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永嘉王簫荘の帰還

青蘭との結婚を願う長恭は、王琳将軍と斉との関係強化のために永嘉王の帰還を実現させたいとうごきだす。そして、青蘭に協力を願うのだった。

 ★   青蘭の使命   ★ 


八月も中旬を過ぎると、秋風が吹き赤紫の萩を揺らしていた。

 青蘭はとつぜん長恭から鄴で一番の酒楼である柳順閣に誘われた。青蘭が柳順閣に着くと、すでに客房の卓には料理が並べられている。

「師兄、ほんとうだったら、私がもてなさないと行けない。いつも世話になっているのは私のほうだ」

「この前の中秋節では、忙しくてお前に馳走もできなかった。だから、今日はゆっくりと酒肴を楽しもうと思って・・・」

青蘭は、戸惑いながらも美味しそうな匂いに笑顔になった。これまでは、長恭が遠出の折に屋敷の家人に作らせた中食などを用意していたのだ。長恭は、皇太后の秘蔵っ子だが、決して浪費家ではない。この豪勢な宴はどういう訳だ。

「青蘭、座ってくれ」

青蘭が宴の席に着くと、長恭は笑顔で正面に座った。長恭が瑠璃の酒杯に鮮やかな赤い酒を注いだ。師兄が私に酒を勧める?青蘭は、かつて泥酔して師兄を殴ったため飲酒を禁じられている。

「酒は、禁止なのでは?」

「少しなら大丈夫だ。今日は私がいる」


 長恭は笑顔で言うと、魚を青蘭の皿に取り分けた。おかしい。師兄から酒を勧めるなんて。それに、今日は師兄が妙に無口だ。この宴には何か理由があるのか?

「師兄、何だかへんだわ」

雉の羹を口にしたがら、青蘭は上目遣いに長恭を見た。

「いや、一緒に食べたいだけだ」

今日は、二人の義兄妹の関係を解消する宴なのか。もしや、出仕に会わせて令嬢との婚儀が決まったのだろうか。別れを切り出すために、豪華な料理を用意したのか?

「師兄、何か私に話があるのでしょう?私は・・何を聞いても傷つかない、・・話して」

 もともと、長恭との関係は学堂にいる間だけと思っていた。いずれ別れてしまうのだ。それが、少し早くなっただけだ。青蘭は、心に予防線を張った。

青蘭は箸を置くと真っ直ぐに長恭を見た。

「実は、・・・そなたに頼みがある。・・・お前の父上である王琳将軍の人となりを訊きたいのだ」

「父について?・・・」

「そなたは、父上について話したがらない。しかし、直接知っている者は他にはいなくて・・・」

 父王琳は、中原では梁の元帝に今でも忠誠を尽くす、謹厳実直な人物で通っている。しかし、家族の目線で見れば、権力のために母と離縁し、斉との同盟のために清河王と青蘭との政略結婚を画策した非情な冷血漢である。しかし、長恭にそのようなことを話すわけにはいかない。

