観菊会への誘い
長恭と一緒に行った永嘉王との拝謁は、思ったより注目を集める結果となり、敬徳に問い質されることになってしまう。
★ 敬徳との遭遇 ★
八月も秋分となり秋の気配が漂ってきた。
青蘭と長恭で南院に永嘉王を訪ねて以来、長恭は学堂に姿を見せることがなかった。
永嘉王の処遇はどの様であろうか。南朝への帰還であろうか、はたまた北斉に留まるのであろうか。長恭からは何の知らせもなく、青蘭にはその行方を探ることもできなかった。
午後の講義が終了した後、青蘭は徒で東市に行くと、紙問屋に入った。先達の書を書写する書冊を綴じるための料紙を買い、詩賦を臨書するための上等な料紙を選んでいた。
虫食い予防のために鬱金で黄色に染められた物もあれば、紅花で薄紅色が滲んだように染められた紙もある。青蘭が、銀子を払っていると青蘭の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「子靖、子靖ではないか」
青蘭を子靖と呼ぶのは、あの男しかいない、敬徳だ。簫荘に面会したからには、素性を悟られないように清河王には警戒が必要だ。
青蘭は笑顔で振り向くと、拱手した。
「先日の中秋節では失礼いたしました」
青磁色の長衣に葡萄色の外衣をまとった敬徳は、笑顔で両手を広げた。
「ああ、せっかく二人を嬌香楼に誘ったのに、・・・」
片眉をひそめた敬徳は、唇をゆがめた。
「敬徳様、まだ若造の自分には、妓楼など背伸びのしすぎですよ・・・」
青蘭が照れ笑いをしながら、買ったばかりの料紙の把を嚢の中に入れると、敬徳が青蘭からその嚢を奪った。逃げるわけにはいかなくなった。青蘭は目をつぶった。
敬徳は上等な料紙を従人に注文をすると、青蘭に振り向いた。
「そなたも、十五歳になるのだろう?決して早くない」
加冠を過ぎた十五歳は、婚儀も挙げられる大人だ。決して若輩というわけではない。
「文叔、そなたは官吏になるのが希望であろう?そなたを、官吏に推挙してもいい」
権臣の清河王には、散官に推挙するなど何のこともないのであろう。しかし、女子の青蘭が出自を偽って官吏になれば、死罪に値するのだ。
「学問が浅い若輩者の私など、出仕しても朝廷の役にたちません。顔師父のもとで学問を究めたいです」
推挙ということになれば、詳細な出自の調査が行われるに違いない。敬徳が破談の相手が青蘭だと知ったら、敬徳はもちろん長恭との付き合いは瓦解するのだ。
「そうか、そなたのような清廉な若者こそ、朝廷に入れたいのだが・・・」
敬徳は残念そうに唇を結ぶと、頭を振った。文叔のような真摯な心をもつ若者がふえれば、高帰彦のような佞臣の跋扈を防ぐことができるのだが。
青蘭と敬徳が料紙問屋から大路にでると、外には清河王家の馬車が待っていた。権門の清河王が、徒で商賈に来ることはない。
「おお、そうだ。王府の観菊に来ないか?」
敬徳は、青蘭の肩に手を置いた。
「ああ、その・・・お招きに感謝します。でも、学士の身で晴れがましい場に行くのは、恐れ多くて・・・」
皇族との付き合いは警戒しなければならない。観菊の宴は、あまりにも危険すぎる。
「それも、そうだな・・・その代わり後で一緒に行きたいところがある」
敬徳は、命の恩人だ。申し出を何度も断ることはできない。
「分かりました。今度ご一緒します」
青蘭は笑顔を作ると、拱手した。
★ 学堂の朋友 ★
秋分が過ぎた宣訓宮の前庭では、睡蓮池の睡蓮の花が盛りを過ぎ散り始めている。池の端には、宮女たち丹精した黄色い小菊がならんでいる。
長恭は、回廊を出ると紅葉が目立ち始めた後苑に向かった。
長恭は正殿での婁皇太后の言葉を思い出した。
「南院に通って、簫荘に学問や射術を教えているそうだな」
「はい、浅学ながら」
