重陽節の白菊
皇宮を避けていた青蘭は、観菊会で見合いが行われるとの噂が気になり、宣訓宮の観菊会に出掛けてしまう。
★ 前庭の菊花 ★
太陽が中天をすぎた。そろそろ外に出なければ。
青蘭は静かに扉を開けると、柱の陰から前庭を見た。東西の偏殿の前には、白や黄色の菊花の鉢が飾られている。
そこは、青蘭がいることができない陽の当たる世界だ。菊花の飾ってある前庭は、多くの着飾った令嬢や夫人たちがつめかけている。先に清輝閣を出た長恭の周りには、令嬢たちの輪ができていた。
「兄上、こちらが、定陶県令劉逖殿の令嬢劉長楽様よ」
長恭のそばで、高慢な感じの美少女が傍らの令嬢を示した。
「長恭様、宣訓宮の菊はことのほか・・・」
華やかな朱色の外衣に身を包んだ面長な令嬢が長恭に近づくと身を屈めて挨拶をした。
「長楽様は、父上に似て詩を読まれるのが得意よ」
「楽安公主、そなたの友達か?」
この女子が師兄の妹の楽安公主なのか。楽安公主は兄と友達の見合いの橋渡しに来たらしい。令嬢の後ろには数人の家人が控えている。
これが世に聞こえた観菊の見合いか。青蘭は誘いに乗ってうかつに皇太后府に来たことを後悔した。長恭が令嬢に向ける笑顔が青蘭の胸に刺さった。嫉妬をする資格などないのに・・・。
あそこに自分の居場所はない。男子の格好をしてようと、自分が見合いの場に出て行けば、長恭は対応に困るであろう。目立たぬようにここを出なければ・・・。
清輝閣の柱の陰から回廊に入った青蘭は、長恭の目に触れぬように身体を屈めると、山茶花の木に隔てられた回廊を門に向かって歩き出した。早く南門から出て、宣訓宮から姿を消したい。
「文叔、待てよ」
回廊を急ぐ青蘭に、長恭の言葉が飛んだ。長恭の声に足が止まった。
「文叔、黙って帰ってしまうとは、酷いだろう?」
長恭は不満げに眉をひそめながら、回廊に入ってきた。
「青蘭、隠れないで来てくれ」
長恭は青蘭の手を握ると、日の当たる前庭に引っ張り出した。いきなり明るい内庭に出た青蘭は、目眩を感じた。気が付くと周りには令嬢たちの輪ができた。
この少年はいったい何者?令嬢たちの視線が青蘭に突き刺さる。
「瑗児、今日は弟弟子を案内しているのだ。お前が、劉殿を案内してくれ」
長恭は、楽安公主に言い置くと、劉氏と楽安公主を置き去りにして、南門に向かった。
「長恭兄上、待ってよう」
最悪の事態だ。前庭へ詰めかけた女子たちの視線が、青蘭の背中に突き刺さる。
宣訓宮の正門から二人が出ようとしたとき、後ろから呼び止める声が聞こえた。
「長恭兄上」
渋々、長恭が振り向くと、人混みの中に孔雀緑の長衣を着た安徳王高延宗が立っていた。三歳下の弟である。皇族を警戒している青蘭は、長恭の手を放すと目立たぬように門柱の陰に隠れた。
「延宗か、・・・久し振りだな」
高延宗は、傍に走り寄ると拗ねたように口を尖らせた。
「兄上、最近、遠乗りにも誘ってくれないね」
「そなたこそ、最近は皇太后様に顔を見せに来ていないだろう?」
長恭は、笑顔を見せると、延宗の頬をつねった。兄弟とは親しくないと言っていたが、延宗は例外らしい。
「今度、射術を教えよう。遊びに来るがいい」
「兄上、絶対だよ」
延宗が笑顔を見せると、長恭は孔雀碧の肩を叩いた。
延宗が南門に消えるのを確認してから、長恭は青蘭に近付いた。
「今のは、下の弟の延宗だ」
皇族は、兄弟でも皇位を争う運命にある。ましてや母親が違えば疎遠であることが多いのに、延宗とは珍しく冗談を交わす仲のようである。両親を亡くし孤独に生きている師兄にとって、親しい兄弟の存在は
慰めになるに違いない。
「延宗は、気の置けない弟だ。でも、楽安公主は気の置ける妹なのだ」
前庭で令嬢を紹介していた楽安公主と長恭の関係は、微妙なものらしい。
「初めて見た。・・あれが観菊の見合いなのか?」
長恭にとって自分の存在はいったい何なのだろうか?二人の時は、甘い言葉をささやき、いざとなったら冷たく捨てる男子の存在は、聞いたことがある。これは嫉妬だろうか?