「父は忠義第一で、今でも梁王朝の再興を期している武将だ」

青蘭の父親である王琳将軍は、斉の中でも声望が高い。

「王琳将軍の人となりを訊きたいのだ。娘のそなたから見てどのような方なのだ」

 長恭は、箸を置くと両手を組んだ。

「父は、君主には忠義を、臣下には温情をほどこす立派な人物だ。でもその謹厳さは、家族に対して犠牲をしいることもあるということだ」

父は権力のために母を離縁し、斉からの援軍を得るために高敬徳との縁組みを行う冷徹な面を持っている。しかし、一国の臣下とすれば当たり前なのかも知れない。

「なるほど、王琳将軍は忠義に厚い方なのだな」

 長恭は、何度もうなずいた。皇族の長恭にとっては、父の忠義心こそ最も賞賛に値することなのであろう。


 王青蘭の父である梁の将軍王琳は、梁王朝の再興を期して、鄴都に可之元を送っていた。永嘉王簫壮の梁への帰還を、斉の朝廷に働きかけるためであった。

 永嘉王簫莊は、元帝(簫繹)の皇子である。北斉と梁の和睦のために、五歳で父母の許を離され北斉に人質に出されたのである。そしてこの年、簫壮はわずか十歳であった。


「じつは、御祖母様から頼まれていることがあるのだ」

 長恭は、先日の祖母からの依頼の件を打ち明けた。

「陛下は、永嘉王の帰還を望んでいる。私も、王琳将軍に協力したいのだ。永嘉王が帰還を望むようにするにはどうしたらいいと思う?」

 長恭の話とはこの事であったのか。別れを恐れていた青蘭は、ほっと胸をなで下ろした。

「父上は、何のために永嘉王の帰還を願い出たのでしょうか?」

人質は確か未だ童子のはず。そのような幼児に何をさせようとしているのだろう。

「ああ、君も知っているだろうが、建康では陳覇先が皇帝として陳を建国した。王琳将軍は、永嘉王を中心に梁の勢力を結集しようしている」


 年端も行かぬ幼児を旗頭として利用しようとしているのか。父上は、以前より追い詰められている。それは、自分が江陵から逃げてきたせいかもしれない。

「たしか、永嘉王は十歳足らずのはず。童子にそのような重責が果たせるものでしょうか」

斉と梁との絆は、本来自分が担うべき重責だった。それを自分は放棄してしまったのだ。

「私も実は心配しているのだ。永嘉王にその意思と能力があるかどうか」

 長恭は、杯に注いだ赤い酒を飲み干した。

 斉の皇宮で育った亡国の皇子が、祖国とは言え自分を捨てた国の旗頭になることを望むだろうか。

「師兄、私を永嘉王に会わせて下さい。そうすれば説得できるかも・・・」

「永嘉王の前では、男子と偽るわけにはいかないだろう?お前の存在を知られてもいいのか?」

「宮女の衣装を貸してもらえば、他の者に気が付かれないかと・・・」

 青蘭は真剣な面持ちで、長恭を見つめた。

「そうか、そなたが協力してくれるとは、ありがたい」


 永嘉王に会いに行くことは、斉の朝廷に関わることになり、母に知られれば、怒りを買うに違いない。

それだけに留まらず、自分が永嘉王にかかわればいずれは、自分の存在が明らかになり破談の事実も長恭と敬徳に知られるかもしれない。そうすれば、友情を失うおそれもある。

 そして、その先には、荒寥とした孤独な人生が待っているのだ。しかし梁王朝の再興を願う、父王琳の最後の希望を台無しにするわけにはいかない。

「わかった。師兄と父上のために全力を尽くす」

 青蘭は、笑顔を作るとうなずいた。


  ★  永嘉王府への訪問    ★


 金明門を出て中陽門街から西へ入ると、見慣れた鄭家の門が見える。

 しかし、今日はここではない。馬車は鄭家の西の小路を入ると、通用門の前で止まった。金木犀の濃厚な香りが、鄭家の内院から流れて秋の気配を漂わせている。

 長恭は窓をわずかに開けた。青蘭は北斉の女子の衣装を着たことがない。先日届けた宣訓宮の侍女衣装は、一人で着付けができただろうか。

 扉の開く音がして、長恭は馬車の外に飛び出した。

 門から青蘭が姿を現す。白粉を塗り紅を濃く引いた唇は、まるで別人のようだ。躑躅色の上襦に朱色の帯を締め、浅黄色の長裙が、身体の線を際立たせている。

「見咎められなかった?」

 長恭は扉の前に出ると手を差し伸べ、青蘭を笑顔で迎えた。青蘭は披風をまとうと、素早く馬車に乗り込んだ。


 馬車が小路を動き出した。青蘭の横に座る。

 侍女の衣装は胸元を大きく強調している。薄絹の披風から透けて見える青蘭の侍女姿に、長恭は目のやり場に困って窓をわずかに開けた。

 青蘭は頭巾を下ろすと、双輪に結った髷の横に芙蓉の造花が刺されている。披風の襟元から侍女の衣装がのぞいている。躑躅色の上襦に締めた赤い帯が薄絹に透けて見える。

「侍女の衣装の着方が分からなくて・・・」

 青蘭は、薄絹の披風を肩から下ろした。侍女の衣装は胸元を大きく開いて、蠱惑的な膨らみが眩しくて長恭は目をそらした。いつもは、女子としての胸の膨らみを白絹で潰していたのか。

