婚約破棄された公爵令嬢、女王になる~実家近くの水竜様も国民もお怒りで、王都から水が消えました
ひとりの吟遊詩人がある広場の舞台の上で、リュート片手に弾き語りを行うようだ。周りに集まった観客たちは、息を殺すようにしてそれをじっと聞き入っている。
――ある大陸の真ん中には、とてもとても大きな国土を持つ緑豊かな王国――その名もエーランという国が存在したとされております……。
古い記録によるとその国では、数百年前までは国土の八割以上が砂漠だったとあり、水はとても貴重なものとされていたそうで。それが現在の様に不自由なく暮らせるようになったのは、一人の男の軽率な行いから起きたある事件が原因だったということです。それではしばし皆様、そこでどんな出来事が起こったのか、お耳を拝借することといたしましょう――。
……その様な語り口で始めると、吟遊詩人は落ち着いた音楽に乗せ、朗々とした声音で古き世の物語を詠い始めた……。
「――マリー・カリティス公爵令嬢。あなたとの婚約は本日付で破棄させていただく! そんな冷たい眼差しで毎日睨み付けられては、我が心も凍てついてしまうからな!」
王宮の一室でそんな声を発したのは、美しい金髪を白い布に包んだ、砂漠の国エーランの王太子リカルドだ。彼は神前で誓ったはずの大事な契約書類を手にして細切れに破くと、ひとりの女性を抱き寄せる。
「ふふっ、聞いてるのマリー……? あなたは今をもって、王太子様の婚約者ではなくなったのよ! それとも、愕然として喉も動かせない?」
それがリカルドの乗り換え相手、メリア・フェリン伯爵令嬢だった。豪華な金の巻き髪を揺らし、口に手を当てて高笑いを繰り返すその様は、本人は気づいていないようだが悪女そのもの。外から見ている人間がいれば醜悪なその表情に眉を顰めただろう。
それらに対し元婚約者のマリーが何の反応も示さなかったのは、いつかこうなることを予期していたからだ。彼女が王都に移り住んでからというもの、リカルドと会える時間は減るばかり。彼はいつもなにか不満そうな顔をしていたし、マリーがその度に用意した贈り物もひとつも使ってくれた気配は無かった。とっくにリカルドの心が離れていることをマリーは感じ取っていたのだ。
結局、特に言いたいことも見つからないというか、何を言っても無駄だろうなぁと思い、マリーは努めて静かに返事を返す。
「わかりました。ではリカルド王太子、私がここにいる意味はもう塵ほども存在しないというわけですね?」
「ああ、偽物などもう目障りなだけさ。真実の愛は我が腕の中にあるのだから」
「ありがとうマリー。あんたが婚約者として無能だったおかげで殿下は真実の愛に目覚めることができたのよ。お役に立ててよかったじゃない。そしてそれが終わった今、用済みのあなたにこんな華々しい場所はふさわしくないわ……さっさと消えて!」
「……ええ、そうさせていただきます。では御機嫌ようリカルド王太子、メリア嬢。どうかお幸せに――」
マリーは身を翻すと泣き声の一つも上げず、風に紛れるかのようにすっと姿を消してゆく。
「なぁにあれ。ほ~ら王太子様、やっぱりあんな女、捨てて正解でしたでしょう?」
「ああまったく。あんな冷たい女と結婚していたらと思うと、ぞっとするよ」
リカルドとメリアの歪んだ笑い声が背中から追って来たが、マリーはもう振り返らない。これから彼らがどんな目に遭おうとも、もう自分の関知するところではないのだから。
――マリーとリカルドの出会いは今から二年前。マリーの生家があるカリティス領でのことだった。
荷運びの馬車が横転して水樽をすべて破壊してしまい、熱射病で苦しんでいた王太子一行を、途中で通りかかったマリーたちカリティス家の者が助けたのだ。
それにいたく感激したリカルドは、後日マリーを王都に呼び、妻に迎えたいと申し出た。
マリーはなんとなくリカルドの熱しやすく冷めやすい性格に気がついてはいたが、結婚は家のためにするものだと割り切っていたので、あえて断らずにその話を受けることにする。王族からの申し出なので、断ると各所がうるさいのもあった。
それから王都に滞在し、他家の令嬢のやっかみを受けつつも妃教育を全てこなし終え、残すは数か月後の式のみとなったところで、この心変わり。
(私、そんなに冷かったかしら?)
