17.そして彼は項垂れる
口づけを落とされた左手を胸に抱え、私は顔を赤くしていた。
今まで男性に、いや女性にもこんなことをされたことがなかったから純粋に恥ずかしかった。
けれど、少し冷静になってみると、今度は苛立ちがやって来た。
私はハンカチを取り出すと口づけをされた部分をごしごしと拭いた。
私の突然の行動に、クライヴァル様もたじろいだ。
「マ、マルカ嬢?」
私は左手を拭き終えると、ソファに座る私の傍に跪いているクライヴァル様から出来るだけ距離を取るように端に移動した。
「……それ以上近づかないでください」
「え?」
私はクライヴァル様を睨んで言った。
「たとえ手だとしても、許可も無く口づけをするなんて最低です。それともなんですか?平民には許可を得る必要などないと?ああ、クライヴァル様にとってこれくらいのことは挨拶程度なのでしょうか?」
「ちがっ……」
「違う?では何なのでしょう。気持ちの無い者から手を握られたりされるのは遠慮したいと先ほどご自分でも仰っていたのに、ご自分がやられて嫌なことを私にしたって分かっていますか?私はクライヴァル様に恋しているわけじゃないんですが」
「……っ、すまない」
私が本気で怒っているのが伝わったのか、伸ばしかけた手を引っ込めクライヴァル様は項垂れた。
ものすごく分かりやすく落ち込んでいる。
顔を上げないクライヴァル様と私の間に気まずい空気が流れる。
さてどうしたものかと考えていると、くすくすと笑う声が聞こえ、そちらに目を向けるとクリスティナ様と目が合った。
クリスティナ様は私に向かって手招きをした。
私が立ち上がってクリスティナ様のところへと行くと、彼女は自分が座っている場所の隣をポンポンと叩いた。
そこに座れということだろう。
私が促されるまま腰を掛けると、クリスティナ様はクライヴァル様に向かって声を掛けた。
「お兄様ったら馬鹿ね。だからマルカは普通じゃないって言ったじゃない」
クリスティナ様の声にようやく顔を上げたクライヴァル様の顔からは先ほどまでの余裕たっぷりの笑顔が消えていた。
「いつまでも固まってらっしゃらないで座ったら?」
クライヴァル様はのろのろと立ち上がり、先ほどまで私が座っていたソファに座った。
「元婚約者や他の女性が喜んだからってマルカまでそうとは限らないのよ?マルカは生まれつきの貴族じゃないもの。ねえ?」
「そうですね。平民で恋人でもない人にあんな気障ったらしいことをするのは物語の中の登場人物か、好色漢くらいです」
「こ、好色……?!違う。それだけは否定させてくれ」
「でもやったことあるんですよね?」
「それは、まあ、必要に応じてというか。女性にはそう接するべきだと。だが、誰彼構わずやるわけではない」
しどろもどろになるクライヴァル様を見て思わず溜息をつきそうになった。
なぜだろう。
先ほどまで格好良い人だと思っていたのだが。
いや、今でも外見は格好良いと思うのだが。
なぜだか残念な人のように思えてきた。
私は隣に座るクリスティナ様に小声で話しかける。
「クリスティナ様」
「なあに?」
「クライヴァル様の周りの女性が煩いのはクライヴァル様にも原因があると思うのですが」
こんな見た目であんなことをしたら元々クライヴァル様にときめいている女性はイチコロじゃないだろうか。
罪作りな男である。
「そうねぇ……でも婚約者にはこれくらい意外と普通よ?」
「いや、ですから私は婚約者でも恋人でもないじゃないですか」
「マルカはお兄様の想い人らしいから……お兄様に狙われているって分かっている?」
「はあ。私みたいな存在が珍しいだけでしょう?きっとすぐに飽きますよ」
私がそう言うとクリスティナ様は笑顔で固まりぼそっと何かを言った。
「まさか、本気だと思っていないの?さすがにお兄様が可哀想に思えてきたわ」
「え?なんですか?」
小声過ぎて聞こえなかった。
「何でも無いわ。でもマルカ、お兄様はどうかしら?私が言うのもなんだけれど、有能だし、公爵家の跡取りだし将来安泰よ?」
「どんな冗談ですか……。公爵家に平民が嫁入りなんてそれこそ物語の中くらいでしか有り得ないでしょう。大体、貴族にはそれなりの責任が生じるじゃないですか。公爵家ともなれば私が想像できないくらい色々ありそうですし、その奥様になられる方だって優雅にお茶をしているだけではないでしょう?」
「……そこまで…」
「え?」
「いいえ、大丈夫よ。我が家は実力主義だもの。マルカなら問題無いと思うわ」
「それこそ問題あり過ぎでしょう……」
私より相応しい人やクライヴァル様に想いを寄せている人なんてたくさんいるはずだ。
そんなこと考えずとも分かるだろうに、なぜクリスティナ様は乗り気なのか。
「クリスティナ、そろそろ私を除け者にするのは止めてくれないか」
「あら、お兄様。除け者だなんてそんなことしてないわ。もう言い訳はよろしいの?」
