9.姿を消した侍女
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえ。ですがわざわざマルカお嬢様が出向かなくとも、店の者をお屋敷に呼べば良かったのではありませんか?」
侍女のナンシーにそう言われて私は緩く頭を振る。
「わかってないわね。自分で見つけるのが楽しいんじゃない」
今日は書店に本を買いに来ている。
たしかにお屋敷までお店の人に来てもらえれば楽だけれど、ほんのわずかな限られた中から選ぶよりも、自分の目で見てこれだと思ったものを購入するほうが面白い。
しかも今日訪れたこの書店は、途中まで試し読みもさせてもらえるのだからなおさらだ。
私は自分で抱えた本とナンシーに持ってもらっていた本を書店の奥にある読書スペースのテーブルに置き、さてと気合を入れた。
「じゃあ今から試し読みをするからあなたも好きにしていて」
「これらの本すべてを試し読みするんですか?」
「当たり前じゃない」
私がそう言うとナンシーは苦笑を浮かべて「わかりました」と言った。
「暗くなる前には帰らなければいけませんから、あまり没頭されているようでしたらお声がけしますからね」
「ええ、ありがとう」
ナンシーがその場から離れたのを確認し、私はイスに腰を下ろした。
この読書スペースに通じる通路は一か所だけだし、書店の入り口も一つだけなので一応警護の面でも問題はないのだろう。
そもそも王都の治安は良い(時々以前捕まえたような盗人が出没したりはするけれど)ので貴族の令嬢であっても侍女を伴うだけで護衛まで連れて歩くようなことは少ない。
だからこそ私も必ずシールドを展開することと、クライヴァル様から贈られたブローチを身につけることを条件に、自由に出歩くことが許されているのだ。
実はこのブローチ、ただのアクセサリーではなく、魔法を維持させやすくする魔道具なのだ。
贈られた時、緊急事態が起きた際に私の魔力が切れないようにするためのものだという説明を受けた。
そんなもの存在するかは知らないが、居場所がわかる魔道具などでなくて良かったと内心ほっとしてしまったことは私だけの秘密だ。
侯爵家の娘として、公爵家に嫁ぐ者として、大切にされていることはわかっていても、時折一人だけで自由に出歩いて動き回りたいと思ってしまう。
けれどそれはとても贅沢な我儘だということもわかっている。
(さあ、せっかく一人の時間をもらったんだし楽しみますか)
テーブルに積まれた本の中から一番気になっていた一冊を手に取り、私は内容を確認し始めた。
それからどれくらいの時間がたっただろう。
ふと気づいた時には窓から入り込む日差しがだいぶ傾いてきていた。
(没頭し過ぎちゃったわ。ナンシーはどこかしら)
もしかしたら一回は声をかけられたけれど気づいていないだけかもしれないと、買う予定のない本を返却場へ戻しながらナンシーの姿を捜す。
そのまま読書スペースから書店の販売スペースへと向かうが、どういうわけかそこにもナンシーの姿はなかった。
(どこか他のお店に行った? ううん、ナンシーはそんな無責任なことはしないはず)
もし他の場所へ行くなら必ず私に声をかけているはずだし、そもそも彼女は私一人を書店に残して店を出るなんてことをするような人ではない。
(……嫌な感じね)
言いようのない不安に駆られ、ドクンと心臓が鳴った。
書店の店主にナンシーを見なかったかと確認をしても、正確なことはわからなかった。けれど店主は続けて「ああ、でも……」と口を開いた。
「具合の悪そうな女性が連れの男性と一緒に店を出るのを見たよ。もしかしてお嬢さんの探しているのはその人かい?」
「……私が探しているのは女性一人なんです。もしかしたら私が本に夢中になっているのに呆れて先に出てしまったのかもしれません。ありがとうございました」
私は動揺する気持ちを微笑みの下に隠し、買うつもりだった本も置き去りにして店を出た。
(もしその女性がナンシーだったとしたら、彼女は誰かに連れ去られたということ? なぜ? 具合が悪そうということは、そうなるように何かされたの?)
