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灯籠祭の夜

長恭は青蘭に想いを告白するが、青蘭は距離を置こうとする。出仕も近い長恭はあせって灯籠祭にさそう。


   ★    長恭への想い    ★


 立秋が過ぎたが、地から陽炎が立つような暑さである。太陽は中天に達し午の刻のギラギラした陽光が文叔の頭を照らした。中元節で、顔氏学堂の講義は休みになっている。


 しかし、人気のない中元節は、青蘭にとって書房を自由に使える得難い時間であった。青蘭は、顔思盧に鍵を借りて書庫に入った。青蘭は、書架の傍に立ち『史記』を取りだした。『廉頗・藺相如伝』を開くと東の窓から差し込んでくる光に目を細めた。


 藺相如は、趙の人である。趙の恵文王は、秦の昭王から、和氏の璧と城十五との交換を要求された。『和氏の璧』は、当代一の秘宝であった。承諾すれば城と璧を失い、もし断れば、強大な秦との戦が待っている。

 窮した趙の君臣は、藺相如に遣いを託した。

秦王に謁見した藺相如は、壁に傷があると偽って秦王から和氏の壁を取りもどし、趙に持ち帰らせた。藺相如は、罪を認め己を殺して欲しいと言ったが、その胆力を認めた昭王は、殺すことなく帰国させた。


 藺相如の嘘は、国と主君の名誉と安寧を守るための嘘であった。しかし、自分が男子と偽り敬徳との縁談を隠したのは、己の欺瞞を隠すためだ。

 もし自分が逃げたために、清河王との縁談を破談にしたと知ったら、敬徳と兄弟同然の長恭は許してはくれないだろう。長恭は青蘭の男装を許してくれたほど寛容で情愛が深い。しかし、仁愛に溢れた者ほど憎悪も激しいのだ。

このまま兄弟弟子として付き合い、師兄の仕官を待つのだ。そうすれば、政の忙しさに紛れて、自分との友情は、しだいに薄れていくに違いない。去る者は日々に疎した。


そのとき、書房の扉が開いて涼しい風と共に長恭が入ってきた。皇太后府での盂蘭盆会の準備があるはずなのに、なぜ師兄が学堂にいるのだ。

長恭は書庫内を見回すと、書見台にどっかと腰を下ろした。書架の陰にいる自分に気付いていないようだ。長恭が筆硯を取り出し墨をする気配がする。

『師兄の姿を見みたい・・・』

竹簡を僅かにずらすと、長恭の横顔が竹簡の間から見える。長恭は単に墨をする姿も美しい。困ったように結んだ桃花の唇が、自分を好きだと言ってくれた。広い肩からすらりと伸びた腕は、いつも自分を優しく支えてくれる。

他の女子のように、長恭の想いに素直に応えられたらどれほどいいだろう。しかし、父に逆らって出奔した自分には、許されぬ事である。

長恭は料紙を取り出すと、何かを書いた。書き終えた長恭は、しばらく腕を組んで瞑目していた。半時ばかり経っただろうか、小さく溜息をつくと片付けて書房を出ていってしまった。


 青蘭は動かした竹簡を戻した。師兄は、自分を待っていたのか?いやそれは、奢りというものだ。皇太后府の喧噪はなれて、静寂な中で書法の練習に励みたかったのかも知れない。

 友のいない青蘭にとって、長恭は初めて心を許した朋友であり、女子として惹かれた初めての男子だった。しかし、皇子と商人の娘である自分には、望んではならない縁である。


 男女の仲は、一瞬のものだが、義兄弟の関係は生涯にわたって続く。

長恭は、冬には学堂を離れて仕官する。やがて、皇太后が選んだ権門の令嬢との縁談を賜り、婚儀を挙げるに違いない。

 それは当たり前のことだ。そんな想像にも青蘭は胸の痛みを感じた。


 ★   灯籠祭の夜  ★


この年は七月に入っても、鄴都のある司州から汾州にかけて雨が降らず干ばつに見舞われた。また南方からは、蝗が穀物を食い尽くしているとの知らせが入っていた。二年連続の飢饉の気配がした。

 立秋が過ぎた後も、残暑の熱をはらんだ風が鄴都の大路に吹いていた。それでも七月十日になる頃には、鄴城の門街に中元節の燈籠が飾られていた。

 盂蘭盆会は、仏教の『ウランバナ』と道教の中元節が融合した祭事であ、七月の十五日を中心に三日間行われていた。祖先や祖霊を供養し、亡き人を偲ぶことにより仏法に遇う縁とする行事であった。


 中元節の最後の夜は、灯籠祭である。

 灯籠祭りのときは、いつもは夜間には厳重に締められる大路の門が開かれ、鄴都の人々は家族で灯籠見物に繰り出すのだった。大路に面した商賈では、競って華麗な飾り灯籠を掲げ妍を競っていた。