「だ、大丈夫だ・・・だが少し帯を上げた方が良い」

 長恭の言葉を聞いて、青蘭は真面目な顔で帯を引き上げた。

「髷の造花は、横に付けた方が良いな」

 長恭は、目をそらしたまま造花を刺し直した。なぜ、最初から青蘭を女子だと気付かなかったのだろう。

「やっぱり、おかしい?斉の女官の格好なんて初めてなので・・・落ち着かなくて」

 青蘭は、恥ずかし気に造花の簪を触った。

「おかしくないさ・・・やっぱり女子だったんだ」

 青蘭は、長恭の言葉に頬を膨らませた。眉を描き濃いめの口紅を佩いた青蘭は、輝くばかりに清雅だ。

「師兄・・・やっぱり女子だったなんて・・・似合わないと言いたいのでしょう?ひどい」

 青蘭は片眉を上げて長恭の肩を叩いた。侍女姿だと、何気ない仕草も媚態になってしまう。こんな可憐な青蘭を、どうして手放すことができるだろうか。


 座り直した青蘭は、足元に置いていた食盒を膝の上に載せた。

「師兄、じつは建康の菓子を作ってきたの」

 幼くして江陵を後にした永嘉王に、懐かしい味を少しでも味わわせたいと思ったのだ。

「師兄、一口酥を作ったの。永嘉王は、食べてくださるかしら」

 一口酥は、小麦と蜜そして油を使って焼いた建康で人気の菓子である。

「そうだな、永嘉王が喜んでくださればいいのだが」

 人質として育った簫荘は、長恭からの菓子を警戒するに違いない。はたして、青蘭の好意が通じるであろうか。長恭は、心配そうに青蘭を見た。


  ★  永嘉王との対面    ★


 馬車は金明門に到着した。

 金明門は皇宮の西にあり、官舎が立ち並ぶ皇城と太武殿を中心とする宮城の間にある横街の西の出入り口である。

「師兄、見咎められないかしら」

 これから、鄴の宮城に入るのだ。緊張で青蘭の心臓はドクドクと高鳴る。

「大丈夫だ。私が付いている」

 青蘭は、披風を脱ぐと馬車を降りた。

 躑躅色の上襦に浅黄色の長裙を着ける見慣れた侍女姿が、若い青蘭がまとうと精美になる。輝くばかりの姿を誰にも見せたくない。僅かな後悔が脳裏をよぎった。

金明門前の広場は、多くの宦官や官吏が集まり、馬車でごった返している。

 長恭は青蘭を隠すように前に立ち、侍衛に令珮を示すと横街に入った。


 横街は、皇宮の中央を東西に貫く路である。

 横街の両側には、高い塀がそそり立ち、南には官吏が実務を執る三省六部の殿舎に続く門がある。そして北には、皇帝が政を司る内朝や皇妃たちが住まう中朝や後宮の宮殿がある。


皇帝に仕える宦官や宮女達は、各門の出入りが腰佩や令佩によって厳しく管理されている。昼過ぎの横街には、多くの宦官や宮女が行き来していた。

 長恭の後には、侍女として青蘭が食盒を持って伏し目がちに付き従う。青蘭は、俯きながらもさりげなく横街の様子を観察した。

「長恭皇子よ」

宮女達は、長恭の姿に袖引き合って通り過ぎる。皇宮でも、長恭は注目の的だ。

「あの若い侍女はだれ?」

 青蘭は全身に突き刺さる、視線を感じた。侍女と偽って潜り込んだと知られれば、罪は免れない。

 二人は宮城の正門たる含光門の前を通り過ぎ、東にある昭慶門の前に到った。


 昭慶門の中には、南院がある。

 南院は、宮城の南東の端に位置し、後宮には属さない。他国からの使節や人質が滞在するところであった。

 梁の皇子である簫壮は、人質に来た当初は幼少であったため後宮で養育されていた。しかし、元帝の死後、人質としての価値がなくなると、この南院に移されたのである。父元帝の死後は、わずかな家臣に守られながら、だれからも忘れられたように生きてきたのだ。

 刺客の襲撃や食物に毒が入っているなど、命の危機に瀕したことは、一度や二度ではなかった。梁からの仕送りが途絶えた後は、元帝を思慕する旧臣からの送金や皇太后の温情による援助に頼って主従の命脈を保ってきたのだ。


長恭と青蘭は、門衛に皇太后の令佩を示すと昭慶門から入った。

「ここからは、君は師弟じゃなくて私の侍女だ。心して仕えよ」

 門から真っ直ぐに北へ進むと、右手に小さな門が見える。偉容を見せる数々の宮殿が建ち並ぶ中で、南院にある永嘉王の屋敷は、見窄らしいぐらい質素な造りである。


「誰か、あるか」

 門衛もいない入り口の門を開けると、長恭が声を張り上げた。前庭には、松の老木が一本あるだけで人影なく閑散としている。先触れは来ているはずなのに、はたして、本当に永嘉王がここにいるのだろうか。

 しばらく待つと、ほどなく偏殿から小柄な宦官が走り出てきた。

「長恭皇子に、挨拶を」

「皇太后の命により参った。永嘉王は、いるか?」

 平伏していた宦官は、立ち上がると正殿に走った。


 正殿に入ると、堂の中は、驚くほど装飾品が何もない。

 暗さの中で、侍女に促された永嘉王簫壮は、立ち上がると長恭の方に近づいてきた。

「あの、本日は・・・」

 長恭が前に進み出て拱手をすと、簫荘は強張ったような笑顔を見せた。

 先日、皇太后の遣いを受けてから、簫荘の心は恐れに慄くばかりであった。楼皇太后の援助を受けてはいるが、高一族の残虐さは、さんざん家臣たちから聞かされていた。自分に何をしようというのか。

