兄帰還
秋の風が、街の石畳をやさしくなでていた夕暮れ時。
その静けさを破るように、軽やかな馬車の音が屋敷の前で止まった。
玄関の扉が開いたと同時に、弾けるような声と、ひときわ上等なコートを翻しながら飛び込んできた青年がいた。
「ただいま、セリナ!リーネ!会いたかったぞーっ!」
整った顔立ちに上質な身なり、しかし笑顔はどこまでも無防備であたたかい。
私とセリナが声を上げる前に、ルシアンことルシ兄にぎゅっと抱きしめられていた。
その腕は長く、そしてとても優しい。
「ふたりとも……変わらず可愛い……いや、むしろ輝きが増している……尊い……」
「や、やめてよルシ兄、恥ずかしい……!」
「尊いは褒め言葉だよ、リーネ。君は成長の奇跡だ。セリナも女神性が増している……いや、姉妹で世界遺産か……」
「ルシアン兄様ちょっと落ち着いて!」
唖然とする私たちをよそに、ルシ兄は本気で感動していた。
涙を拭いながら、改めて屋敷を見回す。
「この景色も変わってない。ああ、父さんただいま」
「おかえり、リリーナ」
父は長男が目に入っていないようだ。
「ルーク!」
父が呼んだのは母の名前だ。
絹のような髪を優雅に結い、花の香りをまとったような美しい人。
気品があるのに親しみ深く、微笑むだけで周囲の空気をやわらげる。
「リリーナ。一年前に会ってから全然変わってないいや、むしろ前より綺麗になってないかい?」
「ふふ、あなたがちゃんと食べてたか心配だったのよ」
抱き合う両親は完全に二人の世界だ。
しばらくして、そういえばといった風に父さんがルシ兄を見た。
「ルシアンも変わらず元気なようで何よりだ……留学中の話は食事をしながら聞こうか」
「はい、父さん!」
微笑む母と、ちょっとだけ口元をゆるめる父。
流れる空気はあたたかく、それだけで「家に帰ってきた」と感じさせるものだった。
「やっぱり我が家が一番だ。なにより、可愛い妹たちに会えたのが嬉しいよ」
その視線はまっすぐで、やさしくて、ちょっと重い。
「リーネ、成績が良かったって手紙にあったな。えらいぞ。……ん? 髪、少し伸びたか? いや、肌も……発光してる? 天使化が進んでる……?」
「ルシ兄、怖いよ」
「セリナ、商会手伝いながら自分の店を出す準備をしてるなんて。もはや完成されてる。尊敬してる。いや、独り立ちは寂しい!」
「ルシアン兄様…」
「ああ、久しぶりのルシ兄とルシアン兄様。あとで日記に記録しないと」
「記録!?!?」
そんなやりとりが響く玄関先。
すっかり日は暮れていたけれど、屋敷の中はやさしい光と家族の笑い声であふれていた。
その日の夜は、家族揃ってのささやかな食事会が開かれた。
オーブンから漂う香ばしい香り、器に盛られた温かな煮込み、そして食卓に灯された優しい光。
「それでな、学会の討論会で取り上げられた論文が、ちょうど父さんが昔翻訳してた文書の流れを汲んでたんだよ」
「へえ、それは偶然とは思えないわね」
「うむ、フィルシス商会の名もそれなりに知られてたらしくてな。おかげで話が早かった」
ルシアンが海外での体験を語るたびに、父は頷き、母は穏やかに微笑んだ。
話題がセリナの商品に及ぶと、彼はぱっと顔を輝かせる。
「帰ってくる前に店を少し見てきたぞ。セリナの商品もたくさん扱っていた。すごいじゃないか、あれは町の誇りだ!」
「私の作ったものはそんな大したものじゃないわ」
「いや、僕の目は誤魔化せない。ディスプレイの並べ方や香りの選び方、あれは努力の証だよ。さすが我が妹!」
「わ、わたしだけじゃないから!リーネも色々手伝ってくれたし」
「リーネは天使だからな!」
「何言ってるの兄さん…」
セリナもリーネも呆れ返ってしまったのを、母がくすくす笑って見守っていた。
こうして、懐かしくも賑やかな夜が更けていった。
放課後。
机に教科書を片付けていると、隣に座ってきたのはカイルだった。
「ルシアンさん、帰ってきたんだって?」
「うん、昨日の夕方に。急に帰ってきてびっくりしたよ」
笑いながら答えると、カイルも「だろうな」と小さく笑った。
カイルはわたしと同じ年の幼なじみで、家族同然のつきあい。
もちろん、兄のルシアンのこともよく知っている。
「昔から、姉妹に近づこうとする男子はだいたい牽制されてたよな……俺も最初の頃はちょっとビビってた」
「え、そうなの?」
「でも何故か俺は気に入られてた。理由は今でもよくわかんないけど」
「……そういえば、兄さんよくカイルと話してたもんね。カイルくんは素直で良い子だって言ってたよ」
「褒められてる気がするけど、なんか怖いな」
そうやって軽口を交わしていたちょうどそのとき、外から、わあっと歓声のようなものが聞こえた。
「なんか、騒がしくない?」
窓際に移動して外をのぞくと、学校の正門の前に人だかりができている。
中心にいるのは、明らかに目立つ存在。
太陽の光を跳ね返す金髪、優雅な仕草、そして無敵の笑顔。
「兄さん……!?」
ルシアンが門の前で出待ちしていた。
しかもなぜか女子生徒に囲まれて、質問攻めにあっている。
「キャー! どちら様ですか!?」
「セリナ先輩のお兄さん!? やばい綺麗……!」
「リーネちゃんの家族!? ずるい……!」
セリナとルシアンは母似の整った顔立ちをしている。
キラキラしていて、どこか物語から出てきたような印象だ。
ちなみにわたしも母に似ている部分はあるが、全体的には父譲りのやわらかい印象。
目元の形も表情も、どこかほっとする“優しい顔”だとよく言われる。
「何してんの、ルシお兄様」
ぼやきながら正門まで歩いていくと、ルシアンは満面の笑みで手を振った。
「やあリーネ! 待ってたんだよ。今日はちょっと用事があってな。よければ、帰りに栗のタルトを食べに行かないか?」
「え、栗……? 兄さんって甘いもの食べたっけ?」
「ふふ、リーネのためにリサーチしてきたんだよ。街で評判の新作だって。秋といえば栗だろう?セリナは一緒にじゃないかな?」
「今日は生徒会の集まりで残ってるらしみたい」
「ならば仕方ないな。与えられた仕事を全うすることは大事だ。じゃあ、カイルは空いてる?」
「相変わらずだね、ルシアン兄さん」
「おう!、でケーキ食べに行く?」
「俺も生徒会終わったら、騎士科の鍛錬があるんで」
「そっか。残念だな〜。じゃあ、リーネ、二人で行こうか!」
ルシアンの笑顔は、秋の光に照らされていっそうまぶしい。
一瞬ためらったものの、きらきらした押しに負けて、リーネはふっと肩をすくめた。
「……まあ、予定もなかったし、いっか」
「よし! じゃあ行こう、栗の季節を逃す手はない!」
腕を差し出されて、ちょっと恥ずかしそうに距離を取るリーネ。
そんな様子を見ながら、カイルいってらっしゃいと笑顔で送りだした。




