19.色恋に疎い息子に助言を
「クリスティナ様にも苦手なことがあるんですね」
「……言わないでちょうだい。朝はどうしても駄目なのよ」
普段とは違う少しトーンの下がった声でクリスティナ様が呟く。
食後のお茶の時間になってやっと起きてきたクリスティナ様は、朝食前に廊下で会ったクライヴァル様のような状態だった。
公爵夫人の言う通り、この兄妹は朝が苦手なようだ。
全て完璧だと思っていたクリスティナ様のこの姿は実に意外だったのだが、こういう姿を見ると、彼女もまた私と同い年の女の子なのだなと勝手に親近感を覚える。
今は王宮へと仕事に向かう公爵様と、クライヴァル様を見送るため、みんな揃ってエントランスにやって来ていた。
「行ってらっしゃい、あなた」
「ああ、行ってくるよ」
軽い抱擁の後、公爵様が夫人の頬に口づけを落とす。
流れるようなその動作に、これがいつも通りの当り前の光景なのだと分かる。
(うわぁ!貴族の方々は政略結婚も多いと聞くけど、お二人はお互いに想い合っているのね)
私が公爵様たちをじっと見ていることに気が付いたクリスティナ様が苦笑いを浮かべながら言った。
「ごめんなさいね、マルカ。これはいつものことだから気にしないで」
「いえ。お互いを想い合っているのがよく分かります。素敵ですね。憧れる夫婦像です」
私がそう言うと、クリスティナ様とクライヴァル様が驚いたような顔でこちらを見た。
何か変なことを言っただろうか。
「……あの?あっ!すみません、公爵様たちに憧れるだなんて烏滸がましいことを……」
私が慌てて頭を下げようとすると、それをクリスティナ様が止めた。
「そうじゃないわ、マルカ。違うのよ」
「え?」
「まさかマルカの口から憧れの夫婦像なんて言葉が出るとは思わなかったから驚いてしまっただけなの」
「そんなにおかしなこと言いました?」
「おかしくは無いのだけれど、マルカは色恋というか、殿方に興味が薄そうだから意外だったのよ。ね、お兄様?」
「あ、ああ」
クリスティナ様の言葉にクライヴァル様も頷いた。
そんな風に思われていたのか。
「そんなこともないんですけど」
今までそれどころではなかったし、そもそも貴族に相手にされるとも思わなかったが心惹かれるような相手もいなかった。
ここ最近身近にいた男性がレイナード家の二人だったから男性に対する意識が荒んでいたというのもあるのかもしれないが。
「ほらほら、そういうお話こそ帰って来てからすれば良いでしょう?」
「そうだな。そろそろ出発しなくては。クライヴ、早くしろ」
公爵様は既に馬車に乗っており、夫人は近くで呆れたようにこちらを見ていた。
急かされるように馬車に乗り込もうとしたクライヴァル様だったが、急に私の方を見た。
「マルカ嬢、行ってくる。帰って来てからを楽しみにしている」
クリスティナ様も公爵夫人もいるのに、名指しで言われた。
その眼にはどこか期待が込められている。
(うーん、これは。そういうことよね)
「行ってらっしゃいませ、クライヴァル様。お仕事頑張ってくださいね。お帰りをお待ちしております」
私がそう言うと、クライヴァル様は目に見えて相好を崩し軽く手を振って馬車に乗り込んだ。
どうやら期待に応えられたらしい。
走り出した馬車を見送りながら私は思った。
なんだか―――
「―――大型犬に懐かれたみたい」
ぶふぅっ!
私の小さな呟きを拾ったステファンさんが思わずといった様子で吹き出し、肩を震わせていた。
「……聞こえてました?」
「っふ、はい。しっかりと」
コホンと咳払いをして落ち着きを取り戻したステファンさんに聞くと、やはり私の声はしっかり届いてしまっていたらしい。
「ステファン。マルカさんは何と言ったの?」
「マルカお嬢様は―――」
「い、言わなくて良いですよ!」
止めようとする私をするっと躱してステファンさんは公爵夫人の問いに答えた。
「マルカお嬢様は、クライヴァル様を犬に例えられました。大型犬に懐かれたようだ、と」
「ステファンさん……!」
「大型犬?」
「お兄様が?」
公爵夫人とクリスティナ様はお互いの顔を見合わせて、ステファンさんが言ったことを反芻するように口にした。
そして、笑った。
「ふふっ、クライヴが犬ですって」
「今までお兄様のことをそんなふうに言った人がいたかしら」
「……すみません」
「あら、怒っているんじゃないわよ?」
「どうしてそう思ったのか聞かせてほしいわ。さあさあ!中で女同士楽しくお話しましょう。クライヴたちが帰ってくるまで時間はたっぷりあるわよ」
私は公爵夫人とクリスティナ様に引きずられるようにサロンに連れて行かれるのだった。
その頃、馬車の中では。
「クライヴ、その締まらない顔を何とかしなさい。もうじき王宮に着くぞ」
「顔ですか?」
「頬が緩んでいるぞ」
「……」
咳払いをしていつもの顔に戻す。
父に言われてクライヴァルは自分が笑っていることに気が付いた。
まさかあんなにも嬉しいものだとは思わなかったのだ
『行ってらっしゃい』『お仕事頑張って』『帰りを待っている』
この言葉は普段の両親のやりとりで何度となく耳にしている言葉で、特別なものではないはずだった。
それがどうだろうか。
マルカ嬢から自分に向けられた言葉だと思うと、同じ言葉だとは思えない。
「父上はいつもこのような幸せを味わっていたのですね」
「はあ?」
