には、大陸共通暦「粉暦」を公布。制定を祝う祝典では、各地の舞踏団や楽師を招き、港は三日三晩の祭りに沸いた。
私は群衆の中で、兵士や子どもたちが粉銀貨を手に笑い合う姿を見た。それは、戦場で泥と血にまみれた日々では得られなかった光景だった。
しかし、粉暦5年。
北方の一部遊牧民が盟約を破り、国境付近で農耕地を奪ったとの報が入る。
さらに西方沿岸では、かつて討伐したはずの海賊連合の残党が再び活動を始めた。
議会では、統一からわずか数年で武力行使か和平交渉かを巡り、激しい論争が起こる。
その夜、港の灯火を眺めながら、私は自問した。
――この統一は、果たして百年持つのか?
答えは、海の向こうからは返ってこなかった。
粉暦5年の夏、港湾都市エルモラの東桟橋に焦げ臭い匂いが漂った。
海賊連合の残党が、南西の孤島を拠点に再び商船を襲い始めたという報告が、立て続けに三件も届いたのだ。
その襲撃は残忍で、積荷だけでなく船員をも皆殺しにする。まるで、戦争がまだ終わっていないことを誇示するかのようだった。
議会は対応を巡って二分された。
商人派閥は「護衛船の増派で十分」と主張し、軍閥派は「根拠地を殲滅すべき」と叫ぶ。
私は両派の意見を一晩かけて聞き、翌朝、軍服に袖を通した。
「盟主自ら艦隊を率いる。南西の孤島を包囲し、海賊連合を滅ぼす」
この言葉は、議会に沈黙を落とした。盟主が前線に立つのは、統一後初めてのことだった。
出撃当日、艦隊は12隻。旗艦《黎明》の甲板に立ち、私は水平線を見据えた。
海賊との戦闘は、海図にない浅瀬と暗礁が連なる危険海域で行われた。敵は小型の俊足船を駆り、我らを翻弄する。
三日三晩に及ぶ追撃戦の末、ついに孤島を包囲。砲撃の轟音が夜を裂き、炎が海面を赤く染めた。
生き残った海賊の頭目は、私の前に引き立てられた。
「戦は終わったはずだ」
私がそう告げると、男は血の混じった笑みを浮かべた。
「戦は終わらん。あんたらが作った統一は、海の底よりも脆い」
その言葉は、勝利の味を塩辛くした。
孤島を制圧しても、海の治安は完全には戻らなかった。統一の旗が大陸を覆っても、波間の影は消えない。
私はそのことを痛感した。
海賊討伐から戻った翌月、北方国境から急報が届いた。
条件付き加盟を受け入れたはずの遊牧同盟の一部が、農耕地を侵略している。
彼らは十年の税免除を勝手に延長し、放牧地を拡大し続けていた。
「盟主、今すぐ遠征軍を派遣すべきです」
軍閥派の将軍が進言する。
だが商人派は、「遠征は交易を混乱させる。まずは交渉を」と反対。
議会は再び膠着し、私は両派の狭間で判断を迫られた。
私は最終的に、少数精鋭の「警備遠征軍」を派遣するにとどめた。
全面戦争は避けたかった。北方はまだ統一の一部であり、火種を大きくすれば、それは連鎖して大陸全土に飛び火するだろう。
遠征軍は侵略地を奪還したが、北方遊牧民の不満は消えなかった。
撤退前夜、遠征軍の隊長から密書が届いた。
「北方の若者たちは、盟主を敬っていません。彼らは、自分たちこそ真の支配者だと信じています」
その文を読み終えたとき、私は重い鉛を胸に呑み込んだ気がした。
粉暦5年の冬、港は例年よりも静かだった。
海賊討伐の戦費と北方遠征の出費が重なり、交易船の数が減ったのだ。
市民たちはまだ私を「統一の英雄」と呼ぶが、その声の奥に、税負担への不満が混じり始めているのを感じる。
私は城の執務室で、窓の外を舞う雪を眺めながら思った。
統一とは、勝ち続けることではない。負けをどう抑え、損をどう分け合うかの知恵だ。
しかし、その知恵が私の中にどれほどあるのか――まだわからない。
リュシアン副官が入室し、手紙を差し出した。
それは北方のバルガからだった。
「盟主よ、我らはまだ友である。しかし、友であるうちに条件を守れ」
短い文だったが、脅しにも忠告にも取れる。
私は手紙を炎に投げ入れ、静かに燃える様を見届けた。
港の夜明けは、かつてと同じ潮の匂いを運んでくる。
だが私の耳には、波音の奥に別の音が聞こえていた。
それは、遠く離れた北方の馬の蹄音であり、西方の山岳に潜む反乱者たちの息遣いであり、海の向こうで帆を張る見知らぬ船の軋みだった。
統一は始まったばかりだ。
そして私は、その重みを背負って歩き続けねばならない。
どれほど海が穏やかに見えても、その下には渦が潜んでいる――それを忘れた瞬間、この大陸は再び血に染まる。
私は拳を握り、次の一手を思案した。
粉暦の旗はまだ風を孕み、大陸の空に翻っている。