賢者の遺言
結界が音を立てて蒸発した。
イルは慌てて立ち上がり、建物の中に飛び込んだ。
かつての戦場は、静まり返っていた。
砕けた床、崩落した壁──それらの存在が、如何に此処で激戦が繰り広げられていたかということを伝えてくれる。
比較的状態が良い壁の一角、そこにイルが求めるものの姿はあった。
力なく床に座り、壁にもたれかかった2人の男がいる。一方は長い銀髪の白い燕尾服姿の男で、もう一方はそれと似た面影を持った顔の紋様が目立つ白い法衣姿の男だ。双方共に双眸を閉ざし、傍目から見ると眠っているだけのように思える。
重なっているその胴を、剣で串刺しにされていなければ──そう勘違いしていたかもしれない。それほどまでに、彼らの表情は穏やかだったのだ。
「……ゼノヴィア!」
イルは相棒の名を、無意識に偽りの名の方で呼んでいた。
傍まで駆け寄り、治療を施すべく彼の肩に触れる。
しかし、それ以上のことは起こらなかった。
ドミヌスをある程度制御できるようになったとはいえ、まだまだ力の発動は本人の感情が昂ぶった際に起こる無意識によるところが大きい。そんな状態で精神の集中を特に要する治癒の力を使うなど、到底できるものではなかった。
「……何でだよッ!」
自分の掌を憎しみの目で睨み付け、イルは叫んだ。
「ドミヌスは……オレが継いだ力は、グリモワールよりも凄い究極の力だったんじゃないのかよ!」
自分の無力さに対する怒りで、涙が零れた。
「壊すしかできないのかよ……助けることができたって、いいじゃないかよ……!」
『──やめろ、みっともねぇ。男がヒステリー起こすなんざ』
唐突に、イルの脳内に響く声があった。
イルはびくっと身を震わせて、声の出所を──眼前の、眠るような様子の男を見つめた。
「……ゼノヴィア……お前なのか?」
『ああ……悪いな、もう声出せるほどの力はねぇんだ。最期くれぇは、ちゃんと面と向かって自分の声で話したかったんだけどよ』
「……そんな、最期だなんて言うなよ。まだ……」
『てめぇの状態くらい、分かるさ。もう持たねぇよ。……だから、最後におめぇと話ができて良かったぜ』
ラルヴァンダードは笑った。肉声ではなかったが、その相変わらずの調子が、本当に彼が口から声を発しているように感じさせた。
『イル』
笑い終えた後、真面目な様子に戻ってラルヴァンダードはイルの名を呼んだ。
『ごめんな』
「……え?」
問い返すイルに、彼は単語を繰り返して続けた。
『おれの都合でおめぇを利用して、辛い思いさせちまってごめんな。嫌な思いさせてごめんな。それだけは、どうしても謝っておきたかった。だから、此処に戻ってきてくれてありがとな。傍まで来てくれたから……今、こうして伝えることができるんだからな』
イルはかぶりを振った。
「……そんな……謝るなよ。らしくないじゃないかよ」
『言ったろ。これが最後だってよ。ちっとくらいらしくなくてもいいじゃねぇか』
「…………」
イルの全身が震えた。
『おれの首に掛かってるモンを取ってくれるか』
言われた通りにラルヴァンダードの胸元に目を向けると、そこには血塗れになったマグスの星があった。
『そいつを……おめぇにやる。おれの知識、魔力、全てを込めたそいつを……持って行ってくれ。必ず何かの役には立つはずだ。最後の最後で、おめぇが勝って帰れるように──』
そこで、急にラルヴァンダードの声が遠くへ引かれるように小さくなった。
思念の力が弱まっている。
イルにはテレパシーの仕組みは分からなかったが、その現象が何を示しているのかは何となくだが分かった。
縋り付くように、イルは涙混じりに大声を上げた。
「……嫌だ! 駄目だ……行くな、行くなよ! オレを1人にしないでくれよ!」
『──ったく……ちっとは逞しくなったかと思えば……やっぱ甘ちゃんなんだ……なぁ。神の眷属相手に泣くなんざ……おめぇくらいのモンだ……ぜ。全く……』
「関係ない……」
手の甲で瞼を拭い、イルは言った。
「オレにとったら、ゼノヴィアはゼノヴィアだ……神の眷属だとか、賢者だとか、どうだっていい……!」
『……へっ……』
イルを笑うラルヴァンダードの小さな声は、やはり最後まで普段と何ら変わりはなかった。
同じで──しかし何処か晴れやかだった。
『……ありがと……な……』
途切れる言葉で、感謝の一言を呟いて──
それきり、ラルヴァンダードから思念の言葉が聞こえてくることはなかった。




