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行軍

 悲鳴から一転して罵声が響き、その辺にある物を手当たり次第に掴んで投げつけたような音が響く。

 重い物が落ちる音と、水桶をひっくり返したかのような水音が辺りを満たす。

 むわっと漂ってくる、濃く生臭い血の臭い。

 べたついた空気の存在にイルは戦慄し、こっそりと身構えた右手に、得物である巨大剣を喚び出した。

 そんな彼を、ゼノヴィアはあくまで冷静に掌で制する。

 静かになるまで動くな、と唇が声なき声を紡いで2人に指示を出した。

 現在、中では自我を失ったジルディエールが暴れているのだろう。彼女の視界内に入ったが最後、彼女は3人のことまで獲物と見なして襲い掛かってくる。

 無用な混乱を避けるためにも──この騒ぎを聞きつけて何処からともなく沸いて出るであろう衛兵に見つかるのを避けるためにも、今は動くわけにはいかないのだ。

 そうしていたのは、5分ほどだろうか。

 声が消えて、水の中を何かが引き摺られていく音だけが響き、現場に静寂が戻った。

 ゼノヴィアの顔を見るセーフェル。それにゼノヴィアは応えて、顎で戸口をしゃくった。

 穏やかな雰囲気に包まれていたであろう厨房は、もはやその面影など何処にも残ってはいなかった。

 辺り一面に夥しい量の血が飛んで、肉片が貼り付いている。

 先程からしていた水音は、床を埋め尽くした血溜まりを踏んでいた音か。滅茶苦茶に全身を捻じ曲げられた料理人と思わしき人物の死体が、あちこちから骨と臓物を食み出させながら作業台と棚の間に挟まるようにして転がっている。それも1人分ではない。

 此処にいた料理人は全員、ジルディエールの手によって殺されてしまったようだ。

 ジルディエールの姿は此処にはない。更に奥にある戸口から、外へと出て行ったらしい。

「…… ……」

 胃の辺りが疼く感覚に、イルは思わず左手で自らの口元を覆った。

 たまたま流しの辺りに這わせた視線が、料理人のものと思わしき潰されて脳漿を飛び散らせた頭部を捉えて、更に顔を顰める。

 グリモワールの力とは……こうも簡単に、生き物をモノみたく壊す威力があるものなのか。

 それ以上の力を秘めたドミヌスという力を己が継承していることを自覚し直すと、背筋の辺りがぶるりと震えた。

 間違っても、味方に向けてはいけない、やみくもに使ってはいけない力だ。何と危険な代物を、この身は背負ってしまったのか。

 上手く扱えないからと甘えたことは言っていられない、と胸中で自身に言い聞かせた。

「……派手にやったね」

 イルよりかは随分と冷静に、辺りを見回してセーフェルが感想を述べる。

 法衣の裾をたくし上げて血溜まりに踏み込みながら、足早に厨房を横切って戸口の方へと向かった。

「見つからないうちに行こう。……ぼくたちは、何処に行けばいいんだい?」

「──此処から1階に出て、そのまま一旦庭の方に出る。城の中は騒ぎになってるだろうからな。警備が手薄になる外の方から回って、中庭に行くぜ」

 ジルディエールは、上手いこと騒動を大きくしながら城内を移動しているようだ。ゼノヴィアの話では普段は徘徊しているはずの見回りの衛兵の姿も、現在は傍にはひとつもなかった。

 廊下から難なく階段へと辿り着き、そこから地上へと出る。

 バロック建築には当たり前の、左右対称の構造をした造りが美しい、まさに城といった雰囲気を讃えた廊下だ。壁に設置された燭台も、飾り棚も、埃ひとつなく綺麗に磨かれている。

 絨毯の色に紛れてうっすらとしか見えないが、女性のものと思わしき細く小さな靴跡が血痕になって廊下の向こうへと続いていた。

 此処にも人影がないのは、ジルディエールが此処を通っていったからなのだろう。

「こっちだ」

 ゼノヴィアは2人を連れて廊下を横切り、数多く並んでいるバルコニーのひとつから、柵を乗り越えて外へと出た。

 身長の都合で柵を乗り越えられないセーフェルを担ぎ上げて外に出し、続けてイルも外へと出る。

 庭は、よく手入れをされた花壇や樹木が等間隔に並んだ綺麗な庭だった。こういう状況下でなければ、じっくりと日光浴を兼ねて散策したくなる場所だ。

 適度に物陰があり、城内から身を隠しながら進むには不自由のなさそうな造りである。

「……ジルが衛兵の目を集め続けるにも限度がある。あいつが時間を稼いでるうちになるべく先に進むぞ」

 城内を1度だけ見返して、ゼノヴィアは庭のある方向を指し示す。

 彼が指先を向けた先──建物の壁に隠れるようにして、遠くの空に、背の高い塔のような建築物が建っている様子が見えた。

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