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天平寺の甍

長恭と青蘭は、仏典の翻訳を見学しようと天平寺に出掛けた。しかしそれは、敬徳の仇討ちに協力するために、天平寺の工事現場の様子を探りに行くことが目的だった。



★  天平寺の黄昏     ★


長恭と青蘭は早朝に鄴城の城門を出ると、南に馬を走らせた。草原はすでに秋の気配を見せている。清涼な風が吹き、女郎花や桔梗などの草花が咲き始めている。

先を駆けていた長恭は、速度を落とすと青蘭の横で併走した。

「遠乗りは、気持ちいいだろう?」 

盂蘭盆会以来、青蘭は自分を避けず以前のような関係に戻っている。馬を御する秀麗な青蘭の姿に、長恭は目を細めた。


 夾竹桃の林の近くで、二人は馬を停めた。

馬を降りた青蘭は、手の平で影を作ると、南の彼方を見た。

「師兄、天平寺は遠いの?」

「ああ、もう少し南に行ったところだ」

一昨日、青蘭は、天竺の高僧である那連殿を天平寺に訪ねようと、長恭から誘われた。以前、潅仏会のときに長秋寺で会った天竺から来た僧侶である。

 母の鄭氏は、遠出にはいい顔をしない。しかし、仏教が隆盛を極める斉では、寺院への願掛けが奨励されていた。天竺に興味がある青蘭は、父王琳の戦勝を祈願することを口実に天平寺への参拝に出てきたのである。

 通常、女子の外泊は許されないが、護持札の拝受には、数日の勤行が普通だった。


長恭は馬鞭を握りながら、南の方を指さした。南方の山々は、朝霧で煙っている。

「まあ、・・・天平寺は、それほど遠くはない。・・・しかし、腹が空いては行き着けぬぞ。朝飯を持ってきた、漳水の畔で休もう」

長恭は馬にくくり付けた嚢を笑顔でたたいた。


漳水の辺に広がる灌木の林をぬけて、草地に入った。灌木が繁り、座ると周りからは見えない。

 長恭は、嚢から朝餉を取りだした。御膳房に用意をさせた焼餅と雉の豆醤焼き、二つの梨を手巾の上に広げた。青蘭は、渡された水筒から冷たい水をぐいっと飲んだ。

「師兄、那連殿とはどこで知り合ったのです?」

「那連殿は、天竺から渡来した高僧だ。天竺の各地のみならず、西域の各地域を遊歴して中原にきた。陛下がそれをお聞きになり、進講を望まれたのだ。仏会で皇宮に来たときに知り合った」