マリーは王都にてひとりで取った宿、両手で顔を挟んで悩んだ。
彼女は彼女なりに、結婚するならばパートナーとして誠心誠意支えようと努力したつもりだ……。できるだけ一緒の時間を作り、リカルドが喜んでくれるよう色々な催しに連れて行ったし、彼と会話が弾むように、城中の人に彼の好みを聞き回って、共通の話題を作れるよう努力もした。
しかし結果、リカルドはどんどんよそよそしくなり、立場がありながら別の女に心を許してしまった。
あの場では表面上は冷静でいたつもりだが、内心では自分勝手なリカルドへの怒りももちろんあった……。ああしてメリアと共に罵るのではなく、不満があったなら事前に言葉で打ち明け、歩み寄りの姿勢を見せて欲しかった。
……だが、一晩経って気持ちが整理できると、反対にこれでよかったのかもしれないと落ち着いて考えられるようになる。リカルドも、自分を好きになってくれる人間と結ばれた方が幸せだろうし、マリー自身も故郷に帰れば久々に家族や、大好きな……人ではないが、友達とも会うことができる。そんな思いが、沈んでいた気持ちを浮き立たせてくれた。
「終わってしまったことをくどくど考えても、仕方ないか……帰ろう」
婚約破棄の翌日、たんまりと買い込んだお土産と一緒にマリーは馬車に乗り込む。その頃にはもう、王都を離れることになんの躊躇いも無くなっていた。
◆
――数日後。エーラン王国の王宮にて。
「この馬鹿息子が! 貴様はなにをやったのか分かっておるのか!?」
「ち、父上!? 一体どうされたというのです……急に呼びつけるなどして」
「どうもこうもないわ! 貴様がマリー・カリティス公爵令嬢と婚約破棄したことは、もう国中に広まってしまったのだぞ! 取り返しのつかぬことをしてくれおってぇい!」
エーラン王国の国王、ワルドラ・エーランは玉座から立ち上がると、赤絨毯を憤然と踏みしめて走り寄り、リカルド王太子の顎を思いっきり下から突き上げた。
「ぐはぁぁぁぁっ! な、なにを父上!? 公爵令嬢ごときとの婚約が、いかほどだというのです! 私は真実の愛を選択したまでで……」
「何も知らぬのだな、貴様は……」
頭をふらふら揺らし、口の端から血を流すリカルドを睨み付けると、ワルドラはその場で唾を飛ばしながらマリーの生家――カリティス家について語り出す。
――カリティス公爵家。
リカルドが王太子を務めるこの砂漠のエーラン王国で、王族に次ぐ権勢を保つ大貴族である。彼の公爵家が司るのは、『水』。カリティス公爵家の治める領地には大規模な水源が存在し、それを牛耳ることで、この公爵家は今や王国の三分の一以上の領土を有している。
しかし、彼らは決して民を締め上げたりはしない。飢饉や水不足に喘ぐ民がいると聞けば率先して物資を送り届け、この国の発展を支えて来た。そんなカリティス公爵家に対する民たちの信望は王家よりもよほど篤い。
「……だというのに、貴様はその長女であるマリー嬢との婚約を一方的に破棄してしまいよった。これがどういうことかわかるか!?」
「た、たかが一貴族ではありませんか! そんなものどうとでも……」
「なるわけがないであろうが! なにより恐ろしいのは、彼らが多くの民の信頼を勝ち得ていることなのだ……聞け! もうすでに幾人もの商人が、王都へ水は売れぬとどんどん他の都市へ移り住み始めておるのだぞ!」
「そ、そんな……」
「このままでは近隣のオアシスも干上がり、水の値段が暴騰してしまう!」
「ハ、ハハ、たかが水程度で……そんな」
「砂漠において水の一本は同量の金にも等しいと教えたはずであろう! だから貴様をマリー嬢と婚約させ、しっかりとこの王家との繋がりを維持しておこうと思うておったのに……! なんと愚かな!」
