ばか皇子
「着きました」
誰かの声で目を覚ますと、木の香りと潮の匂いが鼻を刺した。
(馬車?ここは港?)
ゆっくりと起き上がって窓から周囲を見回すと、石畳には鮮やかな絨毯が敷かれ、白い帆を張った大型の帆船がゆったりと波に揺れていた。
見慣れない衣装の人々が忙しいそうに行き交うのが目につく。
明らかに、いつもの街ではない。
私はまだぼんやりとした頭で、地面に足を下ろした。
私の両脇に黒い服を着た男二人が立っていて、隙をついて逃げるのはむずかしいなと感じた。
そんなふうに思ったときだった。
「本当に、来てくれたのだな」
低く、澄んだ声が風を切るように届いた。
ゆっくりと姿を現したのは、刺繍入りのサッシュを巻き、砂金のようなブーツを履いた青年。
深い琥珀色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
髪は黒に近いこげ茶で、陽に焼けた肌は砂漠の民のようだった。
異国の気品と、どこか夢を見ているような危うさをまとっている。
「……君を、忘れたことはない。…セリナ」
「…違います」
声が震える。
でもはっきり言わなきゃいけない。
「私、セリナじゃ、ありません。妹の……リーネです」
一瞬、男の顔が固まる。
その場の空気がひやりと凍ったようだった。
「…あの、大丈夫ですか?」
「妹……? じゃあ、君は……」
まるで信じられないというように私を見つめる視線。
その視線が、足元の石畳から、私の顔へとゆっくり移動する。
私は息を呑んだ。
後方では、船の帆がゆっくりと風を受けて膨らんでいく。
背後の護衛らしき人たちは、息を潜めて動かない。
港の空気が、ほんの一瞬止まったような気がした。
そして――
「…………可愛い。うん、いいね」
「は?」
まったく予想外のひとことが、男の口から零れた。
私は、姉のセリナ間違われて誘拐されたうえに、
今度は“間違えたけどこっちも悪くない”と評価されてしまったのだった。
「うん、リーネ」
王子は、顎に手を当てながらつぶやいた。
金色の刺繍が風で揺れ、夕陽がその横顔を柔らかく照らしている。
私はじっと黙ったまま、彼の反応を待った。
次に出た言葉は。
「さあ、行こう、我が国へ!」
「……は!?」
さすがに聞き間違いかと思った。
「え、いや。間違えたんですよね? 姉じゃなくて、妹です。私、何の関係もないです!ていうか、どちら様ですか?」
「ああ、自己紹介が遅れてすまない。私は煌星の国の皇子、カーリドだ。そして、これはきっと運命ってやつじゃないかな?」
カーリドは胸に手を当てて、真剣な顔をした。
「……それは完全に間違いを開き直ってる人のセリフでは」
「それに、名前も似てるし。セリナとリーネ……ね? 語感が……」
「いや、そこ全然関係ないですから」
私は頭を抱えたくなるのを必死でこらえた。
(もしかしてこの人、想像以上におバカ系かもしれない……)
カーリドは、見た目は誠実そうな笑みを浮かべて言った。
「君の姉君が、魅力的な人だったのは確かだ。だけど今、目の前にいる君は、それ以上に……不思議と目が離せない。だから、もう君が誰かは問題じゃないんだよ」
「え、それ本気で言ってます?」
「もちろん」
あまりにも自信満々なその笑顔に、私はなぜか反論の言葉を失った。
(この人……思い込みの暴走力がすごい)
「セレナ初めて会ったのは……たしか去年の、短期留学のときだった」
カーリドは、何かを思い出すように、港の風を見つめながら語り始めた。
「そのとき、学園で紅茶の販売会をやっていてね。香りがよくて、飲んだ瞬間に思ったんだ。この味を作ったのは、天才に違いない。それで、聞いたらこの紅茶を作ったのはセリナだと」
「なら…」
「その名を聞いた瞬間、ビビッと来たんだ。この人が、僕の未来の妃だって!」
「ビビッとくるの早すぎない?」
「残念ながら彼女の姿を見たことがなかったけれど」
「顔も知らなかったの!?」
ツッコミどころ満載で息がキレそう。
「……いや、さすがにそれで妃にしようとするの、判断が軽すぎません?」
「いや、本当はもう少しある。セリナの作品は優秀なものが多く、我が国も恩恵に預かっている。そのセリナが私を好きになれば、我が国の繁栄間違いなしだった」
「じゃあ、私では無理だわ。正式に姉のセリナにプロポーズでもして…」
(断られてこいと)
流石にここまで言うのは失礼だと思っていると
「しかし私は、君に恋をしてしまった。恋とは、理屈じゃない」
カーリドはそう言って胸を張った。
(あー、これは本気のバカだ)
私は静かに現実逃避するように、遠くの海を眺めた。