斛律蓉児の訪問
高長恭の想いを拒絶した青蘭は、長恭と顔を合わせられず、なかなか学堂に行けない。やっと学堂に来てみると、手巾を渡した張本人の蓉児が学堂に押しかけてきた。
★ 六月の撫子 ★
鄴城では、大暑が過ぎ、百日紅の赤い花が一層鮮やかさを増した。
青蘭は、学堂に行こうと鄭家の門に立った。
青蘭は、反射的に長恭の馬車を探してしまう。そうだ、告白の言葉に、容赦なく拒絶しては、鄭家に来なくなるのも当然だ。
青蘭が屋敷を出て南に向かうと、西市に行き当たる。
鄴都には、東西に大きな市がある。西の市では、北斉国内や西魏、南朝にとどまらず西域から来た胡商の店が軒を連ねている。大路沿いには、香料・宝飾類を商う商賈や焼餅・饅頭を売る露店が出ている。
鄴都では市で商いをする女子も多い。城外で採れた野菜を運び、路上に並べて売るのである。南朝の女子より自由に振る舞い、大声で客を呼び込んでいる。
『女子としてのお前が好きだ』長恭はそう言ってくれた。しかし、父の決めた縁談を放棄して出奔してきた自分は、普通の令嬢には縁が無いのだ。
青蘭の冷たい拒絶にも、長恭は怒るどころか、想いが通じるまで待つと言ってくれた。これから、師兄とどう向き合って行けば良いのだろう。
文叔は重い足どりで、数日ぶりに顔氏邸の門をくぐった。顔氏邸は、人影もなく朝の爽やかな空気にそまっている。
鍵を借りて書庫房に入る。朝の光が南の窓から差し込んで、書見台を照らしている。
青蘭は書見台の前に座り、『荀子』を取り出すと巻第一を開いた。
『青は、これを藍より取れども藍より青く』
顔氏門下で最初に学んだ一節である。
この言葉を知って以来、いつも側には長恭がいた。しかし、共に学べるのも、あとわずかだ。師兄の不在の学堂で、自分はどう学ぶのか。青蘭は、頭を抱えた。
青蘭は、書見台を離れて書架の側に立った。
手を伸ばすと『神農本草経』の竹簡が入った袋が手に当たった。
『神農本草経』は、後漢から三国時代にかけて神農氏によってまとめられた薬草や薬物に関する書物である。
青蘭は父と共に江南を転戦する中で、病に苦しむ多くの民の姿を目にした。そのなかで、戦乱に苦しむ民のために尽くしたいと思った。女子の道を捨てて学問を選んだとき、医術や本草学なら自分も民を助けられるのではと思うようになったのだ。
青蘭は、『農神本草経』の袋に手を伸ばした。
青蘭が、袋に付けられた見出しの札をめくろうとしたとき、書庫房の扉が勢いよく開かれて、夏の風が書庫の奥に吹き込んできた。
朝の爽やかな風に二藍色の袖がひるがえり、長恭が飛び込んできた。
「文叔、やっぱりいたな」
この前に出来事などすっかり忘れたような、晴朗な笑顔で青蘭の横に立った。
「昨日も待っていたのだぞ。・・・なぜ来なかった」
「その・・・風邪を引いて・・・」
青蘭は横を向きながら、苦し紛れの言い訳をした。
心配した長恭は、額に手を当てる。
「ただ・・・義弟が心配なだけだ」
長恭は青蘭の顔を覗きながら、言い訳をした。
「師兄、顔が近すぎる」
青蘭は口を尖らせると身体を離した。
書庫の扉が開いて、長恭は、思わず腕を放した。
「子叡様、門前に・・・お客がいらしています」
長恭が、学堂に通っていることを、知る者は少ない。
「蓉児と名乗るお嬢様が・・・」
蓉児?まさか、斛律家の令嬢?長恭は、扉の外に行くと帰るように言った。
「でも、会うまで帰らないと、仰って・・・」