「こたび、王琳から遣いが来て、永嘉王を梁に帰すことになった」
榻に座った婁氏は、立ち上がると長恭の手を取った。
「そなたが、南院に通って学問や射術を指南したそうな。・・・そなたの手柄だ」
婁氏は長恭を座らせると、茶を勧めた。
「簫荘は未だ十歳だ。梁の中心として遣っていけるだろうか」
「永嘉王は江陵を離れて以来、様々な困難をくぐり抜けてきました。成長した簫荘は、単なる十歳の子供ではありません。皇族としての自覚もある。だから、・・・簫荘を信じています」
婁氏は、うなずくと茶杯を引き寄せた。
「実は、私一人の力ではありません。学堂の朋友が助けてくれたのです」
「ほう、朋友が助けてくれたのか。・・・粛、良い友を持ったな、一度ここに連れてくるが良い」
「感謝します」
長恭は深く拱手すると、正殿を退出した。
簫莊の帰還の実現は、梁の旧臣に輿望がある王琳を斉と同盟させるという意味で、大いに意義がある。王琳将軍が政治的に斉に与力すれば、斉の爵位を得ることになる。そうすれば、青蘭は斉の権臣の令嬢になり二人の未来だって、希望が出てくる。
長恭の心は弾みを感じ、皇太后の言葉を思い出して自然に唇が緩んだ。
★ 横街の麗人 ★
皇太后府の後苑の楢や椚などの木々が、次第に色づいてきた。領地である清河郡から帰還した敬徳は、皇太后府を訪れた。
書房の蝋燭の燃える音だけが、聞こえてくる。長恭は『孫子』の書冊をめくった。
『孫子曰く、凡そ用兵の法は、国を全うすることを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ』
孫子は言う。およそ戦争の原則としては、敵国を傷つけずにそのままで降伏させることが上策で、敵国を打ち破って屈服させるのはこれに劣る。
南朝は陳の建国により、一挙に流動化している。王将軍は、永嘉王を取り込むことにより戦わずして陳に勝とうとしているのか。
扉が静かに開いて、静寂の中を足音が近付いてくる。
「やっと、来たか?」
長恭が見上げると、笑顔の敬徳がいた。
「長恭、待たせたな」
兄弟との縁の薄い長恭にとって、敬徳は心許せる数少ない友である。
「久し振りに来たのに、やけに御祖母様への挨拶が短いな」
長恭は、からかうように目の端で笑った。
「畏まった挨拶は本当は苦手なのだ。お前に会いに来た」
敬徳は肩をそびやかした。父高岳の死後は本心を隠し無愛想な敬徳だが、唯一長恭だけには本音を隠さない。
長恭と敬徳は、紅葉が始まった後苑に向かった。菊の鉢が並ぶ小径を過ぎると、萩の花に囲まれた四阿に入った。ほどなく、宦官の吉良が茶器を持ってきた。
「宣訓宮の茶は、口に合うかどうか」
皇太后府は、節約を旨としているので、茶葉も決して上等な物ではない。長恭は茶杯を満たすと、敬徳に勧めた。
「喬香楼は、どうだった?」
敬徳に会うのは、中秋節の時以来である。中秋節の夜には青蘭と共に喬香楼に誘われたが、青蘭が機転をきかせて行かずにすんだのである。
「付き合いのつまらない宴だ。そなたは、来なくてよかった」
敬徳は、茶杯を口にした。敬徳は、いつになく長恭を凝視した。
「そなたの学友の文叔は、王琳将軍の子息だ。知っていたか?」
敬徳にいきなり訊かれて、長恭は思わず体を硬くした。
『敬徳は、いったいどこまで知っているのであろう』
とても、しらを切ることは出来ない。
「ほう、そうか。鄭賈の子息である事は知っていたが、王琳将軍の息子だとは知らなかった」
長恭は、狼狽を悟られないように平静を装った。
「江陵から来たときは、子靖と名乗っていたが、学堂では文叔になった。なぜなのだ?」
「さあ、顔師父から賜った字だと聞いた。本来の字は子靖だったのか」
