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「へっくしょん!」
隣を歩いている友人から顔を背けて派手なクシャミをし、界は鼻をすすった。学生服に身を包んで共に学校へと向かっている賢斗が、その音に反応して訝しそうな表情を傾けてくる。
「風邪か?」
尋ねてくる賢斗の口調に不審さは感じられず、彼が眉根を寄せたのも友人を気遣ってのものだったらしい。爽やかに晴れている春の朝には不釣合いなほど体が重く、真冬のような寒さが背筋を走っているような気がしたが、界は苦笑で誤魔化した。
「信濃~」
学校へと向かう畦道を特に急ぐでもなく歩いていると、どこからか界を呼ぶ声が聞こえてきた。背後から追いついてきたのはクラスメート達の一団で、彼らは界の横にいる人物を見るなり驚いたように目を見張る。
「長井じゃん。なんか、久しぶりだな」
春になってからというものめっきり学校へは姿を現さなくなった賢斗は、瞬く間にクラスメート達に囲まれた。久しぶりの再会を喜んでいるクラスメート達と、そんな彼らに接して少し困ったようにはにかんでいる賢斗。そんな和やかな光景から一歩離れて歩きながら、界は日常を取り戻した友人の背中を見つめていた。
亡き姉を思うあまり無気力になってしまった賢斗は『聖域』で無為に時間を過ごしていることが多い。純白の桜が咲き乱れる山の頂は女神の領域なので、そうとは知らずとも彼女の気配が賢斗に影響を及ぼしているのだろう。おそらくは安心感が違うのだろうが、その安息に浸るということは賢斗が日常を失うということに他ならない。彼女以外の現実を生活から切り離してしまっては更生することは難しく、それだけは避けなければならないと考えている界は、これからは朝、できるだけ賢斗を誘いに行こうと密かに思った。
クラスメート達と談笑していた賢斗がふと、何かに目を留めて顔を傾けた。その視線の先を辿って、界は「ああ……」と胸中で呟いてみる。友人達の髪を優しく揺らしている春風は薄紅色の花弁をも宙に舞わせていて、春色に染まる村を幻想的に彩っていた。
(……他に方法があるなら、とっくにやってるよ)
意固地なまでに賢斗と女神の再会を拒絶する雪の発言を思い返した界は一人、春の美しさを愉しむことも出来ずに人知れずため息をついたのだった。
花曇りの空の下をクラスメート達と歩いていた賢斗は山の頂へと続く石段の手前で彼らと別れ、一人で階段を上っていた。石段を上って行くと頂へ辿り着く前に界の家があるのだが、彼は体調不良で早々と帰宅したため一緒ではない。山の中腹にさしかかった賢斗は界の家がある方角を一瞥して帰りに寄ろうと思い、足を止めることはしなかった。
麓から山の頂へと続いている、長い長い石段。傾斜の緩い、この石段の周囲は木々に囲まれていて、桜の時期が終われば瞬く間に新緑が芽吹く。深い緑の日も、冬枯れの木立が寒々しい日も、この石段を上ることが賢斗の習慣なのだ。それは虫取り網と虫かごを担いで走り回っていた幼い頃からのことなのだが、日課となってしまったのはやはり、姉を亡くした二年前の春からだった。
村にも山頂にも桜が舞っている春は、他の季節よりも格段に孤独が身に染みる。目に焼きついて離れない姉の死に際が、窓辺に咲いていた桜と共に鮮烈な記憶として蘇るからだ。その痛みを少しでも和らげたくて、賢斗は『聖域』に足を運ぶ。しかし今日、久しぶりに会ったクラスメートや個人的に心配してくれた担任教師の言葉を聞いて、賢斗はそれではいけないと思い始めていた。
最後の肉親だった姉を亡くした時から周囲に心配をかけていたことを、賢斗はちゃんと知っていた。だからやるべきことはやらなければならないのだと、思う。姉の死からすでに二年の歳月が経っているのだから、ケジメをつけようと思うことさえ遅すぎるのかもしれない。だがそれでも、賢斗は『聖域』へと足を向けてしまっている。頭で理解することと心が対応できることとは違うからだ。
(姉さん……)
春の息吹に包まれていると、真っ白な病室で横たわっていた姉の姿が浮かんでくる。痩せ細った彼女の肌は血管が透けて見えるほど白く、眠るように目を閉じている顔は白粉でも塗っているかのようだった。病室の窓から見えた桜も春の日差しに照らされて白銀に煌いていて、賢斗の視界を白く染めていく。そうして何も考えられなくなって、賢斗は山の頂へと足を運ぶのだ。純白の桜が咲く空間の清涼な空気が肺を満たすと、そこで初めて呼吸ができたような、そんな気がするから。
(……?)
