第2章 ムカデ姫伝説の物語 2-4 岩手
森ヶ岡に築いている城の内曲輪には、すでに堀や館が築かれており、泊まることに支障はなかった。
館に泊まった利直と於武は、朝食をとると外に出た。
空は晴れ渡り、朝日が長い影を作る。澄んだ空気が清々しい気分にさせる。
利直は一人で歩き出した。於武は利直の後ろ姿に問い掛ける。
「殿、従者をお連れにならなくて、よろしいのですか?」
「遠くへ行くのではない。たまには、二人だけで歩くのもよいではないか」
於武はそう言う利直の後について歩き出した。
二人は内曲輪を出ると、北に向かった。下級武士の屋敷や町人の家が立ち並び始めているのを見ながら歩く。
於武の心は弾んでいた。思えば、利直と二人だけで歩くのは初めてだったのだ。
利直はそんな於武の様子を気にすることもなく、4半里(1キロメートル)ばかり歩き、止まった。大きな岩が3つあり、小さな祠があった。
「於武、着いたぞ」
「ここが、殿が言っていた面白い所なのですか?」
「そうだ。こっちに来てみろ」
利直はそう言うと、於武の手を引っ張って岩の前に引き寄せ、指差す。
岩には何かの跡のようなものが付いていた。
「手の跡のように見えますが」
利直は得意になって答える。
「於武の言う通り、手の跡だ。ただし、ただの手形ではないぞ。鬼の手形だ」
「まぁ、鬼の手形ですか。でも何故、鬼の手形が付いているのでしょう?」
「この里に住んでいた者に聞いた話だが、その昔、羅刹という鬼がいたそうだ。羅刹はこの里に来て人々を襲っていたという。困り果てた里の者たちは羅刹を退治するよう三ツ石の神に祈ったところ、羅刹は神に捕らえられた。神は『こちらの方に来ない』と羅刹に誓わせ、証として岩に手形を押させた、ということだ。今は森ヶ岡と呼んでいるが、以前、この地が不来方と呼ばれていたのは、これに由来するらしい」
利直の説明を聞いた於武は、感謝の言葉を口にした。
「面白いお話を聞かせていただき、ありがとうございます。ここに連れてきてもらって、嬉しかったです」
於武が岩に寄りかかり、空を見上げる。利直も岩に寄りかかって空を見上げ、於武の手を握った。
二人はそのまま日の光を浴びながら、しばらく真っ青な空に浮かぶ雲を見ていた。
それから3年後の慶長11年(1606年)、於武は33歳という当時としては高齢で男子を生む。2代藩主となる重直である。
利直は福岡城で妻子と一緒に暮らしていたが、それも3年間だけだった。慶長14年(1609年)、於武と子は南部藩江戸藩邸に移り住まなければならなかった。今度は徳川幕府の人質になったのだった。
於武が59歳の時、38年連れ添った利直が病死した。
利直が他界してから31年後、90歳になった於武は、江戸藩邸の隠居屋敷で寝込んでいた。
「母上、お呼びでしょうか」
藩主となった重直が、心配そうに母の枕元に座る。
「いよいよお迎えが来たようです」
於武が弱々しく告げた。
「弱気なことを言わないでください」
と、重直は言ったものの、母の死が迫っているのを感じていた。
於武は懐に入っている袋を取り出し、布団から手を出して重直に手渡した。
「これは、私がお守り代わりにしていた家宝です。以前、お前に話して聞かせた、蒲生家に伝わる矢尻です」
「大ムカデを退治したという矢尻ですね」
「そうです。私が南部家に嫁ぐときにいただいた物ですが、蒲生にお返しするのが筋だと思い、お前を呼んだのです」
「ですが母上、蒲生は既に断絶しております」
蒲生家は、氏郷から3代後の忠知に子が無く、29年も前に無嗣断絶となっていた。
「それは、わかっています。蒲生家が再興したら、蒲生家に返してください」
「承知しました。蒲生家再興のときまで、お預かりします」
於武は重直にもう一つの願い事を伝える。
「私が死んだら、森ヶ岡の岩の手の近くに葬ってください」
於武はここ数日、同じ夢を何度も見ていた。それは、利直と二人で見上げた空の景色だった。於武はその理由を考えているうちに気が付いたのである。自分の人生の中で一番幸せを感じた時だったのを。
「岩の手? 岩の手とは何処でしょうか?」
「大きな岩が3つあって、鬼の手形が捺されてある……」
「ああ、それは三ツ石神社です。その近くによい場所を探して、墓所を建てますからご安心ください」
重直が承諾したのを聞いた於武は、安堵して眠りに就いた。