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山頂と裾野に広がる村を結ぶ石段で友人の賢斗と別れた後、界は山の中腹にある自宅に戻った。玄関を開くとすぐ物音を聞きつけた母親が出迎えに来てくれたので、界は背筋を正しながら帰宅のあいさつを口にする。
「ただいま」
「おかえりなさい」
柔らかな物腰ながらもはっきりとした物言いをする界の母親は、平素から和装を崩さない人物である。信濃家の有する家屋はどれも古風な日本建築のため、彼女の居住まいは嫁いだ先の慣習を受け継いだものなのかもしれなかった。
洋装よりも和装の方が自然体な界の母親は、玄関先に佇んだまま息子に向かって微笑みを浮かべている。何か含みがありそうな笑い方だと思った界は小さく眉根を寄せた。
「なに?」
「雪ちゃんが来てるわよ」
その一言に界が顔を強張らせた刹那、母の背後から幼女が顔を覗かせた。雪という名の彼女はその名の通り透きとおるような肌色をしているので、薄紅色の和服がよく似合っている。母の後ろから出て来た雪は、そのままの勢いに任せて界に飛びついた。
「おかえり!」
「うわあっ!」
まだ靴も脱がずに立ち尽くしていた界は真正面から突進して来た雪を受け止め、体を回転させようとしたところで倒れこんだ。靴箱に背中を強打した界は苦悶の涙を目尻に浮かべたが、雪は気にすることなく甘えてくる。
「界、おかえり~」
「おかえりじゃねぇ!」
他人の痛みなど知ったことかと言わんばかりに雪がベタベタしてくるので界は抗議の声を上げた。しかしすぐ、顔を上げた雪と目が合ったので界は閉口する。界の腕に護られるように抱かれながらも、彼女の瞳には上から他者を見下ろす者の圧力がこめられていたのだ。
「界、ただいまは?」
「……ただいま……」
「おかえり!」
界が大人しく言いつけに従うと雪はまた無邪気な笑顔に戻った。再び首に腕を回された界はうんざりしながらも雪を片手で支えながら体を起こす。いつの間にか母の姿も消えていて、界は小さくため息をついた。
「ずっと、見てたんだろ?」
「ええ。だって私の守護域だもの」
「お姫さんの様子は?」
「絶対安静! あんなおバカなことしたんだもの、当然よ」
自分の主人を『バカ』と言い切った雪の率直さに界は呆れてしまった。しかし雪の主人である『守護者』の人柄を思えば、穏やかすぎるくらいの主人にはこのくらいの『使い』でないと駄目なのかもしれないとも思う。久しく対面していない『守護者』に思いを馳せ、界は重い息をついた。
(会わせて、やりたいんだけどな)
山頂にある離れで独り寝転んでいた友人のことを思うと、界はそう考えずにはいられなかった。賢斗の姉である美也子が亡くなってから、もう二年も経つ。いつまでもあんな状態ではいつ病気になってもおかしくないのだ。
「絶対ダメ。却下よ」
雪の厳しい声が飛んできたので思考を中断させた界は彼女に視線を傾けた。
「まだ何も言ってないだろ?」
「目は口ほどにものを言う。界の考えてることなんてすぐ分かるわよ」
「なんとかならないか?」
「無理。なんともなんない」
単純なのは認めて頼んでみても、雪から返ってきたのはすげない拒絶だった。雪にこうまで言わせるほど無謀なことを、彼女の主人はやったのだ。そのことは界にも解っていたので、しつこくすることはせずに口をつぐむ。雪は少し苦い表情になりながら言葉を続けた。
「まだ実体も形成出来ないのよ? 無理に決まってるじゃない」
「どのくらい時間がかかりそうなんだ?」
「さあ? まずは意識を取り戻していただかないと何とも言えないわよ」
そうかと呟いたきり、界は唇を結んだ。出来れば、賢斗には自力で立ち直ってもらいたい。しかし賢斗にそんな器用な真似が出来ないことは他ならぬ界自身が一番よく知っていた。
「界、まだそんな所にいたの?」
雪ではない者の声がしたので界は物思いを断ち切って目を上げた。いつの間にやら姿を消していた母が再び玄関先に戻って来ていて、立ち尽くす息子を見つめている。
「早く着替えてらっしゃい。雪ちゃん、もうすぐご飯ですからね」
「はぁい」
界の腕から身軽に飛び降り、雪は母の後ろに着いて廊下の奥へと去って行った。もうすぐ夕食だと言っていたので、おそらく父を呼びに行くのだろう。玄関先に一人取り残された界は落ちていた鞄をすくい上げ、そこでようやく自宅の敷居を跨いだのだった。
裾野に広がる村に下り立つと、そこは黄昏の世界だった。山間の日暮れは早く、夕焼けに染め上げられた村では通り過ぎる家という家から夕飯の香りが漂っている。あの家々には間もなく、帰宅する者に安らぎをもたらす暖かな光が点るだろう。
昼と夜の狭間を独りで彷徨っていた賢斗が帰宅したのは、照明が必要なほどの闇が訪れてからだった。待っていてくれる人のいない家に明かりが点っていることはなく、賢斗の家からは夕飯の香りが漂ってくることもない。帰り着くまでに目にした光景との露骨な違いは胸を軋ませ、賢斗は暗い玄関先で俯きながら自分で明かりを点した。
廊下の明かりはそのままに、賢斗は一階にあるリビングへと移動した。明かりを点したところでリビングは無音のままであり、静寂が重く圧しかかってくる。しかしテレビをつけたところで虚しさを助長させるだけだと分かっているので、賢斗はそのままダイニングテーブルに腰を落ち着けることにした。
キッチンとリビングの狭間にある食卓で、現実から置き去りにされたままの賢斗はぼんやりと空を見つめた。主を失ったキッチンは片付けられたまま埃を積もらせていて、長いあいだ人の手が加えられていないことを静かに物語っている。久しぶりに座ってみたダイニングテーブルの上も、また同じことだった。
果たして、この家へ帰って来る意味はあるのだろうか。たった一人、何もすることもなく、賢斗は思う。この家へ帰って来ても思い出すのは、楽しかったことよりも辛いことばかりだからだ。
賢斗は四年前に交通事故で両親を亡くしており、二年前には唯一の肉親だった姉までもが病に奪われた。独りきりになってしまった二年前から、賢斗はこの家に寝るためだけに帰宅している。それ以外の時間は界の家の離れがある山頂で過ごしているのだが、それにはある理由があった。
目を閉じると、瞼の裏に幻想の桜が浮かび上がってくる。春風に枝を揺らされて白い花弁を散らせているのは山頂に咲き乱れている桜のようであり、姉が逝ったとき窓の外に見えていた桜のようでもあった。二年前のあの日、病室の窓から見えた薄紅色の桜は陽光に透かされて、花びらが白く輝いていたのだ。
(姉さん……)
いかないでと言うことも出来ず姉を見送った痛みが胸の奥底で疼き出し、賢斗は顔を手で覆ってからきつく唇を噛みしめた。