どうしてここを嗅ぎつけた。やっと青蘭に想いを伝えたのに、蓉児が来ればだいなしだ。
「師兄、客が来ているって?」
元烈との話を聞きつけた青蘭が、顔を出した。
「ああ、その、・・・蓉児が来ているらしいのだ」
困惑した長恭の目が泳いでいる。蓉児とは、あの手巾の贈り主だ。手巾を返して断ってきたと言っていたのに・・・。
「斛律家の令嬢を、門前に立たせるわけにはいかないだろう?行ってきたら?」
手巾を蓉児に返したというのは本当なのか。青蘭は、平生を装って背中を押した。
「お前も一緒に来てくれよ」
長恭は、青蘭の手を握ると垂花門に急いだ。
人をかき分け垂花門に行くと、門の脇に見覚えのある少女が見えた。上等な鴇色の上襦に躑躅色の長裙は、蓉児が権門の令嬢である事を示している。高く結った髷には、金色の歩揺が揺れている。
長恭の姿を認めると、少女が走り寄って来た。
「長恭兄上、会いたかったあ」
長恭の二藍色の袖に、蓉児が笑顔で抱きついた。
「蓉児、離れてくれ」
長恭は、すがりつく腕をひき離した。美しい少女の来訪に、三人の周りには人垣ができた。
男ばかりの学堂だ。貴族の令嬢を、多くの男子の前に晒すわけにはいかない。
「師兄、ここじゃなくて、茶房で話したらどうだろう」
「じゃあ、麗香房だ。お前も一緒に来るだろう?」
長恭は懇願するように、青蘭の顔を見た。なぜ、私がついて行く必要があるのだろう。
青蘭が不機嫌にそっぽを向くと、長恭は青蘭の鉄紺の袖をつかんだ。
★ 蓉児の恋 ★
麗香房へ向かう馬車の中でも、蓉児は二人の間に座ると長恭に抱きついた。
「この人は、誰なの?」
我が儘いっぱいに育てられた蓉児は、何でこの少年がついてくるのだとばかりに、青蘭を睨んだ。
「一緒に学問をしている、私の朋友だ」
蓉児は青蘭を眺めると、フンと笑った。
「兄上、なぜ蓉児に会いに来てくれなかったの?」
青蘭を無視した蓉児は、再び長恭の袖に腕をからめた。
青蘭が不機嫌な顔で窓を開けると、風に髪がなびく。長恭は必死に後ろから回した指で上襦の肩に触れたが、青蘭は振り向かなかった。
麗香房に着くと、長恭は奥の静かな個室を取った。
義弟なら冷静でいなければ・・・。三人が席に座ると、青蘭は慣れた手つきで茶釜に茶葉を入れた。茶釜の湯がたぎる音だけが微かに聞こえる。
「蓉児、・・・先日、斛律府を訪ねたのだ。須達に聞いていないか?」
青蘭は、茶釜から茶をすくうと長恭と蓉児の前に茶杯を滑らせた。
「長恭兄上は、・・・屋敷にいらしたの?」
蓉児は、茶杯から目を離すと、無辜な眼差しで長恭を見上げた。
「蓉児、先日は斛律家に行って、須達に手巾を返した。お前の気持ちは嬉しいが、私にはその気はない」
長恭は、かんで含めるように蓉児に語った。
「長恭兄上、私は兄上が好きなの。だから・・・」
「私には、想う人がいるのだ。お前は妹としか思っていない。それに、将軍はそれを臨んでいない」
想い人がいる? 長恭の取り付く島のない言葉に、蓉児は困惑して下を向いた。斛律家の嫡長女として我が儘一杯に育てられた蓉児にとって、長恭の拒絶は、思いも寄らないことだった。
「妹?・・・蓉児が嫌いじゃないの?」
「もちろん、大切な妹だ」
長恭は不機嫌な青蘭の顔をちらっと見ると、蓉児に笑いかけた。
「斛律家に、迎えを寄越すように遣いを出した。ちゃんと屋敷に帰るのだ」
大切な妹だと言う言葉が、蓉児を慰めたようだ。
「じゃあ兄上、屋敷まで送ってくれない?」
蓉児は甘えるように長恭の隣に行って袖を掴んだ。