学問を志すとき、師匠から新しい字をもらうことは珍しくない。長恭は、あくまでも兄弟弟子の範疇を出ないように気をつけて返答した。青蘭という女子だと悟られては、大変だ。
「文叔の姉上は、鄭家にいるのか?」
「文叔の姉?」
敬徳はどこまで知っているのか?青蘭には同腹の兄がいるらしい。青蘭は妹だが、男女の兄弟がいると言う情報から、そのように部下が報告したのかも知れない。
「文叔の兄弟については、知らなかった。姉がいるのか?」
「ああ、姉がいるらしい。あの文叔の姉だったら、会ってみたい」
敬徳が、文叔の姉に会いたがっているのは、青蘭に興味を持っている証拠だ。その姉こそ、青蘭自身だと知られてはならない。
「文叔の真摯さが、好きなのだ。文叔の姉ならきっと似ているはずだ」
南朝では、男女が会うと言うことは、すなわち男女の関係を意味する。
「似ているだけで会ってみたいなんて、失礼じゃないか・・・姉に」
「もちろん、文叔の姉がその気になればの話さ」
長恭は青蘭の出自を、敬徳の婚儀の話で誤魔化した。
茶杯を飲み干すと、敬徳はいきなり話題を変えた。
「長恭、先日の美女は誰なんだ?」
長恭は驚いて、茶杯を取り落としそうになった。
「先日の美女?・・・それはだれのことだ」
「先日、永嘉王簫莊を訪問したときに、そなたが連れていた美女だ。長恭が跳びきりの美女と一緒だったと評判だぞ」
『青蘭の侍女姿にはドキリとさせられたが、皇宮でもそんなに目立っていたのか』
「跳び切りの美女だなんてとんでもない、同門の友の妹だ」
何とか誤魔化さなければ・・・。長恭は唇の端で笑うと、首を振った。
「美丈夫の長恭が絶世の美女を連れていたと、後宮の女子たちの間で噂が流れている。お前も隅に置けない」
「永嘉王はいまだ十歳だ。子供の気持ちを和らげる話し相手として、兄弟弟子の妹を連れて行ったのだ。ただの小娘が、どうして絶世の美女になってしまったのだ?」
噂はとかく大げさになる。特に長恭に関する女子の噂は、長恭への憧れを含んで絶世の美女になってしまうのだ。
「お陰で、永嘉王の南朝への帰還が果たされることになった。しかし、ただの平凡な小娘だ」
敬徳は、納得できないように、目尻で睨んだ。
「士大夫の娘だ、あまり詮索しないでくれ」
士大夫の息女が、欺いて皇宮に出入りしていたとなれば名節に傷が付く。長恭が釘を刺すと、敬徳はそれ以上は追求してこなかった。
★ 観菊会への招待 ★
碧天の秋空は澄み渡り、多くの権門や豪商の屋敷では白や黄色の菊の花が内院を飾っていた。九月九日の重陽の節句には外朝が開放され、各宮殿の主人の命のもと丹精された菊花を高官や家族たちが鑑賞して回るのである。
長恭からの誘いを受けたとき、青蘭は躊躇した。
梁の旧臣である王琳の娘が皇宮で観菊をしていると露見することは、好ましくないのだ。
しかし、晴児から重陽節の観菊会は見合いの場にもなるのだと聞いたとき、青蘭は断ることができなかった。権門の令嬢が重陽節の観菊に訪れ、花嫁候補との見合いが行われるかも知れないと思うと、居ても立ってもいられなくなったのだ。
長恭は士大夫の令嬢の憧れの的だときいている。長恭の知らない間に、縁談が進められていないとも限らない。
青蘭は垂花門の傍の桂花木の陰に身を潜ませた。
学堂では地味な装いの青蘭が、今日は鮮やかな瑠璃色の背子を着け貴公子然としている。皇宮の観菊会である。女子の格好はできないが、せめて見劣りのしない格好で臨みたい。青蘭は髪の乱れを整えると、大門の外を窺った。
見慣れた馬車が少し離れた場所で停まると、青碧色の外衣を着た長恭が、馬車から現れた。辻の一隅にいても長恭は、目立ってしまう。
大門の外に出た青蘭は、長恭に駆け寄ると急いで馬車に乗り込んだ。
「青蘭、待った?」
乗り込んだ青蘭の隣に座ると、長恭は目を見張った。