ワルドラはリカルドを見たこともない鬼のような形相で罵ると、玉座の間から左右の足で蹴り転がしていく。リカルドは父の怒りにただ体を縮こまらせて耐えるしかない。
「貴様はッ、今からッ、すぐにカリティス家へと旅立ってッ、深く陳謝しッ、なんとしてでも婚約を再度結び直して来るのだッ! わかったか!」
「うがっ、ごはっ、お止め下さい父上ッ! いだだっ、痛いッ!」
「口答えするでないわ! 宮殿や町の一つや二つ与えても構わん! 事が済むまでこの王宮の門を潜ることはまかりならんぞ! お前たち、連れて行け!」
「「ハッ」」
「ヒッ、やめろっ! ち、父上! そんな……お許しください、父上――ッ!」
リカルドは再度ワルドラに謁見を申し出ようとしたが聞き入れられず、屈強な衛兵二人に両脇を掴まれて引っ張られ外へと放り出されると、絶望の表情で王宮を見上げることになった。
◆
その頃実家に戻っていたマリーは、カリティス領の砂漠の中央にある大きな湖へと向かっていた。月に一度、カリティス家はこの場所に住まう精霊に供物を捧げに行くのだ。
彼女は多くの荷物と共に、駱駝の引く馬車でそこへたどり着くと、大きな声を上げる。
「水竜様……! 今月も贈り物を運んでまいりました。お姿をお見せくださいませ」
すると、湖の中央が割れるようにして、白く大きな竜が姿を現した。
白い鱗には一片の傷も無く、その瞳は湖水のように青くきらめいている。
「おお、久しいなマリーよ、よく来てくれた。二年ぶりではないか……私は寂しかったぞ。変わりはないのか? 病気などしておらぬか? 少し痩せたのではないか?」
(相変わらずの勢いが懐かしいわ……)
すごくグイグイ来る水竜を、マリーは苦笑しつつもどうにか落ち着かせた。
「お、お待ちください……! お気持ちは嬉しいのですが御心配なさらず。この通り元気ですよ。水竜様の治めるこの湖のおかげで……我が国では皆命の糧に不足することなく、与えられた生を謳歌していられるのですから」
「ならばよいが……。しかし、表情がわずかに曇っているな。もしや、あのことか?」
「ご存じなのですか?」
この竜とはもう十年来の付き合いとなる。
意外と細やかな性格で、昔からマリーのことをよく気遣ってくれて、今では兄の様に近しい間柄なのだ。
「ああ……婚約破棄されたと、風の噂に聞いた。この国の王太子だそうだな。このように美しく優しき娘との婚約を反故にするなど、ずいぶん馬鹿なことをしたものだ。私ならば、そなたが傍にいてくれるなら毎日茶汲みだろうが肩揉みだろうが何でもこなして見せようものを……許しがたい! 目の前にいれば、この口でパクリと丸呑みにしてやっていたであろう!」
ぐぐっ、と短い指を握り込み、傷心の自分を気遣ってくれる大袈裟な水竜の言葉に嬉しく思いつつ、マリーは微笑んだ。
「ありがとうございます……。ですが、私も殿方の好みに合わせることもできぬつまらぬ女ですから……彼も自分を慕ってくれる人を傍に置きたかったのでしょう。それよりも、民たちを動揺させて本当に皆には申し訳なく思っています。水竜様、どうかこれからも引き続き、彼らにお恵みを与えてあげてくださいませ」
「無論だ。こうして尽くしてくれるお前たちがいる限り、その気持ちを裏切ることはすまい。なにより、私はお前を特別に……いや、なんでもない。……では、本日もいいか?」
「ええ……お願いいたします」
なにかこちらをちらちら見て、尖った爪を突き合わせごにょごにょ呟く水竜様に苦笑しながらマリーは湖に一歩踏み出した。本来ならば沈むはずのその足は、不思議な力で水面に支えられる。そして水竜はしゅるしゅると縮むと、湖の中央にひとりの男性となって現れ、手を拡げる。
「さあ、来てくれ」