わからないことが多すぎる。
「ふ~」
一つ大きく息を吐き顔を上げる。
「ひとまず、お屋敷に帰ることが先決ね」
このままここで待っていてもナンシーが戻ってくる可能性は限りなく低いと思う。
もし本当に彼女が連れ去られたのだと仮定しても、その理由が何なのか私にはわからない。
もしかしたらナンシーではなく私が狙われていたという可能性だってある。
(こういう時は一人で動いては駄目)
かといって街の警備隊などに助けを求めて良いのかどうかもわからない。
今の私はただのマルカではなくフィリップス侯爵の養女であり、次期アルカランデ公爵の婚約者でもあるのだ。
話しをどこまで大きくしていいのかも自分じゃ判断できない。
(つまるところ、今の私にできることは帰宅の一択!)
そう考えて数歩足を進めたところで「ねえ、ねえ、お姉ちゃん」という声とともに身体が後ろへと引っ張られた。
振り返るとそこには小さな男の子がいて、小さな手で私のスカートを思い切り掴んでいた。
しゃがんで「なあに?」と聞くと、私と目が合った男の子は二パッと快活そうな笑みを浮かべた。
「これあげる!」
男の子が差し出してきたのは小さく折りたたまれた紙だった。
「これはどうしたの?」
「なんかねえ、あそこにいる知らないお兄ちゃんがお姉ちゃんに渡してって言ったの」
そう言って男の子は道を挟んで向かい側の木を指した。
しかしそこには男の子の言うお兄ちゃんらしき人物の姿はなかった。
「誰もいないねえ」
「あれー? おかしいな。さっきまではいたんだよ?」
「そっか、どんなお兄ちゃんだった?」
「んっとねえ、お姉ちゃんより背が高くてー、薄茶色の髪の毛でー、あ! 近くにいた女の人がお兄ちゃんのことカッコイイて言ってた!」
「そのお兄ちゃん、何歳くらいだったかわかるかな?」
私の質問に男の子は首を捻って「わかんない」と答える。
「お姉ちゃんと同じくらいかなあ? 俺よりおっきくて父ちゃんよりちっちゃい感じ」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「ううん、じゃあ俺もう帰るね! バイバーイ!」
手を振りながら走って去っていく男の子に手を振り返し、その姿が見えなくなってから手渡された紙を広げた。
「……っ」
手紙にはこう書かれていた。
『返してほしくば一人で指定された場所へ向かえ』
誰を、とも何を、とも書いていない。それでも何を言っているのかはわかる。
指定された場所は王都の中でも外れのほうで、ここから馬車で30分以上はかかる場所だ。
このまま一人でその場所に向かうことが得策でないことくらいはわかっているけれど、紙にはご丁寧に『どこかに知らせたりすることは許さない』と書かれていた。
誘拐犯の許可などいるか、馬鹿者と言いたいところだが、ナンシーの無事を確認できてない今はこの指示に従う他無い。
この紙を渡してきた男の姿はないと男の子は言ってはいたが、もしかしたら今もどこかで私が指示通り動くかどうか見張っているかもしれない。
(ああ、もう! 行くしかないじゃない!)
貴族の中には使用人なんて物と同じ、名前も知らないしいざという時は切り捨てるものという考えを持つ者もいるけれど、私はそんなふうには思えない。
(お叱りは受けるだろうけど仕方ない!)
