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第1章 盛岡城について 1-5 南部家の墓所

 盛岡藩主は南部家が務め、15代続いた。14代と15代藩主の墓は東京にあるが、他の藩主の墓は盛岡城跡から北へ2キロメートル程の場所にある。

 大光山聖寿寺には南部家廟所があり、9人の藩主の墓がある。その近くの大宝山東禅寺には、5人の藩主の墓がある。

 数が合わないのは、11代藩主が二人いるからである。10代藩主の死去により、嫡子の南部利用が家督を継いだが、将軍と御目見せずに事故死した。改易を恐れた藩は、従兄弟の善太郎を替え玉にし、南部利用と名乗らせて藩主に擁立したのであった。


 両寺のある場所は北山と呼ばれ、周辺には多くの寺院がある。

 初代藩主・利直の墓は東禅寺にあり、そこから数百メートル南には利直の正室の於武の墓がある。光台寺にある於武の墓は、源秀院殿墓所という名で、別称はムカデ姫の墓である。

 於武がムカデ姫といわれるようになったのは、死後のことだった。

 於武は江戸で亡くなり、墓は於武の遺言によりこの地に作られた。墓の前には遠曲輪の水堀があったため、太鼓橋が架けられたが、渡り初めの日の未明に、バラバラに壊されたのである。何度架け直しても壊されるため、「ムカデが壊した」との噂が立った。於武は、大ムカデ退治伝説で有名な俵藤太の子孫で、ムカデ退治に使ったという矢尻を持って輿入れしていたため、ムカデの祟りと思われたのである。

 噂は藩主の耳に入り、墓参の日の早朝、大勢の武芸者を見張りに立たせ、数千人の人夫でその日のうちに橋を作らせた。

 その後、「夜になると、墓の周りには数百匹のムカデがはいまわり、於武の髪が化けた片目の蛇が数千匹現れる」と評判になり、源秀院殿墓所はムカデ姫の墓と呼ばれるようになったということである。

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