「それは、誤解だ。あれが見合いなものか。楽安が勝手に知り合いを紹介しただけだ」
「師兄、誤魔化さなくても・・・」
青蘭が目の端で睨むと、長恭は腕を掴んで偏殿の後ろに向かって歩き出した。
「誤魔化してはいないさ。話を聞けよ」
偏殿と営舎の間は、人気もなく閑散としている。
「縁談なんて聞いていないし、・・・娶るなら・・・この人と・・」
長恭は青蘭の肩に手を遣ると、その瞳を見つめた。
「兄上、どこへ行くの?」
後ろから咎めるような声がして、青蘭は振り向いた。直ぐ後ろで楽安公主が目を怒らせている。
「兄上から離れなさいよ」
駆け寄ると、楽安は青蘭の肩を突き飛ばした。
「もう、弟弟子だか知らないけれど、兄上に取り入るなんて、もう、卑しい」
楽安公主は敵意剥き出しで、青蘭を指さしてきた。
「楽安、私の客人に、何を言っているのだ」
長恭は青蘭の肩を支えた。
「兄上が、女子に興味がないと思ったら、こんな美童が側に居るからなのね。お前も自分の身分も顧みずに、男としての美貌で兄上の心を捕まえるなんて大したものだわ。男色だなんて兄上に変な噂が立ったらどうするの」
美童とは、もしかしたら自分のことだろうか。青蘭はいきなり公主に罵られた衝撃で、呆然としている。公主は、なぜそんな酷いことを言ってくるのだ。
公主は眉を逆立てて、青蘭に迫ってくる。
「どうせ、皇族の兄上に取り入って良い官職か財を手に入れたいだけでしょう。身分が低いくせに、漢人にはそういう卑しい輩が多いもの」
「私は、そんな・・・取り入るなんて」
長恭の妹である公主に、罵る言葉を吐くわけには行かない。青蘭は口ごもった。
「楽安よすのだ。同門の朋友を侮辱するな。もう帰れ・・」
長恭は楽安公主に叫ぶと、青蘭の手を握り東の側門に向かった。
金明門で馬車に乗っても、青蘭の動揺は治まらなかった。自分のような身分のない者が皇族と付き合うと、取り入っていると見られるのか。改めて、自分の置かれている状況を思い知らされた気がした。
「師兄に取り入るなんて・・・」
「楽安は何も知らないで誤解しているのだ。愚かな妹を許して欲しい。昔から言葉が荒くて・・・」
皇族からしたら、立身出世を狙っている卑しい漢人に見えるのだろう。ましてや自分が女子となれば、手練手管で長恭を籠絡した妖婦と言われるに違いない。
しかし、公主の言葉を長恭は決して否定していない。
「公主の代わりに、なぜ、師兄が謝るの?」
青蘭は悔しくて口をとがらせた。謝ると言うことは、師兄も公主と同じなのか。
「安楽は、我が儘放題に育てられて、口が過ぎることがあるのだ」
長恭は、公主を擁護しているように聞こえる。
「公主が言ったことは、真実よね。私たちは身分も国も違う。釣り合わないわ」
「青蘭、何を言うんだ。私たちが釣り合わないなんて、・・・」
近づいたはずの青蘭の心が、今は自分から離れていこうとしている。
「君を傷つけた、許して欲しい。・・・君を失いたくないのだ」
青蘭の肩に手を置いた長恭の長い睫が、切なげに震えた。
★ 安德王延宗の訪問 ★
日が陰ると、深秋の風が宣訓宮の後苑にも吹き渡り、睡蓮地の水面を波立てていた。重陽節も終わり秋は確実に進んでいる。
長恭は顔氏邸の学堂から戻ると、居所から弓矢を取り矢場に向った。一射、二射、呼吸を整えて射るが、中央の的に定まらない。長恭は弓を置いて四阿の椅子に座った。
最近の青蘭は不意に黙り込むみ、物思いに沈むことが多くなった。仕官の時期が迫ってきているというのに、青蘭の心が指の間からこぼれ落ちようとしている。