「永嘉王、私は高長恭と申す。皇太后が、皇子の体を心配して、私を遣わされた。こちらは、皇太后からの賜物だ」

 長恭は、声に温色を表しながら赤い朱塗りの櫃を渡した。重さからすると銀子に違いない。

「皇太后に感謝します」

 櫃を侍女に渡すと、簫荘は長恭に椅子を勧めた。

 簫荘は十歳に少年にしては、大柄な少年である。少年らしい清潔な頬と、美しい瞳が出自の高さを示している。長年の人質暮らしが、簫荘の明るさを奪っているのだろうか。

「祖母である皇太后様は、慈悲深い方だ。多くの孫と同じように、永嘉王のことも常に気にかけている」

 長恭は、清澄な瞳で少年を見た。

「皇太后様には、大変世話になっている。我ら主従が生きていられるのも、皇太后のおかげだ」

簫荘という少年は、思ったより聡明らしい。しかし十歳の子供がで梁の旗頭になれるものだろうか。

「皇子、学問の師匠は?」

「以前は、師匠が来ていたが、今は侍女に『千字文』を習う程度だ」

 見捨てられた人質は孤独だ。身分に相応しい教育も受けずに成長すれば、たとえ優れた素質を持って生まれても、君主として相応しい振る舞いはできない。 

簫荘の手助けをしたい。相応しい学問を身につければ、国や民を守るために南朝へ帰還することも、拒絶するとは限らない。


 長恭は、後ろに控える青蘭に振り向いた。

「そうであった、・・・今日は南朝の菓子を用意しました。ぜひご賞味を」

 青蘭は、前に進み出ると食盒を侍女に渡した。

「一口酥を作って参りました」

 一口酥は、母妃と食べた懐かしい菓子である。皇子は南朝の一口酥と聞いて、目を輝かせた。

 ところが、側に控えた侍女は一瞬厳しい顔色になった。菓子による毒殺は、皇宮で最も警戒しなければならないことである。しかし、皇太后の遣いが持参した菓子は、その時に賞味しなければ非礼になる。