このまま指示を無視して公爵邸に戻って、万が一ナンシーに何かあったら私が自分を許せない。
それに、自分の身を守れるだけの力が私にはあると自負している。
もちろん油断をするつもりはない。
「ふざけた真似してくれるじゃない……!」
どこの誰だか知らないけれど、絶対に後悔させてやると意気込んで握りしめた手の中で行き先の書かれた紙がぐしゃっと潰れた。
「あ……駄目ね、冷静にならないと」
スーハーと息を整えて、私は指示された場所へ行くために馬車乗り場に向かって歩き出した。
◇◆◇◆◇
――同じ頃、王城の王太子執務室では仕事を終えたクライヴァルが帰宅の途に就くところだった。
「では殿下。私はこれで失礼いたします」
「ああ、今日もご苦労だった。また明日も頼――」
――コンコン
バージェスの言葉を遮るように部屋の扉がノックされた。
「入れ」
「失礼いたします」
「どうした?」
「アルカランデ卿にお客様がいらっしゃっておりますが、いかがいたしましょうか?」
「私に? どなたでしょう?」
「シャルバン侯爵令息ディルク様です」
「シャルバン……?」
クライヴァルとバージェスは互いに顔を見合わせた。
シャルバン侯爵令息ディルクはかつてクライヴァルの婚約者だったベサニーの弟だ。
今年王立学園に入学し、姉のベサニーとは違い謙虚で優秀だと言われており、クライヴァルたちもそう認識している。
歳も離れており、ベサニーとのこともあるので積極的な交流はない。
そんなディルクがわざわざ王宮まで足を運び、自分に面会を求めている。クライヴァルは嫌な予感しかしなかった。
「わかった。ここに通せ」
「バージェス殿下……!」
「クライヴァルの考えていることはわかる。私も嫌な予感しかしないからな。妻となる女性の家に関わるかもしれないことだ。一緒に聞いたほうが話が早い」
「はあ……。わかりましたよ」
クライヴァルは額に手を当て溜め息を吐くとディルクをここに連れてくるようにと言った。
そうして連れてこられたディルクは、まさか王太子の執務室に通されるなどとは思っておらず、緊張からか声が震えていた。
「こ、この度は、急な訪問にも関わらず、お時間を頂戴しまして、ま、誠にありがとうございます!」
「そんなに緊張するな。私はおまけのようなものだからな」
「はい、いえ! そんな!」
王太子に緊張するなと言われて、では遠慮なくと言えるような人間はそういない。
けれど、それでも平静を保とうと頑張るディルクの姿を見て、クライヴァルはどこか懐かしさを覚えた。
(あの幼かった少年が立派になったものだ)
クライヴァルはまだベサニーと婚約していたころ、何度かシャルバン侯爵邸で顔を合わせたことがあった。
あの頃のディルクはクライヴァルに憧れを持ち、彼が将来自分の義兄になることをとても喜び懐いていた。
クライヴァルも素直に慕ってくるディルクのことはそれなりに気にかけていたように思う。
それが姉のベサニーの件ですっかり疎遠になってしまい、しばらく塞ぎ込んでいたと聞いたのはもうずいぶん前のことだ。
「久しぶりだな、ディルク。元気にしていたか?」
「……はい! クライヴァル様もお変わりなく……ありがとうございます」
ディルクは会うことさえ難しいかもしれないと思っていたクライヴァルが、昔のように気さくに話しかけてくれたことに驚き、自然と礼を述べていた。
「あの、今日はクライヴァル様のお耳に入れておきたいことがあり参りました」
「聞こう。殿下も一緒で構わないか?」
「は、はい。クライヴァル様と王太子殿下さえよろしければ」
「問題ない。そこに掛けてくれ」
「はい。失礼いたします」
3人がそれぞれ席に着き、人払いがされると、ディルクは「我が家の恥をさらすようで恐縮なのですが」と言って話しだした。
「姉の夫が亡くなり、本邸を追い出されたということは……ああ、すでにご存じのようですね。本当にお恥ずかしい限りで……」
申し訳なさそうに話すディルクは、ベサニーのせいでいろいろと大変な時期もあったのだろう。