 長恭は焼餅を手に取った。

「そう、天竺からはるばる渡来したのですね」

好奇心の旺盛な青蘭は、子供のように目を輝かした。

「天平寺では、経典を天竺の文字から漢字に翻訳する仕事をしている」

「天竺語から中原の文字に?」

「ああ、仏教の奥義は、経典に書いてあるそうな。中原に仏教を広めるために経典の翻訳は避けて通れない」

那連は、そのような偉業を、この斉で行おうとしているのか。青蘭は北方の文字を見たことがあったが、天竺の文字は見たことがない。

「翻訳しているところを、見たい」

「分かった。那連殿に頼んでみるよう」


 長恭は青蘭の学問への志を常に助けてくれる。

「師兄には、食事まで用意してもらって申し訳ない」

「何言う。私は作るように命じただけだ」

 想いを拒絶されたのにも拘わらず、いぜん師兄は友として接してくれる。長恭が結婚したら、夫人はきっと幸せになるにちがいない。

「この雉肉も、屋敷の御膳房が作ってくれたの?さすが贅沢だ」

豆醤焼きの雉肉の匂いを嗅ぐと、青蘭は皮肉って長恭を見た。

「青蘭、文句があれば、食べなくてもいいんだぞ」

長恭は意地悪にも雉肉を取り上げると、高く差し上げた。青蘭は、取り返そうと身を乗り出した。

「取るなんて・・幼稚だ」

意地になった青蘭は、膝でにじり寄ると取られまいとする長恭の肩に手をかけた。

「師兄に渡さない・・」

肉に手が掛かったと思った途端、長恭と青蘭は重なって倒れた。

「うわ、ああ」

 崩れるように二人の唇が重なった。

 甘い柔らかさに絡め取られ、力がぬけたように身体が動かない。青蘭は、思わず瞼を閉じた。

 縹色の袖が青蘭を包み、長恭の唇が青蘭の下で滑らかに動いた。官能的な沈香の香りの湖が青蘭を柔らかい花弁の中に引きずり込む。青蘭は清婉な幻を見た。


一瞬だったようにも、長い時間だったようにも感じた。

「師兄、・・・放して」

 唇の動きが止まって、我に返った青蘭がつぶやいた。

 ドサクサにまぎれて、青蘭の唇を奪ってしまった。

「青蘭、お、お前は、想ったより重い。・・・」

 青蘭が許すはずがない。罪悪感が、長恭を卑怯者にした。

 青蘭の身体を支えていた長恭の腕が離れると、青蘭はいきなり長恭の胸から地面に転げ落ちた。

「痛い・・・」

青蘭が頭を抑えて起き上がる。卑怯な男だと青蘭は怒っているに違いない。

「青蘭、・・・悪かった。そんな気じゃなかったのだ・・」

そんな気じゃなかった?無理やり口づけした後に、そんな気じゃなかったと言うのか。自分を想っていると言った後に、そんな言葉を聞くとは・・。

 やっぱり、皇族は移り気だ。

「分かっている。・・・気にしないで」

「青蘭、怒っているのか?」

青蘭は、唇を尖らせて細かく首を振った。

 先日の言葉だって、師兄にとってはほんの気まぐれだったのかも知れない。心変わりを薄情だと責めても自分が惨めになるだけだ。

「師兄に怒るなんて、・・・さあ、先を急ごう」

 長恭と視線を合わせないようにして、青蘭は昼餉の片付けを始めた。


★   天平寺の蒼天  ★


青蘭は騎乗すると、馬に力いっぱい馬鞭を当て天平寺に向かって駆け出した。漳水の流れから離れると、蒼天のかなたに小高い丘が見えてくる。

 師兄との身分の隔たりは大きい。師兄に心の全てを明け渡したら、私はこれから生きて行けない。

 青蘭は、馬上で唇をかんだ。

「あの丘の向こうが、天平寺だ」

指をさす長恭の横顔を見ると、先ほどの口づけの感覚がよみがえる。

 


天平寺は、大きな門を持つ壮麗な寺院だった。広い門の前で馬を降りた長恭と青蘭は、門衛に声をかけた。

 天平寺は、仏教が隆盛した前王朝の北魏の時代に建てられた寺院である。北魏が滅び北斉の時代になってからも、朝廷の庇護を受け続けた。那連氏が住職になってからは、多くの学僧を抱え仏典の翻訳が行われていた。


山門を入ると、整備された参道の左右には松の木が植えられている。壮麗な楼門をくぐるとほどなく若い僧が現れて、二人を堂に案内した。本堂の中に安置されているのは、盧舎那仏座像である。長恭と青蘭は拝礼すると線香を献じた。


しばらく待つと鬱金色の袈裟をまとった長身の僧侶が現れた。天竺から渡来した異形の僧侶、那連提黎耶舎である。

「長恭皇子、よく来てくれました」

那連は、丁寧に両手を合わせた。

「こちらは、同門の弟弟子の王文叔だ。経典の翻訳を見たいと言うので連れてきた」

長恭が青蘭を紹介すると、青蘭は那連に恭しく拱手をした。

「長秋寺でお会いしましたな」

 那連は、穏やかな瞳で青蘭を見た。

「仏典の翻訳に興味があるとは頼もしい」

 中原の儒学の徒は、仏教に偏見を持っている。仏教を根付かせるためには、士大夫の理解が欠かせないのだ。

「法師は、各地を巡ったとか。天竺の話をお訊きしたい」

 那連提黎耶舎は長耳法師とも言われ、その学識とともに長い耳とその長身の移相によっても知られていた。幾多の困難を乗り越えて中原にやってきた那連から聞く話は、きっと刺激に満ちているに違いない。

