長恭との別れ
十月に散騎侍郎の職に就くと知らされた青蘭は、長恭との別れを予感する。
★ 封家の宴 ★
九月の下旬になると、後苑の山茶花の赤い花が咲き、乾いた寒い秋の風が吹き始めた。木々はその葉を黄色や赤に染めて、最後の命の輝きを見せている。
北朝の中でも、西魏は鮮卑族の習俗を守り漢人の登用は希であった。しかし、産業の発達している北斉では、高歓が名門高家の末裔出ることを標榜しているため、漢人の登用も盛んであった。
北魏の時代に臣従した封家も、高官ではないものの確固たる地位を築いていた。新しく造営した封家の庭園では、秋の紅葉を愛でる宴が催されていた。
「子叡が我が家の宴に来てくれるとは、嬉しいことだ」
封元倩は、笑顔で長恭の杯に酒を注いだ。高長恭は、学堂内では高子叡として皇子の身分を隠していた。
「いやあ、今まで不調法をした。これからは他の弟子と親しく付き合いたい」
長恭は、そう言うと隣に座っている青蘭を見た。以前は、あからさまに他の弟子を避けていた長恭が、最近は進んで学士たちと議論を交わすようになっていた。
「まったくです。師兄も広く付き合いをしなければ・・・」
青蘭が上機嫌でそう言うと、元倩は青蘭の酒杯に酒を注いだ。
蔀戸を上げた東の窓から、築山の紅葉が夕日に映える。封家は、一族を官吏として送り込み蓄財に励んでいるのだろう。皇族に劣らない庭園の造りである。
庭園に見とれている長恭の目を盗んで、青蘭が酒杯を手にとる。
「おい、待て文叔」
素早く長恭が文叔から酒杯を奪いとった。
「こいつには、酒はだめなんだ。・・・ひどい酒乱で絡んで始末に負えない。・・・私が代わりに飲んでやる」
上巳節の夜の泥酔以来、青蘭は飲酒を長恭に禁止されている。記憶にないが、自分は酒に酔うと酷く暴力的になり、長恭を殴ったり蹴ったりするらしい。
「師兄、私だって、いつまでも子供じゃない」
青蘭は乱暴に酒杯を奪い返すと、封元倩や崔孝述を横目に杯に唇をつけた。
強い酒が喉をつたって流れ込み、じんわりとした温かい酩酊が全身を包んだ。西に傾いた陽光が部屋に差し込んで、ふわふわと辺りが眩しい。
青蘭は浮遊したような身体を支えようと頬杖をついた。
青蘭は、隣の清澄な長恭の姿から目が離せない。長恭の秀でた鼻梁と秀麗な眉目が、夕日を受けて深い影を作っている。もうすぐ、学堂から出て行くと思うと、切なさに胸がつまった。
「方々は、斉の現状をどう思う?」
長恭は、長い指で酒杯を持つと、花弁のような唇に運んだ。
「斉は、鮮卑族の王朝だが、漢人と鮮卑族が手を携えてこそ繁栄できるのです。我々は陛下のために政を行うべきかと」
封元倩は、真面目な顔で長恭を見た。このような政治談義は、宣訓宮では聞き得ない話題だ。
「元倩は、このままでいいと言うのか。・・・戦の手柄を笠に着た鮮卑族の横暴は目に余る。官吏は陛下に諫言すべきだ」
長恭が皇子であると知らない鄧洋宜は、怒りにまかせて卓を叩いた。
青蘭は、トロンとした眼差しで、白熱した論議を交わす兄弟弟子たちを見ていた。
『人は器ならず』
人は常に成長し、変わっていく。世の中だって、移り変わっていくのだ。きっと、二人の間の身分や国の違いも、いつかは埋められて行くに違いない。
清澄な瞳が、斉の政を論議すると熱を帯び輝いていく。美しい者に惹かれるのは、人間の本能だ。師兄と離れるなんて、とてもできない。
「君たちのような、憂国の士がいて心強い」
鮮卑族に対する批判に対しても、長恭は決して怒りの言葉を吐かない。
瞳の端で長恭が青蘭に微笑みかけると、青蘭は溜息をついて目を閉じた。
酒の弱い青藍は、酔いが回ると女子の仕草が隠せなくなる。四人の政治談義を聞いていた青蘭は、いつの間にか卓に突っ伏してしまった。
「さあ、文叔、大分酔っ払ったな。屋敷へ送って行こう」
長恭が揺り動かすと、突然立ち上がった。
「師兄、私が酔っていると?失敬な・・・私は酔ってなど・・・いない」
振り向いた青蘭はよろめきながら、トロンとした眼差しで長恭を睨んだ。すでに五杯以上の杯を過ごしている。青蘭にとって限界を過ぎている。