いつものように石段を上っていた賢斗はふと、山の頂に辿り着く前に足を止めた。目前にはまだまだ石段が連なっていて、純白の桜に染め上げられているはずの山頂の景色はまだ見えない。少しずつ緑が芽吹いてきている周囲の風景も常と変わらないものだったが、賢斗は違和感を拭い去ることが出来なかった。
(さっき、界の家を通り過ぎたよな?)
山の中腹にある界の家を通り過ぎ、さらに頂まで石段を上る。一本道のうえ毎日のように足を運んでいる場所だ、間違えるはずもない。しかしそれでも、今日は一段と石段が長く感じられた。首を傾げながら、賢斗は再び石段を上り出す。だがいつまで上っても石段は途切れることがなく、周囲の風景も変わることはなかった。
「へっくしょん!」
私室で派手なクシャミをした界は鼻をかんでから、畳に敷かれた布団に体を潜り込ませた。朝の比ではない寒気が熱を持った体を容赦なく蝕んでいて、界は上掛けを口元まで引き上げる。
(あ~、ちくしょう)
やっぱりかと、界は胸中で悪態をついた。昨夜、雪に池へと突き落とされたせいで風邪をひいてしまったようである。
「界、入るわよ」
障子の向こうで母の声がしたので界は布団の中で寝返りをうった。障子を開けて現れた和服姿の母は手にタオルやら氷やらを持っていて、息子の顔を見るなり小さく眉根を寄せる。
「やっぱり風邪ね」
「もう原因も明らかだしね」
「そうね。この時期に水浴びなんかしたら風邪をひいてもおかしくないわね」
「好きでやったんじゃないんですけど……」
「はいはい」
氷を運んできたせいで冷えている母の手が、界の額にそっと触れた。仰向けに転がった界は熱を発している体を優しく癒すような冷たさに身を委ね、静かに目を閉じる。しかし癒しの手は、すぐに界から離れていった。
「だいぶ熱があるわね」
「だろうね」
「それじゃ寒いでしょう? 後でかけ布団をもう一枚持ってくるわ」
「そうしてくれると嬉しい」
「食事は部屋でとりなさい」
「わかった」
必要な事だけを短く告げると、界の母は濡れタオルを息子の額に置いてから去って行った。縁側の軋む微かな足音が遠ざかるのを聞きながら、界は熱い呼吸を繰り返す。そうこうしているうちにまどろんでいたのだが、悲鳴に近い声を聞いて界は目を開けた。
「界っ!!」
庭からやって来た緊迫感に、界は慌てて飛び起きる。重い体を引きずりながら縁側へ出ると、そこには真っ青な顔をした賢斗が立ち尽くしていた。
「賢斗? どう……」
「界! どうしよう!! 俺……」
「落ち着け。何があった?」
「俺、あの場所に行けなくなっ……」
全てを言い終わらないうちに、賢斗は口元を抑えてしゃがみこむ。瞠目した界は友人の体が地に吸い寄せられる光景を目にして、草履も履かずに庭へと下りた。
「賢斗? おい、賢斗!!」
倒れこんだ賢斗を助け起こそうとして、界は自らも激しい眩暈に襲われた。視界が急激に歪んで、手を触れているはずの友人の体さえぶれて見える。まずいと思ったのも束の間、界の意識もそこで途絶えてしまった。




