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第1章 盛岡城について 1-3 南部信直

 後代の盛岡藩主が信直を神格化したのは、信直が盛岡藩の基盤を作った功労者であったからである。その信直の人生は、平穏なものではなかった。


 南部氏は甲斐国で発祥したが、鎌倉時代に奥州で発展する足掛かりを作った。南部光行は、奥州藤原氏攻めの勲功により陸奥国糠部5郡を拝領し、奥州南部氏の始祖になったとされる。

 その後、南部一族は東北で盛衰を繰り返し、戦国大名になっていくのである。


 南部氏は24代当主・南部晴政のときに最盛期を迎えるが、晴政には男子が無かった。そのため、長女に婿養子を取って嗣子とした。婿養子になったのは、一族の石川氏の庶子である信直だった。

 晴政に嫡男が生まれていなければ、何事もなかった筈である。ところが、50歳を過ぎた晴政に、男子が生まれた。晴継である。晴継の誕生が、後々まで南部一族を揺るがす火種となるのであった。


 室町幕府8代将軍の正室・日野富子は、次期将軍が将軍の弟・義視に決定した後に、男子の義尚を生んだ。富子が強引に実子を将軍にしようとしたために、応仁の乱が起こった。豊臣秀吉は、甥の秀次に関白を譲った後、淀との間に秀頼が生まれ、秀次を自刃に追い込んだ。

 実子に跡を継がせたいと願い、後継者を排除するというのは、ありがちなことだ。


 晴政に嫡男が誕生し、信直の妻である晴政の娘が他界したため、信直は宗家の居城・三戸城を出た。信直が後継者を辞退したにもかかわらず、晴政は信直を討とうとしたのである。だが、信直は生き延び、晴政は病死した。家督は晴継が継いだが、幼くして亡くなった。一説には、毒殺ともいわれる。


 宗家の家督は、信直と九戸親実の争いになるが、信直が強引に26代当主になった。

 当主となった信直に待っていたのは、内憂外患の状況だった。内憂は一族最大勢力の九戸派との対立、外患は晴政が当主ときに南部家から独立した津軽為信との争いである。

 信直が取った道は、中央政権を後ろ盾にすることだった。南部信直は、前田利家に接触し、関白の豊臣秀吉に臣従したのである。

 天正18年(1590年)、信直は小田原征伐に参陣、南部の所領の内7カ郡を安堵され、大名の地位を公認されるのである。


 翌年、信直の家督相続に不満を持っていた一族の九戸政実が、反乱を起こした。いわゆる、九戸政実の乱である。信直は苦戦を強いられるが、秀吉が派遣した大軍により、九戸氏は滅亡した。信直は、和賀郡と稗貫郡を加増され、9カ郡10万石の大名となり、居城を三戸城から九戸城に移した。このときの領地がそのまま南部藩に受け継がれるのである。

 この乱を通じて、信直は浅野長政や蒲生氏郷と関係が強くなった。南方の2カ郡が加増になったことにより、長政から当時「不来方」と呼ばれていた盛岡の地へ居城を移すことを勧められる。長政の助言が、盛岡城が誕生する発端になったのであった。


 九戸氏の滅亡で当主の地位を固めた信直であったが、以降は豊臣政権の大名として働かなくてはならなかった。文禄の役に駆り出されて肥前・名護屋に参陣し、慶長大地震の復興木材の調達などに尽力した。


 慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去し、その半年後に南部家と縁の深かった利家が死去すると、慶長4年(1599年)10月、後を追うように信直も病死した。53年の人生だった。

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