真面目な顔をして小さな幸せを噛みしめるクライヴァルに、公爵は残念なものを見るような視線を向けた。
「あの程度のことでそこまで幸せを感じていてどうする。本気でマルカ嬢を口説き落とす気はあるのか?」
「もちろんです。父上こそ本当に良いんですね?まあ今さら駄目だと言われても困りますが」
クライヴァルは昨日のうちに両親に想い人が出来たと報告した。
それを聞いた公爵夫妻は喜んだ。
“うちの息子は本気で相手を探す気があったのだ(ね)”と。
のらりくらりと他家からの縁談の申し込みを断り続けるのもいい加減面倒だなと思っていたので心底ほっとしたのだ。
一体どこのご令嬢がこの色恋に疎い息子の心を射止めたのか、面倒な家の娘でなければ良いが、ああでもその辺りはこの子なら考えているだろうなと思い、続くクライヴァルの言葉を待った。
「私はどうやらマルカ嬢のことが好きだったようです」
「どうやら?ようです?」
「はい、恥ずかしながら私も先ほど自分の思いに気付いたところなのですが」
「マルカ嬢とは……あのマルカ嬢か?」
「クリスティナの友人のマルカ嬢です」
公爵夫婦は顔を見合わせた。
夫人はマルカに会ったことがなかったが平民の娘であるということは知っていた。
だが、夫である公爵と娘のクリスティナが揃って「優秀、面白い娘」と言うからにはそのままただ市井に戻すのには惜しいと感じているに違いない。
レイナード伯爵家の件で完全にこちら側に引き込んだことから見ても、物事の理解の早い娘なのだろう。
自分の考えはあったとしても、最終的にそれを良しとするかどうかは当主が決めること。
瞬時にその様に考えながらも公爵夫人は夫を見た。
公爵は息子であるクライヴァルを見た。
その目を見る限りどうやら本気のようだ。
幼い頃に自分の一存でアルカランデ公爵家にとって毒にも薬にもならない家の娘を婚約者としたつもりだった。
息子に想いを寄せる娘ならば、女性との接し方を本で学ぼうとするようなどこかズレたクライヴァルを笑って受け入れてくれるかもしれないという期待もしていたのだが、人は思ったように成長しないものである。
あの時ばかりは自分の人を見る目の無さを嘆いたものだ。
途中までは順調そうだったあの娘は結果的にクライヴァルにとっての毒となってしまった。
あの一件からそれまで以上に女性に対して一線を引いていた息子が誰かを好きになったというのは正直意外でもあった。
しかもその相手がマルカ嬢とは。
見た目の雰囲気だけで言えば毒となったあの娘と似ている。
だがその中身ははっきり言って正反対だ。
陛下からの指令でマルカ嬢を監視していたクライヴァルもその辺りはよく分かっているだろう。
(雰囲気が似ていたからこそ驚きもあったのだろうが)
自慢の子供たちを持つ自分から見てもマルカ嬢は優秀な人物だと思う。
陛下や自分たちを前にしても自分の意見を述べることが出来る。
これをただ単に不遜だ、学が無いからだ、分を弁えていないという者もいるかもしれないが、マルカ嬢は馬鹿なわけでも思い上がっているわけでもなく、ただこちらが望んだように動いてくれているように思える。
今でもクリスティナや殿下が望まなければもっと堅苦しい言葉で距離を置いていただろう。
自分がどうあるべきかの判断を誤らず、己を律することが出来る人間は人の上に立つ者にこそ好まれる。
陛下をはじめ、魔導士長や自分も含めあの件に関わった者のマルカ嬢に対する評価は高いだろう。
優秀な人材はどこにでも転がっているわけではない。
ぜひとも囲っておきたいものだ。
そうなってくるとクライヴァルがこのままマルカ嬢を妻にと望むのはとても良いことに思えてきた。
最も強力な囲いで公爵家に繋ぎ止めておける。
打算的な考えだが、良い人材を確保出来てクライヴァルも幸せになるなら何の問題も無いではないか。
そこまで考えて公爵はクライヴァルに「良い娘を選んだな」と言ったのだ。
―――もちろんマルカは自分が周りの偉い人たちの中でこのような行き過ぎた評価になっていることなど知る由もない。
昨夜のことを思い出し公爵は改めて息子に目をやった。
「昨夜も言ったようにマルカ嬢であれば文句は無い。例え平民だったとしても問題は無い。周りがとやかく言うようなら黙らせる。あとはクライヴ、お前の頑張り次第だ」
(そう簡単にはいかなそうだがな)
マルカ嬢は普通の娘とはどこか違う。
容姿や肩書だけにふらふらと吸い寄せられるような娘ではないだろう。
はっきり言ってそんじょそこらのご令嬢を落とすよりも難しそうだ。
「良いか、まず相手の話はしっかり聞くことだ。絶対に独りよがりになってはいかん。焦って一気に距離を詰めようとするな。あとは今まで本で学んだことは一旦頭の端に寄せておけ。相手は生きた人間だ。一人一人考え方も違うからな」
この恋愛初心者の息子には少し荷が重いかもしれないと思い、公爵は思わず口にしていた。
「昨日それで失敗したばかりです。父上の助言、ありがたく胸に刻んでおきます」
クライヴァルは苦笑して公爵に言った。
もうやらかしたのかと公爵は不安に思ったが、同じ過ちは二度はしないだろうとも思った。
なんだかんだ息子を信頼しているのだ。
ブクマ&感想&評価、誤字報告もありがとうございます。
ちょいと腰が痛いので次の更新がいつも以上に空くかもしれません。
すみません(;´Д`)
早めの復活目指します!
最近寒くなってきたので皆様もご自愛くださいねー。