長恭は額に手を当てた。
「兄上、遅くなった」
安徳王高延宗が、南の前庭から弓と矢を携えて矢場の方に向かって手を振った。年齢は十四歳、まだ少年らしさを残す黒目がちな容貌を、葡萄色の長衣に包んでいる。
「延宗か、よく来たな」
長恭は延宗を迎えると、笑顔で肩を叩いた。
安德王高延宗は、高澄の五番目の皇子である。延宗は父高澄の死後、母親が李家の芸妓であった縁を頼って李皇后のもとで愛育された。怖い物知らずな性格が高洋に気に入られたのか、後宮でも我が儘一杯で乱暴者として知られている。
武芸は李皇后が師匠を選び鍛錬している。しかし、むでっぽうな性格を皇后に心配され、初陣は未だ認められていなかった。
「兄上、どうか射術を教えてくれ。僕も早く初陣を飾りたい」
延宗は、矢を几に並べながら、血気に逸る眼差しを兄の長恭に向けた。延宗は乱暴者だと評判だが、長恭にすれば裏表のない性格で気の置けない付き合いができる唯一の兄弟であった。
「延宗、斉のために戦に行きたいと心意気は立派だ。しかし、蛮勇故に初陣で戦場の露と消えた若者は多い。まずは、力を蓄え初陣に備えるのだ」
長恭は仁愛に満ちた瞳を弟に向けると、きっぱりと言った。
「教えを、心に刻みます」
暴れん坊と言われる延宗が、真摯な面持ちで兄を見た。
日が西に傾き、晩秋の陽光が、花のない睡蓮地の水面に反射している。
長恭は、鬱金色の陽光の中で、残りの三矢を射た。矢を取り弓に番え、そして、射る。その所作は無理がなく優雅でさながら舞うようである。
「僕が、矢を取ってくるよ」
延宗は、足早に的の所に行くと、五本の矢を確認した。五本は赤い的の中に、治まっている。
『兄上の敵にならずぬよかった。まさしく武神のごとくだ』
延宗は、矢場に立つとゆっくりと矢を番えた。
延宗は、射術や剣術を学んでいる。しかし、その気ままな性格ゆえ実戦で役立つにはほどと遠いのが実情である。
「呼吸を整え、力を溜めて射るのだ」
射術の鍛錬は、夕闇で的が見づらくなるまで続いた。
長恭は、延宗を夕餉に誘った。長恭は、汗が流れる延宗のうなじを布帛で拭いてやった。二人分の夕餉の用意を命じると、長恭と延宗は、清輝閣に入った。
弟の延宗は後宮に住まっているが、すでに安徳王の爵位を賜っている。兄皇子三人はそれぞれ爵位を賜り、王府を構えている。皇太后府に寓居している長恭は、兄弟との交流も少なく、わずかに延宗や敬徳が個人的に訪ねてくるだけであった。
清輝閣の書房に入った延宗は、書架に置かれた書冊、竹巻の多さに驚いた。
「兄上、だいぶ書冊が増えた。・・・学問に精進しているという噂は、本当だったのだな」
延宗は、几案の上の『史記』を手に取ったが、中を見ると諦めたように戻した。
「兄上、今度、散騎侍郎に任官すると聞いたのだが、本当なのか?」
「ああ、本当だ」
散騎侍郎は、陛下への上奏に関わる清官である。皇子の新任としての位は高くないが、政治の中枢に参画できる枢要官である。
「兄上、お祝いを言います」
未だに任官していない延宗は、拱手すると素直に破顔した。
夕餉が、運ばれてきた。焼餅、羊肉の煮込み、鶏肉の羹(汁物)、野菜の煮物などが、台盤(食卓)の上に並べられた。射術の鍛錬で空腹を感じていた二人は、さっそく夕餉を始め、健康な食欲を示した。
「兄上は、師匠についていると聞いたけれど、兄上の師はだれなの?」
「顔之推師父だ」
「顔氏?」
延宗にとっては、初めて聞く名前であった。
