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それぞれの幸せ

春の風が、校舎裏の石壁にそよぐ草花を揺らしていた。

卒業式のあとの講堂には、まだ人の気配が残っている。


私は階段の下で、白い壁を見上げていた。

毎日通った階段。

何気なく話した廊下。

すれ違うたびに緊張した人。

笑い合った友達の顔。


「…なんだか、あっという間だったな」


背後から聞こえた声に、私は振り返った。

そこには、少しだけ制服の襟を正したカイルがいた。

変わらないようで、少しだけ大人びた横顔。


「俺たちもとうとう卒業だな」

「うん」

「俺、きっと忙しくなるけど手紙くらいなら、書けると思う」


カイル王宮の騎士としての訓練が、もうすぐ始まる。


「うん。書いて。ちゃんと返すから」


そう言うと、カイルは照れたように笑った。

一番大好きなカイルの笑顔。

何年も、ずっと変わらなかった。

お互い口を閉ざすと、遠くのほうで聞こえるにぎやかな声が聞こえる。

二人で静かな時間。

言葉がなくても通じ合える感覚が、心地よかった。




卒業してからの私は、姉のセリナの商会の手伝いをしている。

事務仕事や伝票の整理。

地方とのやりとりや、小さな交渉にも顔を出すようになった。

自分で言うのもなんだけど、向いている気はしない。

でも、セレナは笑って「助かるよ」と言ってくれる。


「夢はあるの?」

昔そう聞かれたことがある。


そのたびに私は困ってしまった。

だってなりたいものなんて、なかったから。

静かに暮らして、そっと笑って生きていたかっただけ。

でも、いまは思う。

誰かに必要とされている今の私も、きっと悪くない。

夢じゃなくても、ここが私の居場所だ。


セリナはあちこちを飛び回りながらも、私には昔と変わらぬ笑顔を向けてくれる。

「少し痩せたんじゃない?」と口うるさく言ってくるのも相変わらずだ。

けれど、セリナがふと遠くを見つめているとき、私はその視線の先を知っている。

レオニスは各国をまわって外交の任に就いている彼は、タイミングが合えばセリナに会いに来る。

公ではないけれど二人の間にあるあの空気は、もう誰も否定できないと思う。



ユリスはレオニスの補佐官として、目まぐるしい日々を送っているそうだ。

たまに集まる女子会でユリスの話題になると、フィオナが優しく笑う。


「困った人だけど、頼もしいわ」


そう言ったフィオナの横顔に、もう少女らしい迷いはなかった。

みんな、少しずつ大人になっていく。

未来へ向かって歩いていく。

私の『なりたいもの』は、結局見つからなかった。

カイルと交わした手紙が、今も机に並んでいる。

セリナの店の帳簿には、私の字で書かれた数字が並ぶ。

誰かの支えになっている、そんな実感がある。

春はまだ少し先。

けれど冷たい風のなかに、ほんのりと花の香りが混じりはじめた。

今日は、なんでもない一日。

でも私は今日も、笑っている。


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