危機一髪
「ここが君の部屋だよ、リーネ!」
煌星の国の王子・カーリドが、胸を張って船室の扉を開けた。
内装は装飾過多で、床には金糸の敷物、壁には香辛料の香りが漂う織物。天井には煌めくランプまでぶら下がっていた。
「どう? 砂漠の花嫁にふさわしい空間だと思わない?」
「無駄に豪華すぎて目が痛い」
「褒め言葉と受け取っておこう!」
敬語を使うのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
私は深くため息をつき、椅子に腰を下ろす。
船はまだ出港していないようで、微かに聞こえてくる港の喧騒にほっとする。
「準備に手間取ってるの?」
「ああ、どうやら積み荷の調整が遅れていてね。風待ちもあるとか。出発はあと少しかかりそうだ」
「そう……」
カーリドはベッドの端に腰を下ろし、にっこりと笑った。
「ま、結果オーライだね。こうして君とふたりきりの時間ができたし!」
王子は長い足を組み直し、何やら考え込んでいたが、ふと顔を上げると悪びれもせず口を開いた。
「ねえ、リーネ。やっぱりさ――結婚する前に、既成事実って作っておいた方が良くない?」
「……は?」
「いや、変な意味じゃなくて!たとえば……手を繋ぐとか、部屋にふたりきりで泊まったとか……うーん、そういうのって、正式な婚約を早める手段としては有効というか!」
「……全部変な意味にしか聞こえないわ」
「いやいや、焦ってるわけじゃないんだよ?ただ、“先に一歩進んでる”ってアピールしたら、うちの父上も認めやすいかなって思って!」
「勝手に認めさせようとしないで」
カーリドはなおも笑顔で言葉を続けた。
「ほら、もうこの部屋に一緒にいる時点で、わりと既成事実な空気じゃない?」
「あなたが勝手に用意した部屋に連れてこられただけだけど」
「そんな冷たい顔しないで」
カーリドが私の目の前にしゃがみ込むようにして視線を合わせてきた。
その手が手元にじわじわと伸び、熱を帯びた目で言葉を継ぐ。
「君が“嫌じゃない”って言ってくれたら――この距離なんて、きっと自然なものだと思わない?」
自分でもはあからさまに顔を引きつっているのが分かる。
どうしよう。
とりあえず武器になりそうなものを探すと、きらきらした壺が目に入る。
「私は嫌だって言ってるし、そもそもっ」
そのとき、カーリドの手がぐいとリーネの手を握る。
一瞬、引こうとしたが、力が強くて身動きがとれない。
「ちょっと、離して」
「緊張しなくていいよ、リーネ。私は優しい。君が望むなら、誓いのキスからでも」
(なにこの距離……何この展開……っ!)
カーリドの顔がぐっと近づく。
あと数十センチで触れてしまう距離。リーネの背が椅子の背に当たり、逃げ場がなくなる。
その瞬間――
バンッ!!!!!!
扉が開け放たれ、カイルが立っていた。
目の前の光景を見た瞬間、彼の動きは迷いなかった。
振りかぶった拳が、カーリドの頬をとらえた。
王子の身体が宙を舞い、背後の豪華な寝台に文字通り吹っ飛んだ。
「リーネ!!大丈夫か!?」
驚くほどの速さでリーネに駆け寄ったカイルの目は、怒りと安堵と、言いきれない感情で揺れていた。
「……うん。大丈夫」
リーネは小さく頷いた。
「な、なんだ、君は!? いきなり!煌星国の皇子に!暴力って!――って、顔が痛い!!!」
「自己紹介どうも。この件については追って連絡を」
顔を押さえている王子に向かってカイルは短く言い捨てると、気遣わしげな顔でリーネを見る。
「本当に大丈夫?」
「うん、ありがと……」
「……よかった」
その声は、やけに静かだった。
でも、胸に落ちるほどまっすぐだった。
「リーネ。帰ろう」
「…う、うん!」
握られた手に心臓が跳ねた。
慌ててしまった自分を隠すように、リーネは急いで立ち上がった。
「待って! まだプロポーズしてないのに!!」
鼻を押さえながら引き止めようと必死なカーリドを無視して、カイルは力いっぱい扉を閉めた。