大葉の天ぷらが食べたい
「お父さんの仕事についてきたいなんて、珍しいね」
軽い口調でセリナが振り返る。
朝のまだ柔らかい光の中、その声だけが妙に明るく響いた。
「うーん、ちょっとね」
そう言ってセリナから視線を逸らす。
最近セリナは自分の店舗を構えるため、色々準備をしている。
相談や帳簿のやりとりも本格的になってきて、姉はすでに経営者の顔を見せはじめている。
家に帰ってきたばかりの兄は、父のあとを継ぐべくさらに勉強をしている。
カイルもまた、騎士として進む道を選び、黙々と鍛錬を続けている。
隣に立つその背中は、少しずつ遠くなってきた気がした。
(……みんな、前に進んでる)
自分だけ、何もない。
特技も、大きな夢も。
家業を継ぐ予定もなく、目立たないようにしてきた自分には、何かを始める理由もなかった。
前世ではなんとなく学校に行ってなんとなく就職して、なんとなく結婚…は、してない気もするけど、目の前にあるレールに乗ってなんとなく過ごしていた。
だからこそ、何か小さな一歩でも……探せないかな。
誰にも言わず、そっと思った。
馬車で小一時間ほど走ったころの小川沿いの林で、休憩をとることになった。
馬をつなぎ水袋を満たしたり、荷を点検したりみんなてきぱき動いている。
邪魔になりそうなので私は馬車のそばから少しだけ離れ、小さな斜面の草むらを眺めていた。
そこに――ふいに風が吹き抜けた。
「……あれ?」
鼻先をかすめたのは、なつかしくて、鮮烈な香り。
胸の奥に一気に広がるような、澄んだ青葉の香りだった。
「この香りは…!」
思わず立ち上がる。
懐かしい。
懐かしすぎて、胸がきゅっとなる。
香りに引き寄せられるようにふらふらと進むと、足元には小さなの葉。
間違いない大葉だった。
(……大葉だ。間違いない。大葉……!)
おにぎり、天ぷら、漬物、サラダ、そうめん――
前世の記憶の中で、大葉を使った料理の数々がよみがえってくる。
香りだけで、涙が出そうになるほど。
(でも……)
伸ばしかけた手を、リーネは引っ込めた。
お父さんからは「この辺の草には毒がある。むやみに触れるな」と言われていた。
(セリナなら……きっと分かってくれるのに)
でもセリナは今、父と真剣な表情で商談の最中だ。
声をかけられる雰囲気じゃないし。
そもそも、なんて伝えたらいいかも分からない。
リーネはそっと、大葉のそばに立った。
草の上に腰かけて、わざと髪を結び直すふりをしたり、手帳を取り出してみたり。
「景色キレイだなー」
少しでもセリナの目に止まるように。
風が吹くたび、香りが届くように。
けれどセリナはこちらを一瞥することもなく、商人の話に頷いている。
(……やっぱり無理かな)
そっと息を吐いて、リーネは立ち上がった。
もう少し風が強かったら。
もう少し自分に覚悟があったら。
そんなことを思いながら。
馬車の陰から覗く大葉の葉は、まだ揺れている。
香りは、確かにそこにあった。
けれど、それに届くことはなかった。
夕暮れ。
屋敷に戻り、夕食の準備が整う頃には、私はの中で大葉の想いもだいぶ薄れていた。
もう仕方ない。
一言えなかったし、仕方なかった。
毒草の可能性もある、知らない葉っぱを「知ってる香りだったから」とはさすがに言えない。
馬車に乗る直前、思いきって口にしかけた言葉も、結局飲み込んでしまった。
胸の奥には、うっすらとした悔しさが残っていた。
けれど、その日の夕食。
テーブルに並んだ皿の中に、思わず言葉を失う。
小さな小鉢に盛られていたのは、細く刻まれた緑の葉。
見間違えるはずもない、あの時、あの草むらで香ったあの葉っぱだ。
「ねえこれ、すごく香りがよくて。初めて見るのに、なぜか合うって確信があって」
セリナが目を輝かせながら言った。
まるで宝物を発見したように。
「お父様にも安全確認してもらって、ちょっとだけもらってきたの」
夕食の席に並べられたおかずのひとつ。
揚げたての衣がほんのり黄金色に透けていて、どこかで見覚えのある形。
「これって……」
リーネが箸を止めたまま見つめていると、セリナがにっこりと笑った。
「オーバの天ぷらよ。今日の帰りに、たまたま見つけたの。香りが気になって」
その瞬間、胸の奥がきゅうっとなった。
言い出せなかった、あの香り。
(セリナも気づいてたんだ)
みんなが食事の席についたところで早速、大葉の天ぷらを手に取る。
ひとくち、口に運ぶ。
ふわっと香る緑の風。
カリッとした衣の奥に、優しく主張する風味。
その美味しさに、思わず目を見開いた。
「……おいしい!」
ぱっと笑顔がこぼれた。
セリナは得意げに胸を張る。
「そうでしょう! でも、ちょっと癖があるから好き嫌いは分かれるかも。兄様なんて、眉間にしわ寄せてたわ」
私はは笑いながら、もう一枚そっと箸でつまむ。
「私は大好き。なんにでも合いそう!」
「ふふっ、私もそう思うの。たとえばハンバーグの付け合わせに、大根おろしと一緒に乗せてみたり。そのままごま醤油に漬けても、絶対に美味しいわ」
「さすがセリナ! 美味しそう!」
私の弾んだ声に、セリナがくすっと微笑む。
「やっぱり、リーネとわたしの味覚は合うわね」
たった一枚の葉っぱがくれた幸せ。
私の胸の中に、あたたかな充足感が広がっていた。