「顔之推は梁の高官も勤め、中原で最も高名な学者だ。顔氏邸には、多くの漢人子弟が入門し、南朝から来た学者が講義をしている」
「漢人に伍して学問をするとは、さすが兄上だ」
延宗は、感心しながら鶏の羹を口にした。
「そう言えば、重陽節の時、一緒にいた少年も同門の弟子なの?」
青蘭を覚えていたか。長恭は、延宗の言葉に曖昧に笑った。
「ああ、弟弟子だ」
「兄上が、その、美童を連れて観菊をしていたと・・・宮中では噂に・・」
「何を?くだらん」
長恭が急に厳しい口調になったので、延宗は口をつぐんだ。
美童は、男色関係の年少の相手役を指す。男色を匂わせる噂は、長恭が一番忌み嫌うところである。
「文叔は、苦労を重ねて鄴に来たのだ。学問を修めて、民のために働きたいと願っている。れっきとした学士を、美童などと揶揄するのは許しがたい」
長恭は、拳をつくると言葉を荒らげた。
いずれは青蘭も、延宗と付き合うことがあるだろう。しかし、女子だと打ち明けるわけには行かない。
「そういう立派な学士なのか。でも、瑗児は、宮中でひどいことを言い触らしている」
瑗児とは、楽安公主の字である。観菊会で面目を潰された楽安は、長恭が道ならぬ道に引き込まれていると噂を流したのである。
「ふん、私が崔達拏との婚儀を壊せなかった腹いせであろう」
楽安公主と崔達拏との婚儀は、十月に迫っている。公主は崔達拏との婚儀を望んでいないが、崔家によって政権基盤を強めたい今上帝の意にはだれも逆らえないのだ。
「そう言えば、敬徳が、青州刺史に任命されると聞いたけれど、兄上は知ってる?」
延宗は、羹を口に運びながら長恭を見た。延宗は、後宮に住まっているだけに、人事の情報は早い。
「知らなかった。・・・そうか、・・・敬徳が青州刺史か」
父高岳の死後、罪滅ぼしのように嗣部尚書に任命された敬徳であったが、婚儀や宮中の典礼の差配など、本来は武勇に優れた敬徳の役目ではない。
刺史は、兵権を含めた州内全般の統治権が付与される重要な役職である。
朔州などの国境の刺史は、防衛の最前線の意味を持つ。しかし、青州は、黃河の下流域に位置する豊かな州(上州)で、しかも前王朝の勢力が残っている重要な州である。
治政と武勇の両方の力を認められた就任であろう。
『私は、散騎侍郎、敬徳は青州刺史か。遙か先を行くな敬徳は・・・』
同じ父親を亡くしたと言っても、名ばかりの皇子である自分と、清河王の嫡長子では身分が違う。これは嫉妬だろうか。胸の片隅に渦巻く赤い炎を顔に出したくなくて、長恭はその感情を持て余した。
「敬徳なら、・・・青州の民も安泰だな」
長恭は、そう言葉を繋ぐと、温柔な笑顔を見せた。
★ 皇太后の拝謁 ★
長恭と青蘭が、顔氏学堂の門から出ようとしたとき、門の近くに停まっていた馬車の陰から宦官が現われた。皇太后付の宦官である周孝逸である。
「皇子、皇太后がお呼びでございます。学友の方も、一緒にとのことでございます」
青蘭と長恭は、顔を見合わせた。なぜ、御祖母様が、青蘭を呼ぶなだろう。
青蘭の心臓が波打った。母に戒められたにも拘わらず、青蘭は長恭の誘いに乗って宣訓宮の重陽節に行ってしまった。そして、皇太后からの呼び出しだ。
皇太后は皇帝と不仲とは言え、皇族で一番の権力を持つ女人であり、長恭の母親代わりである。愛孫の長恭と親しくしている自分について力のある皇太后が、何も知らないということの方が不自然だ。
男子と偽って長恭に近づいたと知れば、逆鱗に触れるに違いない。ましてや、自分が長恭の想い人だと知れれば、その怒りは計り知れない。