「もちろんだ、何なりとおききください」

朝の出来事を振り払うように、青蘭は明眸を那連に向けた。


荷物を宿坊に置くと、長恭と青蘭は那連の案内で講堂に向かった。

講堂の中には昼から多くの蝋燭が灯され、およそ十人の学僧が几案に向かって翻訳に励んでいる。

「この者たちの半数は、私と一緒に天竺から来た者で、残りは天竺の言葉を中原で学んだ者たちだ」

那連は、中原はもちろん西域の言葉にも堪能だが、天竺と中原の言葉を自由に操れる者は少ない。

青蘭は、竹簡に書いてある天竺の文字を覗いた。

「中原の文字とは成り立ちが違うようだ」

長恭はすでに翻訳された経典と原本を見比べながら溜息をついた。

「翻訳の事業は何年ぐらいかかるのだ」

 長恭が、清雅な瞳で那連を見上げた。

「さあ、このままでは何年かかるか分からない。そこで、陛下に新しい寺の造営をお願いした」

高帰彦の屋敷の書庫で、聞いた天平寺の造営とはこれのことだ。師兄は、これを探るためにこの寺を訪ねたのか。

「新しい寺の完成を楽しみにしている」

長恭は温順な笑みを浮かべると、那連に向かってうなずいた。


★   九重の蓮台  ★  


「天竺から持ってきた蓮が花を咲かせました」

那連は、長恭と青蘭を蓮池に誘った。天平寺の蓮は巨大でその葉の上には、人も乗れそうだ。

長恭は、水面から伸びた蓮の花に触れた。

「仏教では、蓮の池を極楽浄土に見立てているとか」

北魏のころから、北朝では仏教が広まり磨崖仏を寄進することが流行っていた。しかし、仏教の何たるかを悟る者は少ない。

「極楽浄土かどうかは分からないが、泥の池に根を持つ蓮でも、悟りを開けば美しい花を咲かせるということだ」

那連は、微かに笑みを浮かべて西の夕空を見た。

「仏教は人々を、救う教えなのですね」

 青蘭は、苦難から人々を極楽浄土へ導くという天竺の教えに興味を持った。自分のような苦しむ女子にも救いはあるのだろうか。

 天竺は、中原以上に身分制度が厳しかった。それを解消しようと生まれたのが仏教であった。仏教は天竺から伝来し中原に広まったが、それは貧しい民を救うと言うより、新しい文物を取り入れて国家の威信を示すためのものであった。

「悟りについて、詳しく教えを受けたい」

長恭は目を輝かす青蘭を横目で見ながら微笑んだ。

「拙僧の方丈で、茶を差し上げよう」


 長恭と青蘭は方丈に入ると、卓の前に座った。

 茶杯になみなみと注がれた馬乳茶が、温かい湯気を挙げている。青蘭が口の運ぶと、塩辛い味に舌がピリつく。

「はは、西域の茶だ。・・・岩塩が入っている」

青蘭の反応に、那連はおかしそうに笑った。西域を遊歴してきた那連の煎れる茶は、中原とは違っている。

「天竺には、中原では想像できぬ文物があるとか」

青蘭は好奇心に目を輝かせた。

「そうだ、天竺には象という巨大な動物がある。小山ほどの大きさで鼻が長い。いつもは従順だが、怒ると全てを破壊する、恐ろしい動物だ」

「ほう、象?長秋寺で木彫りの物を見たが、本物がいるのか。天竺はすごい」

長恭を超える長身の那連のような人間がいる天竺とは、何でも大きくなるらしい。

「香辛料の実が庭先に実るので、天竺の食べ物ではそれらの物をふんだんに使っている。天竺の仏教徒は殺生を禁じられているので、豆や魚と野菜が中心で四つ足の肉は食べないのだ」

