第1章 盛岡城について 1-4 盛岡城の築城から公園化まで
盛岡城の築城時期については、幾つか説があるようだが、慶長2年(1597年)、信直の嫡子・南部利直が総奉行として築城を開始し、翌年に豊臣秀吉より正式な築城許可が下されたとされる。
築城場所は、北上川と中津川の合流地点で、南部家家臣であった福士彦三郎の不来方城があった場所だった。
信直が福士氏から不来方城を召し上げたのが、文禄3年(1594年)であるから、築城の内諾をなかなか受けられなかった様子が見て取れる。豊臣秀次切腹事件や慶長大地震、慶長の役の準備で忙しく、後回しにされたのだろう。
築城は着工から2年あまりで中断された。信直が関ケ原の戦いの前年に病死したためだった。家督は利直が継いだ。
関ケ原の戦いで東軍に味方し、大名として生き残った利直は、慶長8年(1603年)、築城を再開する。完成は、利直が死亡した翌年の寛永10年(1633年)であった。実に、36年という歳月を費やし、盛岡城は造られたのである。
完成した盛岡城は、内曲輪、外曲輪、遠曲輪を擁した総構えの平山城であった。
内曲輪は北上川と中津川及び水堀に囲まれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸、腰曲輪、下曲輪などで構成されていた。本丸、二ノ丸、三ノ丸の配置は、段下がりに連ねた連郭式であった。
外曲輪は内曲輪の北側と東側を囲むように配置され、中津川と水堀に囲われていた。外曲輪には、南部一族や重臣達の屋敷が建てられた。
遠曲輪は外曲輪を囲むように設けられ、堀や土塁で囲まれていた。遠曲輪の敷地内には中津川が流れ、町人や下級武士の屋敷があった。
盛岡城は完成後、洪水や火災に遭ったり、石垣や櫓の増設、川の流路変更などが行われ、変貌しながら明治を迎えた。
明治元年(1868年)、戊辰戦争で新政府軍に降伏した盛岡藩は、仙台領の白石に転封となり、盛岡城は新政府の直轄地となった。その後、盛岡城は陸軍省所管となる。
明治7年(1874年)、盛岡城は前年の廃城令では存城とされていたが、老朽化のため、県が入札で建物や樹木を払い下げた。ほとんどの建物は解体撤去されたのである。
明治23年(1890年)に縁故払い下げを受けて南部家の所有となった盛岡城跡は、県に貸与され、明治39年(1906年)に岩手公園として開園する。昭和9年(1934年)には、盛岡市が所有者になり、現代に至るのである。