どうにかこの場を逃げたい。宦官の慇懃な中にも逃げることを許さぬ威圧感と、長恭の善意に満ちた笑顔が、青蘭を留めさせた。
『皇太后様は、なぜ私を呼んだのだろうか?』
宣訓宮の正殿に入ると、青蘭はオドオドと足元ばかりを見て歩いた。皇宮はもっとも警戒すべき所であった。女子だと見破られてはならない。青蘭は気持ちを引き立てて、男に見えるように胸を張った。
「師兄・・・」
恐る恐る見上げると、温柔な長恭の笑顔が目に入った。
「私の御祖母様だ。学友として君に会ってみたいのだろう。大丈夫だ」
母親代わりの婁氏が、青蘭に悪意を持って呼び寄せるなんて、想像もできないのだ。
ほどなく、青蘭は皇太后の前に案内された。青蘭は、礼儀にのっとり皇太后に拝礼した。
「この者が、顔氏門下の兄弟弟子、王文叔です」
長恭が、青蘭を紹介した。跪いた青蘭にも皇太后の鋭い視線が自分の上に注がれているのが分かる。
婁氏は文叔の頭の先からつま先まで品定めをした後、言葉を掛けた。
「そうか、立つがよい」
この者が、宮中で噂の長恭の美童か。その実、男子の王文叔と偽って長恭に近づいた女子なのだ。婁皇太后は、立ち上がった青蘭を冷たい無表情で見遣った。
青蘭は、立上がっても皇太后を正視することは許されていない。それでも、精いっぱい男らしく見えるように、胸を張り両足をしっかりと踏ん張ってみる。
「おお、粛よ、宣訓宮の菊の評判はどうであった」
婁皇太后は、青蘭を無視してにこやかに孫に話しかけた。粛とは、長恭の諱で、父母か君主しかこれを使わない。
「私も各宮の菊を見て回りましたが、形の美しさは、宣訓宮が一番だと思われます」
婁皇太后は、孫の言葉に目を細めた。
「御祖母様の、ご指導の賜でございましょう」
祖母と孫は、和やかな笑い声を挙げた。本当の祖母と孫でありながら、何と表面的な会話だろう。長恭は言葉の端々にまで細心の注意を払って毎日を生きてきたのだ。
「王文叔」
婁皇太后は、初めて青蘭の方に水を向けた。
「我が孫の学問への取り組みは、どうであろう?」
「長恭様は、師父の教えを守り、学問に励んでいらっしゃいます」
青蘭の言葉に、婁皇太后は頷きながら微笑んだ。青蘭の出自などについて、詳しく訊くのではと心配していたが、その後も、長恭の学問の様子をいくつか下問して謁見は終わった。
学問を積み、多少は弁舌は立つようだ。しかし、平凡な女子だ。多くの孫達の中で容貌、文武ともに優れた長恭の伴侶には、絶世の美女こそが相応しい。王青蘭は、理想にほど遠い。
婁皇太后は,二人の後ろ姿を溜息で見送った。
扉から出ると、前庭は重陽節と打って変わって静寂に包まれている。
『あの謁見は、何のため?』
温厚な祖母を演じながら、青蘭を視界の端に捉える眼差しは決して笑っていなかった。
『もしや、女人であることを見抜かれているのか?』
長恭の招きに応じて謁見してしまった自分の迂闊さに、青蘭は溜息をついた。
「疲れた?」
長恭は陰から見ているであろう侍女や宦官を意識して、小声で訊いてきた。
青蘭を見守る長恭の瞳は、いつものように温和で、祖母の眼差しに疑惑の影さえ感じている様子はない。
「大丈夫よ」
青蘭は、自分の疑惑を口にすることはやめて、長恭の手をつかんだ。
★ 長恭の任官
秋風が冷たさを増し、槐の木も黄色く色づく頃になった。
青蘭は、顔家の書庫の書見台に向かって書冊をめくった。絹張りの窓を通して房内に差し込む秋の陽光の中を埃が昇って行く。秋も深くなり、日差しが書見台の奥まで差し込んでいる。