「豚や羊も食べないの?・・・それでは力が出ないのでは?」

天竺とは何と不思議な国であろう。酷暑であるのに、鳥以外の肉は食べてはいけないのだという。仏教とは、何と戒律が厳しい宗教であろう。贅を極め不老長寿を追求する道士とは、何という違いだ。


 話が尽きて気が付くと、さっきまで傍にいた長恭の姿が見えない。青蘭は寺院内を長恭を探し歩いた。

若い僧が青蘭の傍に寄ってくる。

「皇子は、用事があると先ほど出られました。先に勤行に行くようにとの伝言です」

 師兄はあの後、二人だけになるのが気詰まりなのだ。自分を避けようとして自分を置いて行ってしまったに違いない。

 青蘭は宿坊に戻った。


申の刻には勤行が始まった。この寺に来たのも、勤行を行い護持府をいただくのが目的であった。

青蘭は読経の中、手を合わせながら長恭を待った。後から来る者と思っていた長恭は結局現れずに、夕方の勤行が終わった。

『一緒に祈るだけでも気まずいのか。想いを拒絶した私は、そんなに嫌われてしまったのか』

青蘭は溜息をつきながら、宿坊に戻った。


直ぐに戻ると思っていた長恭は、夕餉が運ばれてきても戻らなかった。気まずくて

避けているにしては、あまりにも遅い。何か事故にでもあったのだろうか。

那連に訊いてみようと、立ち上がった。いやいや、大ごとにしては皇子である師兄に迷惑がかかる。

青蘭は思い直して、榻に座った。

 そうだ、新しい天平寺の造営に関して、不正があると端午節の宴の折に聞いた。それと何か関係があるのか。きっと師兄に何かあったのだ。


青蘭は長恭を探して回廊に出ると、夕焼けに染まる西の空を見上げていた。ほどなく夕闇が訪れる。鄴ならいざ知らず、天平寺の周辺の土地にはまったく不案内で、探しにも行けない。

回廊の手すりに座っていると、小僧が灯籠を持って現れた。

「こちらの灯火と蝋燭をお使いください」

 数本に蝋燭と灯籠を差し出すと、小僧は戻っていった。

「世話をかける」

 宿坊に蝋燭を灯すと、いっそう長恭の不在が心配になる。夕餉は手もつけられないまま卓の上で冷えている。


長恭と天平寺に来たのは、出仕の前に長恭といい思い出を作りたいと思ったからだ。ところが、予期せぬ出来事で気まずくなってしまった。しかも夜になっても帰ってこない。

 長恭は剣の遣い手だが、もしかと言うことも考えられる。急に心配になった青蘭は、回廊に出て扉を背に座り込んだ。

 きっと戻る。そう思いながら、青蘭はウトウト扉の前で眠ってしまった。


★   傷ついた孤鴻  ★


「青蘭、起きろ・・」

肩を揺り動かされて、青蘭は目が覚めた。

「あぁ、師兄・・・」

「青蘭、こんな所で寝て、風邪を引くぞ」

長恭は青蘭を立ち上がらせると、居所に入った。


 蝋燭がすでに半分以上燃えて、房内は薄暗い。長恭は崩れるように榻に腰掛けた。いつになく息が荒い。横に座ると左の袖に血が滲んでいるのが見える。

「師兄、この怪我は?」

 青蘭が腕に触ると、長恭は痛さに身をよじった。

「青蘭、大丈夫だ、水をくれ・・・」

青蘭は椀に注いだ水を飲ませると、長恭を榻牀に運んだ。

 衿を開けて傷口を露出する。肩口に折れた矢先が刺さっている。

「酷い怪我・・・」

 早く手当てをしなければ・・・。青蘭は嚢の中の内衣を裂いて包帯を作った。


 燈台を近づける。傷口には鏃が深く刺さり出血している。酷い傷だ。南朝の戦乱で、青蘭は多くの負傷兵を見てきた。ここで抜かなければ、化膿してしまう。

「師兄、抜くわ。我慢して」

 青蘭は、矢の柄を握ると力一杯引き抜いた。傷口から血しぶきが飛び散る。長恭が、痛さに叫び声を上げた。

「師兄、大丈夫?」

矢を卓子の上に放り投げると、青蘭は長恭の手を握った。

「うう、青蘭、酒で消毒を・・・」

 膿まないようにするには、強い酒が必要だ。しかし、寺では飲酒が禁じられている。

「荷物の中に、酒がある」

二人で飲むために酒を持参してきたのか。青蘭は急いで長恭の嚢から小振りの水筒をとりだした。栓を抜くと強い酒の香りがする。青蘭は酒を口に含む。一気に傷口に吹きかけた。