後ろに流した艶のある青銀の髪はとても美しく、同じ色をした瞳は温かくマリーのことを見つめている。マリーは水面に波紋を立てながら彼の元に走り寄ると、そのひんやりとした身体に久々に抱き着き、彼の美しい顔を笑顔で見上げた。
「踊ろうか。私はこれが楽しみで仕方なかったのに……王都になど行ってしまうから。お前がいなくなって、ずいぶんと寂しい思いをしていたのだぞ」
「そうですか……。実は私も再び会える日を心待ちにしていました」
水竜がそっと差し出した手に、マリーは自分の指先を重ね、ふたりは湖の上で踊り出す。
楽師がリュートを奏で、こうして月に一度、水竜はカリティス家の者と戯れる。その相手を務めるのがカリティス公爵家の女性に課された、《湖の巫女》というお役目だ。
存分に踊りを楽しんだ後、マリーは王都での出来事を心ゆくまで水竜に語り、彼はそれを楽しそうに聞く。そんな時間はあっという間に過ぎ……夜空に星が輝く頃、マリーは満足した表情の水竜と近々の再会を約束して別れ、カリティス家の屋敷へと戻って行った。
◆
一方、王宮を追放された後、途方に暮れたリカルドはフェリン伯爵家へと訪れたが、そこで門前払いを食らっていた。
「おい、どうして私を入れてくれないんだ! 私は王太子だぞ! メリアと婚約の約束もしていたのに!」
「生憎ですが、御嬢様はあなたのようなお方は知らないとおっしゃっております。どうかお引き取りください」
門番たちは屋敷の前で槍を交差させ、冷たく厳めしい顔でリカルドを睨み付けている。
「す、少しでいい! 少しだけでもメリアと話させてくれ……この通りだ! せめて、み、水とパンを下さい……もう何日も食事をとっていないし、金も盗まれて手元になにも無いんだ! 頼むから!」
リカルドは門番の足元にへたり込むと、額づいてまで懇願する。その姿には王族としての誇りの欠片も見られず、恥を恥とも思わぬ様子に門番たちが顔を見合わせていると、奥からメリアが姿を現した。
「王太子様……いえ、リカルド」
「おお、メリア! やっと来てくれたのか! やはり私の結婚相手は君しかいない! さあ、家の中へ招いて、僕を心身共に癒してくれ……なばっ!」
顔面になにかを叩きつけられ、リカルドは後ろへと勢いよく倒れ込む。
それは包みに入れられたパンと、申し訳程度に中身が入った水の瓶。
そしてメリアの憎々し気な視線がリカルドを貫く。
「すぐに消えて。あんたの顔なんてもう二度と見たくない。マリーから王太子を奪ったっていう噂がちょっと流れただけで、うちの領地の取引先はほとんどすべて手の平を返して、こっちで生産した織物を全部返品して来たのよ……。見なさいよあの在庫の山! 大損どころか、このままじゃ、爵位を保ってられるかどうかも怪しいのよ! 全部あんたのせいよ!」
「な、なんということを……! メリア、僕は王太子だぞ!」
「……知らないわよ、この馬鹿リカルド! あんたのせいでこの国はきっと滅ぶんだわ! ……門番ども、この浮浪者をつまみ出して!」
「「ハッ」」
「メッ、メリア――ッ、王太子にこんなことをしてただで済むと思うな! ちくしょう!」
「無様ね……はっ!?」
メリアはリカルドをこれまで見せたことのないような刺々しい顔で見下すと、門番たちに命じたが……そこでなにかに気づいたように慄いて屋敷の奥へと駆けていった。
『出て来い悪女メリア・フェリン! てめえが王太子を誑かしたせいで、水の価格が跳ね上がっちまって、俺たちここらじゃ暮らしていけなくなっちまったじゃねえか!』
『どう責任取ってくれやがる! こんな屋敷、叩き壊しちまえ!』
周辺から怒りの声を上げ集まってきたのは民衆たちだ。慌ててリカルドは布で顔を隠しその場を離れる。
『金目のものは全部運び出せ! 悪事の報いだ!』