「私は、今日の講義がある。だから・・・お前を送れない」
蓉児は、溜息をついて肩を落とした。
長恭と青蘭は、茶房の門の外で、蓉児を見送った。
「蓉児は、師兄が好きなのね。きっと手巾を返されて傷ついたわ」
師兄の義弟としての分を守らなければと思いながらも、嫌みな言葉をはいてしまう。
蓉児を乗せた斛律家の馬車が、人混みの中を遠ざかっていく。
「青蘭は蓉児に慈悲深い。でも、私が傷ついては気に留めないのか?」
長恭は青蘭を見下ろすと、不満げに唇を歪めた。
「そうだ、お前は、まだ手巾のことで怒っている」
長恭は、すがるように袖に隠して青蘭の手を握った。
「師兄には、いつも感謝している」
「欲しいのは、感謝じゃないんだ。・・・学堂に戻ろう」
長恭は青蘭の肩を抱き寄せると、馬車に向かった。
学堂に戻ると、すでに午後の講義は終わっていた。書庫の筆碩は元のままで、書冊も書見台に置いたままだ。
長恭は、誤解を解こうと青蘭の手を握った。
その時、大きな笑い声と一緒に書庫房の扉が開いて、明るい光が差し込んだ。同門の兄弟子の崔思洹と白仁喜が入ってきたのだ。青蘭は、慌てて長恭の横を離れ書架の前に立った。
最近は弟子も増えて、書庫房にいても二人きりというわけではない。青蘭は動揺を抑えると、『農神本草経』を手に書見台に移動した。
「やあ、講義は終わったのに、文叔も子叡もまだいたのか」
長恭も青蘭も、自分の身分を明かしていない。長恭は皇族である事を隠し、高子叡と名乗っていた。
白仁喜は医術を家業としている家柄で、本草学を得意としている。
『農神本草経』を見ると、にやっと笑って青蘭の横に座り込んだ。青蘭に気があるのだ。白仁喜は竹簡の表面を指でなぞった。
「文叔は、本草学に興味があるのだな。・・・実は、薬物も三品に分類されているのだ。上品は・・・」
二十代にしてでっぷりと太った白仁喜が、薬物の分類について解説し始めた。白仁喜の大きな手が、青蘭の白い指に重なった。
「ちょっと、待った」
長恭が二人の間に強引に割って入った。青蘭に触れるなんて、ゆるせない。
「白仁喜、そなたはよく勉強しているな」
長恭は二人の間で肘をつくと、不遜な態度で仁喜を睨んだ。
「ああ、仁喜、『農神本草経』か。上品は無毒で、長期服用が出来る養命薬ということだろう」
横柄な態度も、威厳のある長恭がすると妙にはまっている。白仁貴は鼻白んだ様子で長恭の顔を見た。
「俺が、何か悪いことをしたのか?・・」
白仁喜は、不機嫌に小首をかしげると崔思洹のいる書架の方に行ってしまった。
「文叔、気をつけろ、あやつは・・・」
他の男が青蘭に近づくと無性にイライラする。師兄としての関係を守ると約束した。しかし、他の男と親しくしている様子を目の当たりにすれば、青蘭への恋心が抑えられない。
青蘭は、かぶりを振ると上目遣いに長恭を責めるように睨んだ。これ以上優しくされたら、恋心が抑えられない。
「すまない、・・・今まで通り兄弟子として接するつもりが・・」
長恭は、眉を潜めると青蘭の傍に座り込んだ。冬には、出仕して学堂を離れなければならない。自分がいなくなると、男ばかりの学堂で、他の男子が青蘭に馴れ馴れしく寄って来るにちがいない。
青蘭との約束を守れそうもない自分に、長恭は苛立った。
蓉児の出現に、青蘭は嫉妬の気持ちを抑えられない。しかし、表面上は距離を置こうとする。青蘭を失いたくない長恭は、中元節の灯籠祭りに誘うのだった。