「う、うう」

長恭は声を挙げまいと唇を強く噛んだ。

 

青蘭は長恭の上半身を脱がせると、傷口に布を当て包帯を巻いた。長身であるため一見華奢に見える長恭だが、その肢体は鍛えぬかれている。

 この矢傷は、なぜ受けたのだろう。そもそも、勤行に来なかったのはなぜなのだ。

「師兄、何でこんな傷」

青蘭は、嚢から新しい内衣を出すと肩に掛けた。

「師兄、横になって・・・」

 傷をかばいながら長恭を横にさせた。いつもは晴朗な長恭の眉が、苦痛に歪んでいる。

 青蘭が額に手を置くと傷のためだろうか熱がある。頬に泥にまみれた葉の片が付いている。

 天平寺に自分を誘ったのも、この密行のためかもしれない。

水で濡らした手巾で、長恭の顔を拭くが、目を閉じた長恭は、荒い息をするばかりだ。

『師兄、なぜこんな怪我をしたの?』

 青蘭は長恭の手をにぎった。


痛さに目を覚ますと、房内の蝋燭は燃え尽きて窓から差し込む月の明かりだけが、簡素な設えを照らしていた。目をこらすと自分の膝の辺りで丸くなって寝ている青蘭の姿が見えた。

 昨夜は、傷を負って戻った自分の矢傷を、太医顔負けの手際の良さで手当てしてくれた。南朝で戦塵をくぐり抜けてきたというのは本当だったのだ。

 昨日は、青蘭を侮辱するような言葉を吐いてしまった。

「青蘭、ごめん」

想いを拒絶された自分を守ろうと、『そんな気じゃなかった』と、想わず言ってしまった。

 薄情な男の最低の台詞だ。疚しさのあまり、青蘭と二人っきりになる場面を避けて、何も言わず偵察に出てしまったのだ。

毅然と義兄を演じるつもりだった。でも、お前を目の前にすると、冷静ではいられない。

 毎夜のように夢の中では、お前の唇と身体を奪っているから。唇と抱きしめた身体の柔らかさは、傷の痛みよりも鮮明に残っている。

新天平寺の建設現場を偵察しているとき、思わぬ方向から兵が現れた。藪の中に入り敵を巻こうとしたが、相手は精鋭だった。振り向いたときに肩に矢を受け、谷に転げ落ちたのである。

 岩の蔭に身を隠したとき、青蘭に嫌われたまま会えなくなるのが怖いと思った。せめて、もう一度自分の想いを告げてから死にたい。

 暗くなるのを待って、長恭は天平寺の戻ったのだ。



長恭は月の光の中で右手を伸ばすと、眠っている青蘭の髪に触れた。愛しい。

 任官したら愛する人を娶ると御祖母様に宣言したい。子供を作り家族で穏やかに暮らすのだ。贅沢でなくても暖かな当たり前の暮らしが、長恭の望みだった。

慎ましやかな家庭を思うとき、長恭の心に温かいものが流れた。


 思いの外深い矢傷を受けた長恭は、次の日に発熱し起き上がることができなくなった。

「医僧様、師兄の傷の具合は・・・」

「手当が早く、傷口は膿んではおりません。しかし、薬湯を飲んで三日ぐらいの安静が必要かと」

 長恭の脈を取っていた医僧は、向き直ると手を合わせて答えた。

「あとで、傷薬と薬湯をお持ちします。当て布の交換と一日に三度の服薬を欠かさぬように・・・」

 医僧をおくった青蘭は、長恭の榻牀に戻った。

 