今日の青蘭はいつもとは違う。象牙色の上等な長衣に瑠璃色の菊花の刺繍を施した背子が、色白の青蘭に似合っている。高く結った男の髷では銀の冠にちりばめられた翡翠が光っていた。
「今日の青蘭は、・・・何だか・・・綺麗だ」
長恭がにやつくと、青蘭は長恭の視線に耐えられず顔を逸らした。
「師兄、・・冗談は、言わないで」
「綺麗だから、綺麗だと言ったのだ。・・・だめなのか?」
「私を綺麗だなんて、・・・師兄は、変わっている」
皇宮で多くの美女を見あきて、自分も美貌を歌われる師兄は、審美眼が他の男子とは違うのだろうか。
「変わっているかも知れないな・・・ただ一人の人と人生を共にしたいと願っているのだから」
最近の長恭は、だんだん大胆になってきている。
「師兄、皇宮では自制して・・・」
「もちろん、兄弟弟子としての分を守るさ・・・」
長恭は笑顔で青蘭の頭に手を載せた。
「お前は、大切な・・・兄弟弟子だ」
★ 宣訓宮の観菊 ★
皇宮の西の入り口である金明門の前で馬車を降りた長恭は、腰佩を示すと急いで横街に入った。
いつもは歩哨が立ち静寂に包まれている横街が、今日は多くの馬車と見物客でごった返している。閑散としている宣訓宮も、観菊の人々が溢れている。
南門から長恭と連れ立って前庭に入れば、青蘭は居所にたどり着くまでに、好奇の視線の矢に射殺されてしまうだろう。
「人が多すぎるわ」
長恭に従って横街に入った青蘭は、長恭の肩に身を寄せた。
「抜け道を通ろう」
鄴城は、三国の魏の時代に造営された城である。魏の滅亡に伴って旧鄴城の南に新たな南城が建設された。その後、晋の時代になり何度もの改修を繰り返す中で、鄴城には思わぬ所に抜け道や壁の間に隙間ができたのである。それらの抜け道は、王族の脱出用に放置され、やがて忘れ去られて行った。
幼少より皇宮に住まっていた長恭は、遊びの中で抜け道や水路の配置に精通していった。太武殿の前庭にある西の脇門から複雑な通路を通って、宣訓宮にたどり着く抜け道を見つけたのである。
「意外だろうが、正殿の前庭からの宣訓宮への抜け道があるんだ。それを使おう」
長恭は腰佩を示して、正門である含光門の脇門を入り、前庭に出た。出陣や儀式の時に使われる前庭は、刺客の侵入を防ぐために樹木も植えられていない。壁に沿って進み、右延命門から西に出ると、見慣れぬ営舎の後ろに出る。営舎を北に曲がると山茶花の生け垣になっており、小径に沿って西へ行くと、中書省の殿舎が見える。
殿舎の北の池から続く小さな流れに辿って再び北に折れると、宣訓宮の側門に至るのだ。
「この中が、宣訓宮だ」
側門の鍵を匕首を使って押し上げると、難なく宣訓宮の営舎の後ろに出た。
営舎は侍衛たちが寝起きする宿舎で、偏殿の後ろに建てられている。営舎の前に出て北を臨むと、赤い壁の殿舎が見える。
「あそこが、清輝閣だ」
長恭は、偏殿の北側に立つ瀟洒な殿舎を指さした。長恭は宣訓宮の中に殿舎を与えられて住んでいるのだ。偏殿の前の回廊の前には、山茶花を隔てて棚が置かれ、丹精した菊の花が飾られている。その向こうには華やかな衣装をまとった令嬢たちの姿が見える。
青蘭は回廊に出ようとして、足を止めて後ずさりをした。
「師兄、先に行って・・・私はあとから」
青蘭が指さす先を見ると、長恭の存在に気付いた観菊の客がこちらを窺っている。
「別の扉から入ろう」
二人は人目に付きやすい回廊をさけて北に進むと、清輝閣の基壇をよじ登り露台に出た。卓と椅子があるだけの簡素な露台である。長恭は手慣れた様子で蔀戸の一つを押し上げると、青蘭に手招きをした。
「ここが秘密の出入り口だ」
蔀戸を押し上げて中に入ると、そこはいきなり長恭の臥内だった。
「師兄は、毎日ここから出入りを?」
「ここにいれば、御祖母様の目が光っている。目を盗んで稽古をしたいときもある」