「さあ、帰るぞ」
肩を掴んで扉の方に行こうとすると、青蘭は、よろめきながら長恭の腕を振りほどいた。
「ふん、私は帰らない。・・・師兄は、私を馬鹿にしている。・・・子供扱いして、ぜんぜん酔っていない」
師兄は、自分を好きだといいながらいつまでも子供扱いしている。大声を出した青蘭は、大きくよろめくと扉にぶつかりそうになった。
「ぶ、文叔、危ない」
長恭はすばやく動いて青蘭を抱き留めた。すっかり酔って、男装していることを忘れてしまった青蘭は、長恭に抱きついてくる。
「師兄、師兄、私は・・・悲しい・・・いや嬉しい・・・」
すっかり酔っ払った青蘭は、眉根を寄せて長恭の肩に頬を寄せた。泥酔したまま、鄭家に帰すわけにはいかない。どこかで酔いを覚まさなければ・・・。
「封元倩、文叔を休ませたい。部屋を借りたい」
長恭は、千鳥足の青蘭の肩を抱きかかえるようにして部屋に向かった。封家のに内院は、すでに夕方の紫霞が漂っている。
「師兄、もう私は子供じゃない・・・酒だって飲めるし・・・大きなお世話」
青蘭は長恭の腕を振り払って歩き出すと、回廊の柱に頭を寄せて抱きついた。青蘭の頬はすっかり赤くなり、息も絶え絶えである。ほとんど酒を飲まない青蘭が、今日はどうしたというのだ。
「ああ、文叔、・・分かった、分かった。そうだ、もう子供じゃない」
長恭は青蘭の肩に手を回すと、あやすように髪をなでた。
「ふん、・・師兄がいなくなったって・・・絶対平気・・・」
青蘭は顔の前で手をひらひらさせると、溜息をついた。
青蘭が悪態をつくときは、本心を隠しているときだ。寂しい青蘭の心が透けて見えて、長恭は人の目も気にせず抱きしめた。
扉を開ける。偏殿は簡素な設えだ。古びた榻(長椅子)と卓があり、続きの間に榻牀(寝台)が見えるばかりである。卓の上と榻牀の枕元に、蝋燭の灯火が灯っている。
中に入ると、長恭は青蘭を榻に座らせた。青蘭は身体を投げ出すように榻に座ると、肘掛けに身体を寄せた。青蘭の顔を覗き込む。
「青蘭、大丈夫か?」
目を閉じた青蘭は、力なく苦しげだ。あんなに飲むからだ。呼吸が浅く、顔色もむしろ青ざめている。危険だ。
長恭は傍の小卓にあった椀に水を注ぐと、青蘭の唇の近づけた。清涼な水が少しずつ唇の中に入っていく。青蘭を守ると誓ったのに、こんなに飲ませるとは義兄として失格だ。
長恭は手巾を水で濡らすと、青ざめた顔を拭いた。汗で髪が顔に張り付いている。頬や額を拭っても、青蘭は起きる気配もない。汗をかいたままでは、風邪を引いてしまう。
長恭は衿をゆるめると、首筋を拭いた。白い胸元が蝋燭の灯りで、なだらかな膨らみを作っている。
「会えなく・・なる・・」
寝言のような言葉を吐いた青蘭は、空を掴むように長恭の方に手を伸ばした。長恭が手を捉えると、青蘭は赤子のような笑みを浮かべた。
お前は私が学堂を離れることを、そんなに心配していたのか。また、いつでも会えるのに・・・。
長恭は青蘭の手を離すと、抱き上げた。長恭の肩に頭を寄せた青蘭は、華奢で思いの外軽い。なぜ、初めに会ったときに女子だと気が付かなかったのだろう。
長恭は、青蘭の額に唇を当てた。
長恭は青蘭を抱き上げて榻牀に寝せた。
無心で眠る青蘭は、幼子のように安らかだ。毎日のように会っていた青蘭。これからは会える機会も限られてくる。官吏には概ね五日に一度の休みが与えられる。しかし、侍中府は皇帝に近侍する部署であるため、その限りではないらしい。
長恭は横に座ると、可憐な青蘭の顔を見下ろした。花弁のように無邪気に開かれた唇は、愛らしい。
顔色はすでに戻っている。青蘭は静かに寝息を立てて起きる気配もない。何という無防備だ。だから酒を飲むなと言ったのに・・・。蝋燭の灯りで影を作る秀でた鼻梁をなでてみる。額から、眉をなぞり睫に触ってみる。見開いたら、私に笑いかける愛らしい瞳だ。耳を触ると寝返りを打って手を伸ばしてくる。
長恭は堪らずに唇を静かに押しつけた。とろけるような唇の甘さが、理性を揺るがす。今なら青蘭の全てを奪うこともできる。そうしたら、青蘭は自分と婚儀を挙げる以外に道はない。
