70.冷静ではいられない
馬車の中、私とクライヴァル様は斜向かいの席に座っている。
幸いにも私の目はもう泣いたかどうかも分からないくらいに落ち着いていた。
馬車の小窓から入ってくる優しい風が私の頬を撫で、クライヴァル様のダークブロンドの髪を揺らしている。
(相当お疲れだったようね)
以前は私が眠りこけてしまった馬車の中、今はクライヴァル様が腕を組んだまま綺麗な姿勢で僅かに頭を下に向けてすうすうと寝息を立てていた。
数分前のこと。
クライヴァル様は馬車に乗り込む時になって、御者以外にお付きの人もおらず私たちだけだということに気が付いた。
未婚の婚約者同士でもない男女が馬車とは言え密室に二人きりになることは貴族社会ではよろしくないことなのだ。
密室と言っても普通の室内でもない馬車なのに面倒な事だと思うのは、私が平民出身だからだろう。
平民が利用する乗合馬車なんて、肩が触れ合うくらいの距離に異性が乗っているなんてよくあることだ。
そもそも馬車など移動手段に過ぎないのにと思わなくもないが、そこは郷に入っては郷に従えというもの。
それならば私は近くの馬車乗り場まで行って乗合馬車で帰るか、何なら歩いて帰ると提案してみた。
歩いたところで1時間もない距離だ。
普通のご令嬢ならともかく私にとっては大した距離ではないし、夕食の時間までには余裕で帰れる。
「却下だ」
それなのにクライヴァル様は呆れた顔で溜息交じりにそう言った。
「この時間に女性を一人で帰らせる阿呆がどこにいる。しかも君みたいな女性が泣き顔で一人歩きなど……危険すぎる。百歩譲ってどうしても歩くと言うのなら私も一緒に歩いて帰る」
「クライヴァル様は帰って来たばかりでお疲れなんですから馬車を使ってください」
「私もそうしたい。だが君が乗らないと言うのなら私も乗らない」
「だったら一緒に乗って帰れば良いじゃないですか」
「……君が良いならそれで」
クライヴァル様は少し驚いたように目を開いた後、「まあ殿下にマルカ嬢を送るようにと言われているし、窓も開ければ問題無いか」と独り言のように呟いてから御者に声を掛けて小窓もカーテンも開けるように指示をした。
(なんでクライヴァル様が驚くのかしらと思ったけど、きっと私のことを考えてくれていたのよね。それなのに私ったら何でもないように一緒に乗れば良いとか言っちゃうから)
きっと彼はもし誰かにこの場を見られていて自分と噂にでもなったら私が困るだろうと考えたのだ。
殿下と噂になった時も、明らかに声を掛けて来ていたのは殿下の方だったにもかかわらず、平民上がりの女が殿下に言い寄っているなどと陰で言われたものだ。
いくらクライヴァル様が私のことを想ってくれていると言っても、私はまだそれに対して応えていないし、そもそも婚約者でも何でもない。
この状態で噂になれば、まず悪く言われるのは平民の私の方であることは容易に想像できる。
斜向かいの席で眠っているクライヴァル様に目をやる。
近くに他人がいるのに眠ってしまうほど疲れているというのに、こんな時ですらクライヴァル様は私のことを考えてくれている。
(こんなの、惚れるなと言う方が無理な話よ)
馬車に乗って最初の内は孤児院のことを話していた。
先生から私の幼い頃の話を聞いたとか手紙を預かっているとかそんな話をしていたのだが、すぐにクライヴァル様は堪え切れなくなった欠伸を隠すように口元に手をやった。
いつもしゃっきりと完璧な佇まいを見せる彼にしては珍しいことだと思ったが、それほどに疲れているのだろうと思った。
無理に会話をしなくても、とは思ったが指摘してしまえば逆に申し訳なさから目が冴えてしまうかもと思い何も言わなかった。
途中で会話が途切れ、ふとクライヴァル様を見ると彼は既に眠りに落ちていた。
私はここぞとばかりにクライヴァル様を観察することにした。
(……悔しいくらいに綺麗な顔ね)
最初から整った容姿だとは思っていたけれど、内面を知って、この人が好きなのだと自覚した今はより美しく格好良く見える。
こんなに隙だらけなのに、それすら素敵だと思えるなんて困った。
私にそれだけ気を許してくれているのかもしれないと思うと特別な感じがしてドクドクと胸が高鳴る。
(私、この人に好きだと言ってもらったのよね……好きだと、お伝えするのよね……え、ど、どうしよう、どうしたら?いつ?どのタイミングで?)
