1.釣られた男
釣られた男
「じゃ、用事があるから。ぐばーい」
送りの誘いをそう言って女は断り、その男に右手を上げて笑った。
「あいつ、結構しつこいわね」
したたかな女はどこにでもいるものだ。女は次の角で白いセダンの中に消えた。
「うまく別れろよ、ああ言ったタイプはストーカー予備軍だぜ」
「わかってる。でもちょっと変なのよねー、あのオジン」
CDのボリュームを下げて女は短髪の男に話し始めた。
男は公園に立っていた。サイトで「釣れた」いつものカモだ。しかし身なりはきちんとしている。嫌いなタイプではない。いつものことだが、好みのタイプでなければ女はそのまま帰る。サイトの写真は本人だが、19の時の写真でモザイクまでかけてあった。つまり、隣に座っても名乗らねばバレることはない。女は、いきなり男の手を取り、指を絡めた。
「初めまして、未唯ですぅ」
上目遣いの妹キャラに世の中の男はまったく形無しだ、男は完全に女に釣り上げられた。
いつからか、女はよく眠るようになった。それは男の「匂い」が原因だ。甘美なそれは女の脳にしみていった。
ある日男は都内のレストランを店ごと貸し切る、自分で料理するためだ。それは小さな魚、厨房の火力が強過ぎるのでそれはほとんど炭になった。ついでに言うと、男はその魚を1日かけてやっと釣ったのだった。満足感からか、ほとんどしゃべらない男もつい声を漏らした。
「美味い」
口の周りに炭をいっぱい付けて男は笑う。その男はやはり「変人」に違いない。
そのレストランに女の「元カモ」がいた。彼からその話を聞いて、女はその男がケタ外れの金持ちに違いないと思った。「金」はその女にとって何よりの原動力になった。それを聞くと女はすべてのボーイフレンドのアドレスをさっさと携帯電話から消した。一転して女はその男に夢中になっていった。面白いもので、何度か会うたびに女は男の全てを気に入り始めた。
なるほど、男は金持ちに違いない。使う事、使う事。女は「金持ち」程「渋ちん」なことは経験済み、その点でも男は「変人」だった。ある日真っ白の「リムジン」の中で女は男に聞いてみた。
「あなた、年幾つ?」
女は、男の年齢はもちろん、名前すら知らなかった。女がそんなことを聞くということは「結婚」いや、男を「逃がさない」決意の表れに決まっている。
「四十三かな?」
「かな?」
「正直、誕生日はわすれた」
「ふうん」
「名前は?」
「コタロウ」
女は男が大金持ちの養子になり、義父の会社を更に大きくし、最近まで働き詰めだったことをなんとか聞き出した。「四十三」というのは少し怪しいが、大金も自由にできる立場にいるのは間違いないだろう。
「よーし、このオジン。いただきまーす」
女は「エルメス」のバッグを覗き、用意してきた「モノ」を確認すると、早速男の腕に甘えた。
「未唯おなか、すいた〜」
釣った魚に餌をもらうのは女の勝ちパターンだった。国産牛と高級ワインがテーブルに並んだ。
「ふう〜、さすがに疲れた。あっそこ左折してちょうだい、トリトンホテルに泊まるの」
正体のなくなった男の身体は、それを支えるだけでも重労働だ。女はやっとの事で男をタクシーに乗せた。薬の効き目があるうちに「既成事実」を作らなければならない。運転手は、黙ったまま左折のウインカーを点滅させる。さっきはまだ、何やらうわ言を話していた男もやがて何もしゃべらなくなった。
「女が男を酔わせて、ホテルに連れ込むなんてな……」
二人がルームミラーから消えると、そうタクシーの運転手が言葉を吐いた。
ツインルームに入ると早速女は男をベッドに放り出す。
「明日朝、コタロウのやつ、私になんて言い訳するかしらね。さてと……」
女は手早く男のネクタイを抜くと、ワイシャツのボタンに手を伸ばした。薄いピンクの「ネイル・アート」の乗った細い指先は、こうして何度も「既成事実」の「扉」を開けた。
と、男がその女の腕を突然掴んだ。
「え、何?、薬が効かなかったって事?」
「いいや、小太郎はぐっすり眠っている。おかげで俺が久しぶりに自由に出てきたって訳さ」
「あんた、何者よ。からかうのもいい加減にしろっての。あーしらけちゃう、ハイハイ、ごめんごめん、冗談だってばさ」
かなり狼狽した女は、少し震えながら抜き取ったネクタイを男に投げつけた。
「俺は『我武者羅』ガムシャラという、まあ勤勉の神と呼ばれることもあるがね」
「ガムシャラ……、その『ガム』が何で小太郎から出てきたのよ!」
「まあ、その前に楽しもうぜ」
男は女の細い腕を持ち上げ、強引にキスをした。
「あっ、なんかいい感じ……」
女の身体からすうっと力が抜け、男は軽く笑みを浮かべた。
翌朝、女はいつもの「固い」ベッドの上で目覚めた。
「なんだぁ、夢だったのか。でも縁起のいい夢ね、即実行しなきゃね」
そう言って女は仕事用のバッグに昨夜のエルメスから中身を移そうとした。
「あ!このネクタイ、あいつのだわ、ということは……」
女は見覚えのあるそれを見つけると、急いでトイレに駆け込んだ。そして水を流し終えると、少し残念そうな顔でトイレから出てきた。
「うーん、途中までうまくいってたみたいなんだけど。やっぱりダメだったか……」
女は、ベッドの側の段ボールから、きちんとたたまれたブラウスを取り出し、洗面所に消えた。
女は「香坂未唯」まあ「素っぴん」は美人の部類だ。女は誰でも名前を知っている、大手の証券会社が先般子会社化した「損保会社」に勤めていた。彼女の部署は「地味」な事務員だ。社内に彼女の「アフター・シックス」を知るものはいない。社内では目立たない女、彼女にとっては灰色のロッカーを開くところから仕事が始まる。黒い制服の袖に腕を通し、襟元のチェックをすると彼女はいつもの「OL」に変わった。
やがて、いつもと同じ18:00が来た。
「お疲れ様でーす」
「おお、お疲れ。今日も電車かい?」
声を掛けてきたのは、廊下でいつもすれ違う「富田部長」だ。
「そうですけど、何か?」
「いや、彼氏のお迎えとかないのかなって。もったいない、世の男どもは……」
「部長それって、セクハラ結構入ってますけど……」
「あはははっ、ゴメン。俺はこう見えても女性を見る目はあるからね、君はとっても魅力的な……」
「失礼しまーす」
お辞儀ひとつを残して、彼女は更衣室に逃げ込んだ。
「嫌いじゃあないけど部長には、今日はあまり付き合っていられないの」