しかし何の疑いもなく眠っている青蘭に、無体なことができようか。一瞬の欲望が、一生の不信を招くのだ。
長恭は傍に横になると、正体無く眠る青蘭を抱き寄せた。
両親を早く失った自分は、肉親と縁が薄い。青蘭こそ、決して放したくない唯一の家族だ。茉莉花の甘い香りの中で長恭は目を閉じた。
薄絹越しに差し込む光の中で、青蘭は目を覚ました。
頭の芯が痛い。堪らず青蘭は寝返りを打った。長恭の顔が目に入った。なぜ、榻牀に長恭が?断片的な昨夜の記憶が、脳裏に浮かぶ。
秀でた鼻梁に長い睫が深い影を作って、長恭のもの問いたげな唇が美しい。
「せいらん・・・」
目をつぶったまま、長恭は腕を伸ばすと青蘭を抱き寄せた。
縹色の袖から立ち上る沈香の香りが青蘭を包んだ。ここはどこなのだ?青蘭は、天井の見慣れぬ飾りを見渡した。
昨夜は封元倩の宴で酒を飲み、政治談義が弾んで・・・。その先が思い出せない。
昨夜は二人の間に何かあったのか?青蘭は衣の乱れを確かめてほうっと、溜息をついた。よかった、・・・なにもなかったようだ。
ここは封家の屋敷だろうか?
青蘭は現実から逃れるように目をつぶった。長恭の温かいぬくもりが、青蘭を包む。
そう言えば、母上には外泊の連絡をしていない。また、母の怒りを買ってしまう。
まだ外は暁暗の中だ。朝になる前にここを出れば・・・。いや、塀を乗り越え戻るなどと、盗人にでもならない限り無理だ。
温もりは、人を愚かにする。例え十万の騎兵に囲まれようと、長恭の腕の中からは出られない。きっと、この時を懐かしく思い出すに違いない。愛する人の腕の中で、初めての・・・いや二度目の温もりだ。青蘭は、自分を誤魔化すように再び瞼をとじた。
窓から、朝の光が差し込んでくる。
青蘭は少しずつ長恭の腕を離すと、身体をずらした。隙間ができると、長恭は逆に腕に力を込めて抱き寄せた。
「青蘭、どこに行くのだ」
長恭が、目を覚ました。
「こんなとこ見られたら・・・噂に・・・」
「ここは、封氏の屋敷だ。私が寝ている部屋にだれも入ってこないさ」
長恭は皇族らしく鷹揚に言うと、青蘭を榻牀に引きずり込んだ。何という憎たらしさだ。なぜ、また泊まってしまったのだ。青蘭は己の心の弱さに唇を噛んだ。
「何で外泊を?・・・」
「私は帰ろうとしたのだが、お前が酔い潰れて帰りたくないと暴れたので、封氏の屋敷に泊まったのだ」
私は泥酔すると、暴力的になるらしい。まさか、兄弟子たちの前で・・・狼藉を働いたのか?
「私が?・・・な、何か、皆に迷惑をかけたのかしら?」
長恭の腕の中で、青蘭は上目遣いに師兄を見た。
「そうだな、・・・昨夜は・・・子供じゃないと駄々をこねたて、私の身体を叩いたり、柱に抱きついたりしていたが、それほどの狼藉は働かなかった。直ぐに寝てしまって・・・ここまで連れてくるのが重かったぞ。太ったのか?」
長恭は揶揄うように笑った。
「もう、師兄は、本当に酷いことを言って・・」
青蘭は起き上がると、長恭の頬を力いっぱい摘まんだ。
長恭と青蘭は、身仕舞いをすると封家を出て馬車で天平寺に向かった。
「屋敷へ反らないの?」
「昨夜は二人で天平寺で参拝をしていることになっているんだ。以前行っただろう?」
天平寺には、以前護持札をもらうために外泊したのだ。長恭は部屋の準備を命じたときに、知らせを送っていたのだ。
「天平寺の御札は霊験あらたかだったろう?。持って帰れば喜ばれる。母君も参拝ならうるさく言わないだろう。・・・疲れただろう?寄りかかるといい」
長恭は横に座る青蘭の頭を自分の方に倒して抱き寄せた。
上から青蘭の襟元を覗くと、長衣の首筋に、赤い花弁のような物が見える。長恭が、昨夜青蘭の胸に残したしるしだ。
着替えや湯浴みの時に、気付くに違いない。それは青蘭への約束の花押であり、決して放さないという印であった。
長恭は微笑むと腕に力を込めた。
★ 新たな出発 ★
九月も下旬になり、霜降も過ぎると顔氏邸の内院にも寒い風が吹き抜けた。