思わずクライヴァル様から目を逸らす。
クライヴァル様が帰ってきたらすぐに想いを伝えようと思っていたが、今さら緊張してきた。
今ですら心臓が煩いくらいなのにきちんと伝えることが出来るのだろうか。
ちらっとクライヴァル様を見ては心臓を高鳴らせ顔を逸らす。
傍から見たら怪しまれそうなそんな行動を私は馬車がお屋敷に着くまで繰り返していた。
馬車がお屋敷に着き、私は平静を装ってクライヴァル様に声を掛けた。
母様の教え通り、いつも笑顔でいることを心掛けて鍛えられた表情筋が活躍してくれているおかげで普段通りに笑えているはずだ。
私の声で目を覚ましたクライヴァル様は数秒間ぼうっとしていたが、急に目を見開いて周りをキョロキョロ見たかと思うと顔を両手で覆って項垂れた。
「すまない。私はどれくらい眠っていた?」
「そんなには。王城からお屋敷までの半分程ですよ。お疲れだったんですから気にしないでください」
「……申し訳ない。話の途中だっただろう?」
「いえいえ、また後で聞かせてもらえたら良いので」
私が笑ってそう言えば、クライヴァル様は「それならまた夕食の後で」と言って馬車を降り、私に手を差し出した。
私は「はい」と言ってその手を取ったが心の中は、この流れは夜に言うしかないのでは!?と心臓が煩くてしょうがなかった。
玄関を入ると使用人さんたちの他に、公爵夫人とクリスティナ様も迎えに出てきていた。
「お帰りなさい、二人とも。クライヴ、視察は滞りなく終えられて?」
「ただ今戻りました。特に問題も無く。明日は休みを取るように言われているので家で大人しくしているつもりです」
「まあ、本当?明日は私も学園はお休みだし、マルカもお休みよね?みんなでお庭でお茶会しましょうよ。お父様はどうだったかしら?」
「お父様も明日はお休みのはずよ」
「まあ、では全員揃うわ。決まりね」
クリスティナ様が楽しそうに言うと、クライヴァル様は苦笑した。
「私は構わないが午後からにしてもらえると有り難いな。それにクリスティナ、お前は殿下の元に行かなくても良いのか?」
「あら、バージェス様にも休息は必要だもの。日を空けてからにするわ。マルカは参加してくれるでしょう?」
「もちろんです」
「ふふ、ではお菓子をたくさん用意しなくてはね」
明日のお茶会が決まった後、私は着替えるために、クリスティナ様は自室へ戻るために一緒に歩いていた。
学園では何があったとか、魔法省での研修はどうだとかお互いの状況を話しながら進んでいると、クリスティナ様が私の袖を引っ張った。
クリスティナ様は「マルカ、お兄様が帰って来たわよ?」とにんまりと笑って言った。
その顔には返事をするのだろうと書かれているようだった。
「クリスティナ様、少しお時間あります?ちょっと相談したいんですが」
「まあ!相談?マルカが?時間ならいくらでもあるわ」
クリスティナ様は目を輝かせて私が与えられた部屋へとやって来て椅子に腰を下ろした。
「それで?お兄様のこと?それともお兄様が調べてきたことに関して?」
「あの、今日は色々あったんですけど、とりあえずクライヴァル様のことについてです」
父様と母様のことに関しては相談と言うよりも報告なので、みんなが揃う明日にでも話せれば大丈夫だろう。
とりあえずお世話になっているアルカランデ公爵家に迷惑になりそうな立場ではなさそうなのでそれで問題無いと判断する。
「クライヴァル様のことなんですけど……」
「やっぱり!もう気持ちは伝えたの?」
「ま、まだです!まだですよ!」
「あら、そうなの?マルカのことだし、一緒に帰って来たから馬車の中でお兄様にスパッと気持ちを伝えたのかと期待していたのよ」
私も自分でそう思っていた。
馬車の中は別として、クライヴァル様に自分の気持ちを伝えるだけだと思っていた。
簡単な事だと思っていたのだ。
「いざ、気持ちを伝えることを考えたら……心臓が煩くて、とてもじゃないですが冷静でいられません。どうしたら良いんですか?いつ、どのタイミングで言ったら良いと思います?」
私の言葉にクリスティナ様は珍しく口をぽかんと開けて目を丸くしていた。
そして、くすくすと声を出して笑った。
「あらあら、まあまあ。マルカったらなんて可愛いのかしら」
揶揄われているわけではなさそうだが、今私が求めているのは笑いでも褒め言葉でもなく助言だ。
私が少しむくれているとクリスティナ様はまたくすくすと笑った。
「そうしていると貴女も普通の女の子よね」
「私はいつでも普通ですが」
「どの口がそれを言うのかしら。マルカが普通の基準だったら世の中可笑しなことになってしまうわ」
クリスティナ様に呆れたように返された。
何故だ。
結局大した助言も貰えないまま、「どうせ夕食後にまたお兄様とお話するのでしょう?いつものマルカらしくスパッと言ってしまいなさいな」と言われた。
それが出来そうにないから相談しているのにと思ったが、続けて「お兄様はその緊張を何度経験したのかしらね?気持ちを受け取るだけの貴女ではないでしょう?頑張りなさい」と言われて私はそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。
全然大丈夫、問題無いと思っていたのに直前になって急に緊張することってありますよね。
何なんでしょうねアレ。
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