 昨夜は話をしていた長恭が、今は伏せって起き上がることもできない。

 小柄な小僧が傷薬と薬湯を持ってきた。

「かたじけない」

 青蘭は薬を受け取ると、小僧に銀子を渡した。

 監寺に仕える小僧は、多くが戦禍や干魃で親を失った孤児である。寺院の厳しい戒律に耐えられる者だけが、ここに残れるのだ。


 榻牀に横たわる長恭を見ると、眉目は矢傷を負っているにも拘わらず端正で、苦痛の影も見せない。透き通るような白い頬と桃花のような唇は、師兄の純粋な心を表している。

 幾つもの嘘を重ねた自分には、この無辜な魂は相応しくない。

 青蘭は長恭の近くに座ると、額に手を遣った。まだ熱がある。青蘭が手を衾の中に入れようとしたとき、長恭が目を覚ました。

「あ、あ、師兄・・・目が覚めたのね」

 青蘭は、ほっとして長恭の手を握った。

「ん・・痛い・・」

 長恭がうめく。矢傷はいまだ塞がっていないのだ。

 青蘭は長恭の傍に座ると、薬湯を匙でかき混ぜた。

「医僧によれば、三日静かに養生すれば快方に向かうそうよ」

 青蘭は薬湯をすくうと長恭の唇に滑り込ませた。

「だめだ、明日、天平寺から帰るようにしよう」

「でも、それでは師兄が・・・」 

 青蘭の母上を怒らせるわけにはいかない。何としてもかえらなければ。 

「大丈夫、私は他の男とは違うんだ」

 長恭は、右腕で青蘭の髪をなでた。

 

次の日、護持符を拝受した長恭と青蘭は、鄴都に向かった。

青蘭は傷の回復のために頼んだが、長恭は、矢傷を押して馬上の人となった。

「師兄、大丈夫?熱があるのに」

 青蘭は馬を寄せると、長恭の腕に手を伸ばした。鄭家での立場を慮って、無理して帰っているのだ。師兄は、自分が気付かないところで、いつも守ってくれている。


「師兄、ここら辺で休もう」

 長恭と青蘭は漳水の辺で馬を降りると、灌木の林に入った。百日紅の木が、陰を作る。

青蘭は長恭を馬から降ろすと、支えながら草地に座った。馬に揺られていた長恭は、苦しげに大きく息をした。傷口が開いたのだろうか。

「師兄、大丈夫?」

青蘭は、長恭に水筒を渡すと額に手を遣った。まだ熱がある。

「朝、医僧からの薬湯を飲んだから、大事ない・・・気にするな」


長恭は横になると、青蘭の膝の上に頭を乗せた。

「青蘭、まだ怒っているのか?」

二日前から、何度も訊こうとして訊けなかったことだ。大儀そうに目を閉じていた長恭は、目を開けると、膝の上から青蘭を覗き込んだ。

「何のことかしら?」

「口づけのあとに、そんな気じゃなかったと言った」

「そんなこと怒ってない。・・・怒っているのは、・・私に黙ってどこかへ出掛けたこと」

「すまなかった、新しい、・・天平寺の建築現場を探っていたのだ」

長恭は溜息をついて目をつぶった。

 青蘭は汗で頬に張り付いた長恭の後れ毛を指で払った。長恭の長い睫が夏の光で深い影を作る。

 目を開けた長恭は、手を伸ばすと詫びるように青蘭の頬に触れた。

「お前に、嘘をついた。・・・本当は、・・・その気だった・・」

 清澄な瞳が、切なげにしばたいた。何を言っているの?

「その気だった?」

「矢が当たって、動けなくなったとき、お前に嘘をついたまま死ぬのかと怖くなった」

 青蘭は曖昧に微笑むと、長恭の頬をつねった。

「だから、青蘭、君が好きだ。拒まれても、放さない」

長恭は青蘭の首に両腕を回すと、耳元でささやいた。



天平寺の探索の途中で怪我をしてしまった長恭は、清蘭への思いは断ち切れないと再び告白するのだった。

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