『一族の奴らはどこだ! 袋叩きにしろ! 壊せ、壊せ――!』
「あぁ、メリア……なんてことだ。……私は、どうすれば」
恐ろしい暴動を路地裏に隠れて見守っていたリカルドはその場に座り込み、パサパサのパンを口に入れ、なんとか水で流し込む。その内にも、民衆の規模は膨れ上がり、ここにいてはいつ巻き込まれるかもわからない。打ちひしがれ、生気のない瞳をしたリカルドは立ち上がると、足を引きずり始める。
(マリーであれば、こんな仕打ちはしなかったはずだ……)
その時彼は、マリーに助けられた時のことを思い出していた。
彼女は二年前のあの時、脇目も振らずに自分の元に駆けつけて、優しく手ずから水を飲ませてくれた……。きっと、マリーなら精一杯自分を庇ってくれただろう。
しかし、彼女の気持ちを省みず、遠ざけてしまったのは他ならぬリカルド自身。この時やっと、彼は自分が彼女の優しさに甘え、取り返しのつかないことをやってしまったことを自覚した。
「なんて愚かだったんだ、私は……」
リカルドは両手をぶらぶら揺らしながら、沈む夕日に向かってとぼとぼ去って行く。
それから数年後。
ある旅商人が道端で、彼の名が入れられた腕輪が砂に埋もれていたのを見つけたというが……その後の彼の行方は知るものは誰一人としていない。
◆
婚約破棄から一月も経った頃のこと。
水不足は収束するどころか、エーラン王国の王都は未曽有の危機に陥っていた。
住んでいた人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、残るのは、この地から離れられない王族や貴族たちだけ。
げっそりとやつれた顔の宰相が、謁見の間で国王ワルドラに告げた。
「陛下、もう限界でございます……! このままでは国の倉庫も数か月で底を突き、水を買おうにも、国庫には金が……」
「し、仕方あるまい……。兵を挙げよ! カリティス領を征服してあの湖を支配下に置き、そこに遷都する!」
その言葉を聞いたワルドラは、なんと王都を捨て、カリティス領を武力制圧する計画を進め始める。王太子の行方はようとして知れないが、もう彼の頭には欠片も無かった。
時間が勝負とばかりに兵を整え、王自ら指揮を執り出陣する国王軍。
王都からカリティス領への道のりは約一週間。
だが、不幸なことに行く先々で足止めを食らう。
近隣の村々から物資を補給しつつの行軍となる予定だったのだが、見計らったかのようにそのほとんどが打ち捨てられており、麦の一粒すら見つからなかった。
持ってきた数少ない物資を小分けにしてなんとか凌ぎながら、付近を根城にしていた盗賊を捕まえて話を聞くと、この辺りからはもうずいぶん前に人が消え、みんなカリティス領に移り住んでいったのだという。
おまけに雨すら降らず、過酷すぎる道中に兵士たちは次々と倒れていった。また脱走者も多く、カリティス領にたどり着く前には兵の数は発つ前の三分の一以下となっており、もはや戦闘どころではない。浮浪者の集団となって杖のように剣や槍にもたれかかり、息も絶え絶えたどり着いたその地で彼らを出迎えたのは……なんと、マリー・カリティス嬢その人と、大量の水や食料だった。
「皆様遠路はるばるお越しくださいました。砂漠の旅は過酷なものとなったでしょう……。さあ、どうぞ」
「この水を……いただけるのか!?」
「王都に向けて物資の補給隊をお送りしていたのですが、どうやら入れ違いになってしまったようで。ここにはいくらでもお水はありますから、存分に味わって下さいませ」
「す……済まぬ! 恩に着る……!」
ワルドラたちはむせび泣くと武器を放り捨て、マリーに取りすがって謝罪に行かなかったことを詫びた。そして久々にたらふくの水と食料にありつき、涼しい場所で健やかな眠りを堪能する。その頃にはもう、カリティス領を奪うことなど考えられなくなっていた。