風の入らない書庫で青蘭は、長恭と向き合って書見台に座り『史記』を開いていた。両手に持った書冊の向こうに長恭の秀麗な額が見える。
封家での宴の夜は、泥酔して泊まってしまった。天平寺の護持府を渡して誤魔化したが、母上は、見抜いているに違いない。
あの夜にいったい何が起きたのか?または起きなかったのか。泥酔して気が付いたときには、長恭の腕の中に眠っていたのだ。衣の乱れはなかったが、襟元に花弁のような赤い痣が残っていたのが気になる。
「師兄、先日、私はまた無礼を働いたの?ここに痣ができている」
青蘭は、首筋の赤い痣を衣の上から指で示した。この痣は、殴り合いをしたときの痕に違いない。
「青蘭、痣の場所など教えない方がいい」
長恭は慌てて青蘭の手を押さえた。
「その痣は、喧嘩による物ではない」
長恭は二人の間の書冊を綴じると、傍らに置いた。
「私が、付けたのだ」
「師兄が?」
長恭は唇を青蘭の耳元に近づけ、優しく吸った。
「そうだ、お前が心を移さないように、寝ている間に付けたのだ」
何という放恣だ。青蘭は、長恭を睨むとその胸を叩いた。長恭は、自分が寝ている間にどんなことをしたのだ。
「師兄は、清廉な君子だと信じていたのに、酷い・・・」
青蘭は唇を尖らせると、横を向いた。
「そうだ、私だって邪な想いがあるし、嫉妬だってする」
長恭は笑みを浮かべると、頬杖をついた。多くの令嬢から想いを寄せられている長恭が、嫉妬するとはどういうことだろう。
「お前を、誰にも渡さないと言うことだ」
青蘭は男装をして、普段は化粧もしない。自分の女子としての魅力に気付いていないのだ。弟子のだれかが、青蘭が女子だと気付いたら、誰だって心惹かれるに違いない。
「お前には、この玉佩を贈ろう」
長恭は懐から漆塗りの櫃を取り出すと、蓋を開けた。碧い房が着いている芙蓉を彫った傷のない白玉だ。
「こんな上等な玉佩は、貰えないわ」
「これは母の形見の玉佩だ。私だと思って身につけて欲しい」
「母上の形見などもったいなくて」
「お前に付けてもらえば、母上も喜ぶ」
十月になれば、学堂に来る暇などはなくなるだろう。皇太后府に住まっている長恭には、青蘭から連絡を取ることは難しい。やがては長恭のいない日常が普通になるのだろうか。
「じゃあ、預かっておく」
青蘭は、櫃を受け取ると懐にしまった。
「休みには、会いに来るさ」
「そうよね、鄴都に居るわけだし・・・」
青蘭は不安を口にせず、笑顔を作った。
「今日は、午後から段韶叔父上に挨拶に行くことになっている。馬車で送っていくよ」
長恭は書見台の筆硯を片付け始めた。
馬車に乗れば、二人だけの時間を過ごせる。
長恭は、婚姻を口にした。しかし、それは昔から言い古された愛の言葉だ。多くの女人は、その約束に己の全てを預けて破れてきたのだ。
「私は、師父に質問したいことがある。だから、一人で帰る」
「そうなのか・・・」
長恭は残念そうに手元を見つめていたが、嚢を手に取ると立ち上がった。
「あっ、門まで送るから」
書冊をそのままに、青蘭は立ち上がった。
ああ、何を話したらいいだろう。青蘭は門に急ぐ長恭の背中を見上げながら溜息をついた。何か言いたいのに上手く言葉が出ない。
大門に着くと、黒塗りの瀟洒な馬車が門前に入ってきた。
「いつだったら、学堂に来ている?」
「毎日、来る予定だから・・・」
青蘭の言葉に長恭は笑顔になった。
「休みの日には、必ず来るから・・・」
長恭はそう言うと、馬車に乗り込んだ。
「師兄、きっと・・・」
別れの言葉を言う間もなく、扉は閉ざされた。顔見知りの御者の栗が手綱を振るうと、馬車は勢いよく動き出した。
青蘭が手を振ろうと見上げると、馬車は見る見るうちに遠ざかっていく。車輪が巻き上げる土埃の向こうで馬車は、幻のように消えてしまった。
長恭の馬車を見送った青蘭は、大門に寄りかかるとしばらく動くことができなかった。
蒼穹の陽炎 完
やっと、活躍の表舞台に出られると喜ぶ長恭を見ながら、青蘭は残される悲しさに打ちひしがれるのだった。