家族に迷惑をかけても反省もせず、好き勝手生きていたべサニーにはこの弟の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
「その姉がですね、以前のような生活ができなくなったと、もうこんな田舎は嫌だと我が家に手紙を送ってきまして……」
娘に甘かったシャルバン侯爵はそんなに辛いなら帰って来いというつもりであったようだが、母であるシャルバン侯爵夫人とディルクは反対し、侯爵を窘めた。
ベサニーには馬鹿なことは言わず大人しくスタークス伯爵領に留まり、慎ましく過ごすようにと返事を出したそうだ。
「その後も何度も同じような手紙が届き、私たちも同じように返しました。けれど、あの、本当に恥ずかしく、情けない話なのですが……」
そこまで話すとディルクはより一層項垂れて大きな溜息を吐いた。
「父が私と母に内緒でこっそりと姉と手紙を交わしていたようで、王都の外れに密かに家を用意し、姉を呼び寄せたようで……つまりですね、あの姉がこちらに戻ってきているようなんです」
今度はクライヴァルとバージェスの2人が項垂れた。
「あの、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
予想はしていたが、嫌な予感ほどよく当たるというのは本当らしい。
「本当に、父と姉が申し訳ありません!」
「いや、ディルクが悪いわけではないのだからそんなに謝らなくていい。それに戻ってきたといっても何か悪さをしているわけではないのだろう?」
「それは、はい。ただ、王都を遊び歩いているようで……万が一にもクライヴァル様と会ってしまったらと思うと申し訳なく。それに……」
「それに?」
「どうやら姉はクライヴァル様の婚約者のご令嬢についても聞きたがっていたようで、お気をつけいただければと。私なんかが気をつけて欲しいというのは差し出がましいですが……姉の貴方への執着は相当なものでしたから、念のためお伝えしておいたほうが良いかと」
「わかった。注意を払うよう家の者にも伝えよう。殿下」
「ああ、クリスティナにも話しておくよ。まあ彼女は王宮から出なければ問題ないし、出るとしてもしっかり護衛が付くからな。問題は、やはりお前とマルカ嬢のほうだろう」
「……そうですね」
マルカは大人しそうに見えて行動派だ。
しかも生まれが平民だったせいか常に人が付き従ったり、護衛を連れ歩くことを好まない。
まあ本人の防御能力が高いので通常であれば問題ないのだけれど、警戒するに越したことはない。
「……本当に、申し訳ありません」
「気にするな。問題が起きると決まったわけではないのだから。だが情報は多いに越したことはない。わざわざ伝えに来てくれて助かったよ。ありがとう」
「そんな! 私のほうこそお話を聞いていただきありがとうございました」
ディルクは最後までぺこぺこと頭を下げて帰っていった。
「シャルバン侯爵め、余計なことを。さっさと息子に爵位を譲ったほうがいいんじゃないか?」
「さすがに大きな理由もなくては難しいでしょう。ディルクもまだ若いですし」
しっかりしているように見えてもまだ15歳だ。
学園にも入ったばかりであるし、侯爵として領地を取り仕切るのは負担が大きいだろう。
「母親と協力すれば何とかなるんじゃないか? シャルバンは侯爵夫人がしっかりしていそうだし。あ、いっそのこと娘が問題を起こせばこちらに呼び戻した責任を取らせて隠居させるんじゃないか?」
「縁起でもないこと言わないでください」
名案だとでも言うように顔を明るくしたバージェスの言葉をクライヴァルはすかさず否定した。
「冗談じゃないか」
「冗談でも聞きたくないですよ、そんなこと」
クライヴァルは立ち上がり大きな溜息を吐くと、荷物を手にドアへと向かった。
「帰るのか? ああそうか、帰ろうとしていたんだったな」
「そうですよ。早く帰って家の者にもこの話を伝えないと。マルカにもこれからは街に行く際には護衛を伴うように言わないといけませんからね。ではお先に失礼します」
そう言って執務室を出たクライヴァルは、まさにこの日、マルカが街に出たきり帰ってこないということを聞かされるとは思ってもいなかった。