後日ワルドラは湖に案内され、水竜と対面する。
「こ、これが……いや、この方が、水竜様なのか。なんと荘厳な……」
「エーランの国王よ。今回は、見るも無残な陣容であったことと、マリーの歎願があったため見逃したが、もし彼女や周りの者たちを害することあらば、この口がそなたを頭から噛み砕いてしまうと心得よ!!」
「ハ、ハハァッ! に、二度とこの地に攻め入るようなことは致しませぬ!」
そんなやり取りもあり、ワルドラは水竜の偉大さにひれ伏すこととなり、また同時に、彼からの知らせにより王国軍の状況を察知したマリーがすぐさま自分たちを助けようと動き出したことを聞いて感激した。
我の器のなんと小さきことか――そう恥ずかしくなったワルドラは、その場で大きな決断を下す。王権の移譲――カリティス家の者に王位を譲り、この地に都を移すことを決めると、自らに連なる一族はすべて一段階爵位を下げ、カリティス家に傅くこととしたのだ。
そうして水竜の湖の近くには大きな宮殿が建てられたが、元国王ワルドラは決してそこには住もうとはしなかった。
彼は退位を宣言すると、水竜や民に好かれるマリーの資質を得難いものとして、自分から王位を継承してくれるよう熱烈な説得を繰り返した。やがてそれは実り、彼女はエーラン王国初の女王として多くの国民から支持を受け、この国の新たな統治者と認められた。
それ以後、空を飛べる水竜の力を借りてマリーは国内に善政を敷き、エーラン王国をこれまでよりも大きく発展させることになる。
ちなみに、湖の近くの宮殿に住めるようになったことから、マリーは水竜と共に過ごす時間も多くなり、いつしか彼と結ばれて子を宿すことになった。ふたりの子どもは生まれつき不思議な力を持ち、枯れた砂漠にも緑をもたらすことができたのだという――。
そこまで語り終えると、吟遊詩人はリュートを静かに置き、物語を締めくくる。
――こうして、水竜の血を継いだ王が治める国として生まれ変わったエーラン王国は大きく繁栄し、数百年経った今ではもう、砂漠の国であった面影は見られぬようになったそうです……。美しい森の広がる自然豊かなその大地は、訪れる人々に安らぎと笑顔を今も与えているのだと、そう古き書物の中には綴られていたとされております。私の話はこれにてお終い……。皆様、ご清聴まことにありがとうございました――。
……数秒の間の後、静まり返っていた観客たちから大きな拍手と感嘆の吐息が惜しみなく送られた。しばらく頭を下げていた吟遊詩人は立ち上がって楽しそうに会話を交わす観客たちを見て微笑んだ後、その場を去ろうとする。だが、そんな時にひとりの少女が走り寄って尋ねた。
「あの……その国って、今も世界のどこかにあるの?」
そんな質問に吟遊詩人はにっこりと笑って頷き、少女の耳元でこっそりと教えてくれた。
――実は私も、どこにその国があるのか探しているのです……。エーランの中央にある大きな湖にある祠の中では、時々番となった二人の男女が手を取り合って踊る姿が見られるらしく、それを恋人と一緒に見た者は結ばれ、終生仲睦まじい時を過ごすことができるのだと、今も語り継がれているそうですよ……。お嬢さんも、大きくなってもし大切な人ができたなら、この国がどこにあるか、ぜひ探してみてくださいね――。
そう言うと、吟遊詩人はリュートを背中に担いでひっそりと去って行く。
少女はその背中をしばらく見送っていたが、ふと目を離した隙に、その姿はもう消えてしまっていた。
それきり彼は、この場所には訪れていない。
今もどこかで旅を続けているのだろうか……そして、その国に辿り着くことはできたのか。……それは、今をもって定かではない。