エルシャダイの鏡
中庭に出るには、少なくとも何処かで一旦城の中に入らなければならない。
通路があるならばその限りではないが、過度な期待は持たない方が良いだろう。
同じ通り道を使って王都に来たイシスは、一体どのようなルートを通って神の元へと行ったのだろうか。
少なくとも、言えるのは。
自分たちが潜入したことが、神の眷属に発覚したのだ。どのような道を選んだとしても、順風満帆にはいかないであろうということだ。
セーフェルは戦えない。自分が、護ってやらなければいけないのだ。
イルは大剣を握り直した。
「……救世主」
複雑な面持ちのまま歩んでいると、セーフェルが声を掛けてきた。
「彼なら、大丈夫だよ。何故かな、そんな予感がするんだ」
「……ああ」
イルは頷いた。
ゼノヴィアは自信満々だった。きっと破れかぶれな思いで足止めを買って出たわけではないのだろうと、信じたかった。
ジルディエールのようにはならないと──思いたかった。
「──ほう。これはまた、随分と小さなお客様じゃのう」
「!」
考え事をしていて、周囲に対する注意が散漫になっていたせいか。唐突に前方から掛けられた声に、イルはびくっとして反射的に身を縮込まらせた。
行く手に、1人の老人が佇んでいる。杖をつき、柔和な笑みを浮かべた黒服の男だ。
彼は、イルの胸元に掛けられたペンダントに興味津々な様子で、豊かな顎鬚を揺らした。
「御主が下げている、マグスの星は……そうか。通りでラルヴァンダードから音沙汰がないわけじゃわい」
「……神の眷属!」
イルは大剣を構え、セーフェルを護るように1歩前に出た。
そんな彼の様子を目にしてもなお、グシュナサフはイルに向ける孫を見るような眼差しをやめることはなかった。
「元気が良いのう。儂は、元気が良い子供は好きじゃ」
手にした杖の先端を持ち上げて、くるりと弧を描く。
「可愛い騎士に、相応の誠意を持ってお応えせねばの」
──ぶわっ、と何かが低い唸り音を立ててグシュナサフの背後から湧き上がった。
黒い靄のようなそれは、意思を持っているかのように渦を巻きながら宙を飛び回り、イルの横を通り過ぎて、そこに立っていたセーフェルに頭から覆い被さった。
「セーフェル!」
「……!」
悲鳴を上げかけたセーフェルの声が消える。
黒い靄はセーフェルを飲み込んだ後、先程と同じように宙に舞い上がり、そのまま遠くの空へと飛び去っていってしまった。方向的に、イルたちが目指していた塔があるようだが──
「エルシャダイの鏡。御主らが『ドミヌスの写本』と呼ぶあれは、元はといえば我らが王の所有物じゃ。返してもらいますぞ」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどおらんよ。御主があれからどういった話を聞いているのかは、儂は知らんがの。あれは王から生まれた王の影身のようなものなのじゃ。それを御主たちが、ドミヌスの写本と呼んでいるだけのこと。最初から、何ひとつ嘘は申しておらん」
セーフェルが、神だけの力であるドミヌスを完璧に模写していた理由。
それが、彼が神当人から生み出された存在であるからだとしたら。
「残念ながら、御主に継承されたドミヌスは、儂にどうこうできるような代物ではないでの。この場では、儂は御主にどうすることもできん」
グシュナサフは、杖を下ろして1歩身を引いた。
「空の写本だけを回収して、この場は退散するとしようかのう」
逃げられる!
弾かれたように、イルは大剣を振り上げてグシュナサフに突進した。
剣先を斜めに振り下ろす──が、それは腰の曲がった老人とは思えないフットワークで後退したグシュナサフに避けられてしまった。
そのままグシュナサフは外套の裾をマントのように翻し、全身を数多の羽虫のような姿に変えて、その場から飛び立つ。
呆然とするイルを嘲笑うかのように、塔へ向かって去っていった。
「……くそ……っ!」
がしゃん、と大剣を地面に叩きつけて、イルは歯噛みした。
自分が護るって、決意してたのに──
いざ脅威を前に何もできなかった自分の無力さに腹立たしさすら感じ、乱暴に髪を掻き毟ったのだった。