書架の前に立った青蘭は、『史記循史列伝』を取ろうとして手を伸ばした。循史とは、職務に忠実で正しい道理に従っていた官吏のことである。
高いところにある循吏列伝は、なかなか手が届かない。
そのとき、脇から手がのびてきて書冊を取った。長恭だ。青蘭がむっとして横を見ると、長恭の清澄な笑顔にぶつかった。
「師兄、早かったわね」
学堂にくるのが今日はなぜか早い。重要な話があるのだろうか。
青蘭が書見台に循吏列伝を置くと、正面に長恭が座った。顔が上げられない。
「文叔、・・・青蘭よ」
長恭から告げられる言葉が、怖い。
「聞いてくれ、青蘭。先日、御祖母様から、任官の内示があったのだ。十月の朔日(一日)に散騎侍郎に任じられることになった」
長恭は弾む声で、青蘭の顔を覗いた。
散騎侍郎は、元来、天子に扈従する侍従武官であった。侍中、黄門侍郎と共に尚書奏事(臣下からの上奏を処理し、政を行う)を処理する役割を担ってきた清官(花形の官職)である。
斉では、名門子弟の最初の官職としては重要視されていた。しかし、皇子の最初の官職としては、決して高くない。それでも、朝廷に官職を得たことは、師兄にとって何よりのことだ。
「師兄、おめでとう。散騎侍郎への任官は、皇太后様の期待の表れね」
ついに、師兄に任官の内示が出た。青蘭は、出来るだけ冷静を装って笑顔を作った。
「やっと、自分の力を発揮できる場を得られるんだ。斉のために職務に励むよ」
文武に劣る皇族が、高官の子弟であるというだけで、官職にのさばっているのを忸怩たる思いで見てきた長恭であった。
長恭の喜びに満ちた瞳を見ると、青蘭は素直に嬉しい気持ちになった。
「官職に就いたら、皇太后様に君との婚姻のお許しをもらうよ」
長恭は嬉しそうに、青蘭の手を握った。かねてより、仕官が決まったら、青蘭に婚儀を言い出そうと思っていたのだ。
「師兄、婚儀だなんて・・・冗談でしょ」
「私は本気だ。任官をして実績を積んだら、御祖母様にお許しをいただく。・・・時間は掛かるかも知れないが、待っていて欲しい」
長恭が婚姻を言い出せば、必ず婁皇太后は偽っていた事実を暴き出すだろう。皇太后が寵愛する孫の妻として青蘭を認めるとも思えなかった。
「師兄、何を言っているの。婚儀だなんて・・・そんなこと許されるわけない」
青蘭は眉を潜めて首を振った。
「なぜだめなんだ。王琳将軍の令嬢ならば、身分だって問題ない。・・・それに、君一人で学堂で学問をするなんて心配なんだ」
「大丈夫、普通の男なら負けないわ」
青蘭は、拳を作って長恭の心配を笑い飛ばした。
「そういう意味じゃない。君が女だと気付いたら、だれでも、きっと君に引かれる」
長恭は、青蘭の頬を両手ではさんだ。
「美女からほど遠い男みたいな私なんか、・・・師兄以外、だれも好きにならないでしょう?」
青蘭は冗談めかして笑顔を作った。
『君は、自分の魅力を知らないのだ』
長恭は、南院に行ったときの侍女姿を思い出した。咲き始めた牡丹の蕾のような生き生きとした姿は、男子の心を虜にするに違いない。
「そうだ、決していい加減な気持ちではない。婚儀の許しが貰えるまで待っていて欲しい」
長恭は青蘭の肩に手を置くと、顔を近付けた。紅を引かない唇に、長恭の唇が重ねられた。
十月には、長恭が散騎侍郎として仕官すると聞いて、祝の言葉を述べる青蘭。長恭は官吏として力を付けたら、皇太后に青蘭との婚姻の許しをもらうと約束するのだった。しかし、青蘭には、嬉しさよりも不安の方が多いのだった。