「言い訳……おい、なぜそんなに楽しそうなんだ」
「まあ怖い。嬉しくて笑っているのだからそんな目で見ないでちょうだい」
「嬉しい?」
私が聞き返すと、クリスティナ様はふふっと笑って頷いた。
「だってやっとお兄様に気になる方が出来たのですもの。それが私が認めたマルカだなんて、素敵じゃない。あとは、そうね。初めてお兄様に勝てた気がするからかしら」
「どういう意味だ?」
「今まで何をやってもお兄様に敵わなかったでしょう?常に努力をしているお兄様だから仕方がないとは思っていても悔しくないわけではなかったの。それがどう?こと恋愛に関してはお兄様はポンコツだということがよく分かったわ」
「……ポンコツ」
「私とバージェス様は政略だとしても相思相愛。お兄様は片想いのうえ、残念なことにマルカには全く届いていないし。それどころかスタート地点はマイナスなんだもの」
「……」
妹であるクリスティナ様からの攻撃に、クライヴァル様は両手で顔を覆って肩を落とした。
もう私からは彼の旋毛しか見えない。
孤児院で先生に叱られて落ち込む子たちを思い出して、少し可哀想に思えてきた。
「クリスティナ様、クリスティナ様」
「なあに?」
「もうそのくらいで。このままだとクライヴァル様が床にめり込みそうです」
「まあ!ごめんなさい、お兄様。つい本当のことを」
クライヴァル様はゆっくりと顔を上げると「お前は何か私に恨みでもあるのか」と呻くように言った。
「違うったら。お兄様に勝てそうなことがあって嬉しいだけよ。私もアルカランデの者ですから、もちろんお兄様の味方よ?応援するわ」
「え?!」
クリスティナ様の言葉に私は思わず声を出してしまった。
「ごめんさいね。私はマルカの友人である前に、クリスティナ・アルカランデなの。それに早くお兄様のお相手が決まらないと安心してバージェス様に嫁げないもの。でも安心して?マルカの嫌がるようなことはしないし、させないわ」
「とりあえず」と言ってクリスティナ様は私とクライヴァル様を見た。
「二人に必要なのは対話ね。生まれが違うのだから常識や価値観が違うのは当然だもの。だからお兄様も先ほどのような失敗をするのだわ」
「そう、だな」
「今日はこの後お父様たちも帰って来てそのような時間は取れなさそうだから明日にしましょう。お兄様、明日のご予定は?」
「夕方には戻ると思う」
「ではその後ね。マルカもそれで良いでしょう?」
「いや、私は住む所と休み中の職探しを……」
「すぐでなくても良いじゃない。ね?」
笑顔なのに。
笑顔なのになぜか断ることが許されない圧を感じます、クリスティナ様。
これが将来王妃となる人の圧というものなのか。
(はあ、仕方がないわね。クライヴァル様もなんだか可哀想だし)
「分かりました。明日も大人しく公爵家のお世話になります」
「そうか!ありがとう、マルカ嬢」
私が了解の意を示すと、先ほどまで沈んでいたクライヴァル様が急に立ち上がって、嬉しそうに感謝を口にした。
急に立ち上がったことに驚いて、下からクライヴァル様を見上げる形になった私はその笑顔を直視してしまった。
眩しい。
あるはずの無い光や花がクライヴァル様の背後に見えた気がした。
◆◇◆◇
「……そこまで…」
「え?」
マルカに聞き返されて自分の口から声が漏れていたことに気付く。
そこまで理解しているなんて。
平民として生まれた者の中には、貴族は遊んで暮らしているのだと思う者たちもいることを知っている。
少なくとも爵位を持つ当主以外は、豪華なものを身に纏い、贅沢な食事をし、日々の生活に何の憂いも無く生きていると思っている者が大半だ。
それなのにマルカは、それだけではないと分かっている。
(頭で理解しているだけでも十分だわ)
貴族の娘でさえ理解していない者もいるのだ。
いくら一時的に伯爵家の娘になっていたとしても、学園の授業を貴族と共に受ける中で知った知識だとしても。
自分が兄の相手にはなり得ないと判断する上で、身分が違うという理由以外のことを上げてくること自体が貴族の役割をきちんと理解しているということだ。
(学園に入るよりも前に貴族の在り方を教えた方がいるのかしら?もしかしてマルカが以前お世話になっていた孤児院のある領主の方?素晴らしい方だと言っていたし)
まあどちらでも良いことだ。
今言えることは、やはりマルカを手放すべきではないということだ。
兄には何としてもマルカを口説き落としてほしいと願っている。
ブクマ&感想&評価、誤字報告などありがとうございます。
前話で「願わくは→願わくば」ではないかと誤字報告を頂いたのですが、調べたところどちらでもよく、「願わくは」が本来の形みたいなのでそのままにさせてもらっています。
日本語って難しいですね(;´∀`)
更新がノロノロですみません。
ゆっくりですがちゃんと進みます。