「前庭に、茶の準備をいたします」

 侍女が、食盒を持って茶器の準備に退出すると、堂には三人だけになった。


「永嘉王、そなたは王琳将軍を知っているか?」

「はあ、臣下より何度か聞いたことがある・・・」

簫荘が江陵にいた頃は、王琳将軍は長沙にいたため、会ったことはなかったのである。

「王琳将軍は、梁の再興を期して淮南で力を溜めている。・・・今日は、南朝に縁のある者を連れてきた」

長恭は笑顔で立ち上がった。

「縁のある者?」

「王琳将軍の子息が私の朋友なのだ。その妹を連れてきた」

 長恭は、青蘭に手招きをした。

「この者が、王琳将軍の息女王青蘭です」

 青蘭は、長恭の横に進み出ると、簫莊に臣下としての拝礼をした。

「立つが良い」

 青蘭の頭上から響く永嘉王の声は、まさしく綿々と続いてきた梁王朝の歴史の崇高さを感じさせた。

 立ち上がった青蘭は、鄭家や長恭から聞いた父王琳将軍の近況を皇子に分かりやすく説明した。

「父は、梁の旧臣を長江流域に集め、梁の再興を期して戦っております」

青蘭の堂々とした話しぶりは、令嬢と言うよりは学士のようだ。

「王将軍は、どの様な方だ」

「父は、娘の私から見ても謹厳実直で梁を思う心は誰にも負けません。家臣には温情を施し、君主には忠義を忘れません」

青蘭は強い目で簫荘を見た。

「私は五歳の時、人質として斉に来た。父上が江陵で戦っているときに、私は梁のために何もできなかったのが無念だった」

簫荘は、うつむいて溜息をついた。

人質は両国の同盟の証であり、戦に際しては援軍を送らせるよう働きかけなければならない。しかし、十歳に満たない簫荘には、何ができただろうか。


「皇子には何の・・・」

 純粋な簫壮を慰めようとしたとき、長恭が制するように青蘭を見た。

「もし、王将軍より招きたいとの要望があったら、皇子はどうする?」

 長恭は、重大な質問をさりげなく訊いた。

 簫莊は、扉の向こうの蒼天を見るような遠い眼差しをした。その瞳は、とても十歳の子供とは思えない深い色を宿していた。

「江南で、まだ私に出来ることがあったら、・・・果たしたいと思っている」

幼くして人質として斉に来た簫荘は、年齢より大人びた俊優な男子のようだ。長恭は、困難な人生に立ち向かおうとしている簫荘の幼い顔を見ると胸が痛んだ。


「庭に、茶の用意ができました」

 侍女の言葉に呼ばれて、三人は前庭の露台に出た。松の老木の下に作られた粗末な露台である。

 露台には、二人分の茶器が用意され、青蘭が持参した菓子も皿の上に並べられていた。

侍女が茶杯を配ると、簫荘は子供らしく菓子に目が行った。

「ああ、一口酥だ」

 簫莊が思わず手を伸ばそうとすると、侍女が遮った。

「お待ちを、私がお毒味を・・・」

 他家からの食べ物は、毒味をするのが決まりである。しかし、皇太后の遣いが持参する菓子を毒味することは無礼であろう。

青蘭は顔色を失った。これでは、青蘭を傷つけてしまう。

「皇子、この菓子は私の好物なのだ。先にいただこう」

 長恭は温順な笑いを浮かべると、一つ摘まんで口に運んだ。サクッとした食感に蜜の甘さが口いっぱいに広がる。もとより毒など入っているはずもない。

「これは旨いやつだ。青蘭殿は、菓子作りが上手いな」

 緊張した空気がいっきょに和やかになった。

 侍女がうなずくと、簫荘はさっそく一口酥を手にして大きな口を開けて食べ始めた。やっぱり十歳の子供なのだ。

「長恭殿、こんなに旨い菓子は、久しぶりだ」

 長恭は、簫莊の年相応の子供らしい振る舞いにほっと胸をなで下ろした。

「荘皇子、皇族には学問も武術も必要だ。もし良かったら共に鍛錬せぬか?・・・」

「有り難き仰せです」

 武勇をほこり残忍だとさんざん聞かされた高一族の中で、高長恭皇子だけは清廉で温順な心を持っているらしい。簫荘は久しぶりに晴朗な笑顔になった。


    ★    青蘭の使命と後悔   ★


 横街を通り、二人は金明門から出た。馬車に乗った青蘭は無口であった。

「青蘭、何を、怒っている?」

「何も怒っていない」

簫荘は皇子としての気概を持った子供であり、南朝への帰還にも意欲的だった。でも、納得できない。

「私たちは、永嘉王を利用しようとしている」

 青蘭は、額に手を当てた。

「簫荘が、南朝に戻るのは、本人のためでもあるのだ。このまま斉の皇宮に埋もれても出世の道はない。一家を構えることもできず、摩滅していくだけだ。むしろ、一国の君主となり・・・」

価値を失った人質は、歴史の中で埋もれていくしかないのだ。しょせん皇族は、武勇や才覚でのし上がらなければ、己の面目を保つこともできないのだ。

「私は、斉と王琳将軍のために尽力したいと考えている。それはひいては私と君のためなのだ」

長恭は、青蘭の肩に手を置くとその顔を覗き込んだ。

確かに師兄の言うとおりだ。父王琳が永嘉王を旗頭として勢力を伸ばし、斉と同盟すれば、長恭の存在が重みを増す。そして、それは二人の今後にとって光明となるかも知れない。

 反論できない。青蘭は永嘉王への申し訳なさに言葉もなく馬車の壁に寄りかかった。


 後ろ盾を持たない皇子は、政略の犠牲になる。簫荘の運命は、未来の長恭自身の運命かも知れないのだ。

「永嘉王は、自ら正しい判断をする」

長恭は青蘭を慰めるように頭を撫でた。青蘭は純粋だ。青蘭に政略の駆け引きを知らせるべきではなかった。長恭は青蘭を巻き込んだことを後悔した。

「青蘭、大丈夫だ。君は心配しなくていい。王将軍にも、永嘉王にも悪いようにはせぬ。・・・私にまかせてくれ」

 長恭は、青蘭の肩を引き寄せた。

「永嘉王が梁の再興を果たせば、王将軍は一番の功臣となる。私も功労者の一人となろう?そのための助力は惜しまない」

 陛下と御祖母様の望むように永嘉王が南朝に戻れば、自分の力を示すことにもなる。もしも、王将軍が斉の家臣となれば、青蘭とも不釣り合いというわけではない。

 長恭は、披風を取ると青蘭の肩に着せかけた。

永嘉王に面会した青蘭は、ほんの子供である永嘉王に課せられる重責に、協力したことを後悔する。

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