 中元節では、地獄の門が開き、祖先の霊が戻ってきて家族との団欒を楽しむと考えられていた。そこで、子孫は先祖を祀り、霊が帰るときには、灯籠を灯し帰る道を照らすのだという。死者の魂は、水底に存在すると考えられていたので、上元節の燈籠は上空に灯すが、中元節の灯花は、川に流すのである。


 青蘭は鄭家の屋敷を出ると、支漳河にかかる安康橋に向かった。

 長恭に灯籠見物に誘われたとき、青蘭は断るつもりだった。しかし、冬には学堂を去ることを思うと、最後の灯籠差異を一緒に見物をしたいという想いを押し殺すことはできなかった。また、母親のために一緒に灯籠を流して欲しいという長恭の願いを、断ることもできなかった。


すでに酉の刻は過ぎている。西の空には宵の明星が輝き、東には満月が昇り始めていた。

青蘭は人波をかき分けて、やっと約束の安康橋にたどり着いた。長身の長恭は、その清雅な容貌と相まって人混みの中でもそこだけ月の明かりを集めたように際立っていた。

 青蘭は橋の欄干に寄りかかりながら、少し離れたところに立つ長恭の姿を眺めた。衿に桔梗の刺繍を施した薄藍色の長衣が、すらっとした長身に映え涼しげである。色白の容貌に縹色の半臂が一層華やかに見える。

 今夜は、冬には出仕する長恭との最後の灯籠祭になるに違いない。その姿を目に焼き付けておきたい。青蘭は唇を噛みしめた。


 長恭が振り向くと、青蘭は人混みをかき分けて近付いた。

 いずれ別れるなら、今のこの幸せを大切にしたい。青蘭は様々な想念を振り払って満面の笑みを見せた。

「師兄、やっと会えた。だいぶ待った?」

「いや、今来たところだ」

師兄は、いつだって私に気を遣わせまいとする。長恭は青蘭の傍に来ると、後ろに垂らした髪を悪戯っぽく揺らした。


 二人は、横に並んで支漳河沿いに東に歩いた。門街に架かる安康橋を離れると、両側にかかげられた灯籠の灯りだけの河畔は、ほの暗さに包まれていた。柳の枝を揺らす涼風の中を多くの河花灯がゆっくりと東に流れて行く。

「中元節の美しい光景を、すっかり忘れていたわ」

 梁の都である建康が落城して以来、青蘭のいた南朝では混乱を極め、中元節などの祭事などが大々的に開かれる環境ではなくなってしまった。

「世の中がどの様に変わろうとも、民は亡くなった家族を思って灯籠を流すのだ」

青蘭は、灯籠に照らされた長恭の顔を見上げた。

「今までは花灯を一人で流してきた。でも、今年からは、君と一緒に灯籠を流したい」

 長恭は童児から求めた荷花灯の一つを、笑顔で青蘭に渡した。

「一緒に流してくれれば、きっと母上も喜ぶ」

 長恭が蓮を模した赤い灯籠に火を灯す。

 青蘭が花荷灯の中を覗くと、灯りが風に揺らめいて、大きな瞳を一層魅力的に見せる。どうして、女子と分からなかったのだろう。

「さあ、灯籠を流しに行こう」

 長恭は、青蘭の手を取ると流れの辺に降りて行った。支漳河は東に行くと人影も少なく、流れも緩やかになる。いくつもの灯籠の灯りが、列を作りながら、時には速く時には留まりながら川面を照らして流れて行く。

 長恭と青蘭は、腰を屈めると川面に荷花灯を置いた。夕闇の中で、二人が流した河灯が寄り添うように流れに沿いってゆっくりと遠ざかる。

『師兄の母上、安らかに・・・』

 長恭と青蘭は、手を合わせて長恭の母の冥福を祈った。


 長恭の母は、正式に妃に封せられなかったので、宗廟に祭られることはない。皇太后府に住まっている長恭は、正式の廟を設けることもできず、厨子の中に位牌を祭り一人で母の菩提を弔ってきた。

 長恭は母親の無念を晴らすべく人知れず研鑽に励み、恭敬される人物になったのだ。孤独な生活の中、これまでに、どれほどの努力を重ねてきたのだろう。

 支漳河の流れを見渡した長恭は、端華な瞳を青蘭に向け静かに微笑んだ。

「君と供養できて、母上も喜んでいるだろう」

 二人は立ち上がると、東に流れて行く花灯を見送った。

「師兄の母上様は、素晴らしい方だったわ。師兄を見れば分かる。いっぱいの愛情をもって育ててくださったのね」

 長恭の頬が緩んだ。母の美貌を噂する人物はいたが、その人となりをを賞賛してくれる人物は、今までほとんどいなかった。

「母上は、私に限りない愛情を注いでくれた。私は母を亡くして独りぼっちだった。しかし、今は師弟のお前がいる」

 長恭は、暗闇の中で青蘭の手を堅く握った。


灯籠祭りで、長恭の母親のために一緒に花灯を流した青蘭は、長恭の境遇に同情ししだいに心を開いていくのだった。

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