気楽な皇宮住まいの若様に見える長恭だが、それぞれに悩みを抱えているに違いない。
「君に見せたい物があるのだ」
長恭に手を引かれ書房に入ると、北側の書架にはおびただしい数の竹簡や書冊が並べられている。西側の壁沿いの卓の上を見ると、見覚えのある詩賦の掛け物がある。
「どうだ、・・・お前の手蹟に琴と月を描き加えて表装したのだ」
青蘭の手蹟が、まるで王羲之の名筆のように表装されている。
「こんな拙い手蹟を、飾るなんて師兄は、ひどい」
「拙いなんて、・・・林慮山では毎日見ていたのに・・・」
掛け物を外そうとする青蘭の手を長恭が押さえた。
「これが、見せたかった物か?」
青蘭は口をとがらせると、長恭を睨んだ。
「もちろん違うさ。青蘭、こちらに来てくれ、本当に見せたい物があるんだ」
長恭の手招きで奥の書房に進むと、青蘭は几案の前に座った。長恭が取りだした手文庫を開けると、一巻の竹簡を取り出した。
「これは、御祖母様に借りた『黄帝内経』だ。君は、医術に興味があるだろう?御祖母様の蔵書の中にこれを見つけたとき、青蘭に見せたいと思ったのだ」
『黄帝内経』は、医学に限らず易学、天候学、星座学、薬学と広く様々な分野に及ぶ科学書である。その膨大な書物は、後漢末期の戦乱の中で散逸し、朝廷の書庫でも数巻があるばかりなのだ。
「『黄帝内経』を読めるなんて、夢みたいだ」
竹簡は漢代末の物と思われ、文字も所々薄れている。しかも、篆書で書かれており、青蘭には理解できない文字が多かった。
長恭に篆書の文字の意味を訊きながら、青蘭は読み進めた。『素問』九巻の内の一巻である。『黄帝内経』では、病気だけを問題にするのではなく、人の習慣や感情、食事などの関わりを総合的に診るものであった。
「とても貴重な書冊を見せてくれてありがとう。できたら、写本を作りたいの、・・・」
「熱心なお前なら、きっとそう言うと思ったよ。だから、写本を作っておいた」
長恭は、青い表紙の書冊を櫃の中から出した。青蘭が手に取ると、漢代の篆書が読みやすい楷書に直されている。
「師兄、有り難いわ」
「青蘭、ここ数日は徹夜をしていたのだぞ。少しは感謝してくれ」
目を押さえながら長恭が胸を逸らすと、青蘭はおどけて拱手した。
「青蘭、感謝は形で表さないと・・・」
「うん・・・。私は師兄にあげられるものなど、何もないから・・」
長恭は青蘭の横に座ると、青蘭の肩に手を載せた。
「欲しいものは、ここにある」
青蘭の胸の鼓動が高鳴る。
「師兄、これは約束に反するかと・・・」
かつて兄弟弟子の分を超えないと約束したのである。青蘭が睨んだが、長恭は意に介さないようすで笑顔を見せた。
「一緒に学べるのも、あとわずかだ。・・・だから、自分の心を隠したくない」
長恭は青蘭の肩を引き寄せ、清雅な瞳が切なげに青蘭を見つめる。
「仕官すれば、きっと私を忘れる」
「何があっても、・・ずっと一緒だ」
見下ろした長恭の瞳が優しく潤んでいる。しかし、この世に一途な皇族の皇子なんているだろか。
「皇族の師兄に、私なんかは相応しくない。・・・」
長恭は青蘭を抱きしめた。
「私は後ろ盾もない皇族の端くれだ。・・・私こそ王琳の令嬢である君に相応しくない。・・・でも、君を失ったら生きていない。・・・だから、一緒にいてくれ」
囁くような長恭の懇願に否といえる女子はいるだろうか。永遠の愛を信じてみたい・・・たとえ、それが幻でも。
「師兄、・・・一緒にいたい」
先のことを憂えるのはやめよう。今この時を大切にしたい。青蘭が長恭の胸に頬をつけると、沈香の香が青蘭を包んだ。
宣訓宮の観菊会に出掛けた青蘭は、長恭の居所に案内され楽しい時間を過ごす。居所から出ようとしたとき、令嬢たちに捕まってしまう。