賢者の苦悩
ホルミスダスは、人前で破顔することを滅多にしない人物だった。
常時笑顔を絶やさぬグシュナサフ、そもそも賢者としての自覚が全くないラルヴァンダードと比較すると、3人の中では彼が最もマグスらしいと言える。実際、3賢者をよく知る者たちの間ではそのように囁かれていた。
しかし今は、その厳格な壮年の男の面も困惑の色に染まっている。
もっとも、その珍しいとされる表情を見る者は今この場にはいなかったが。
彼が生涯の殆どを過ごしてきたこの部屋は、乳白色の壁一面を同色の本棚に覆われた薄暗い部屋だった。本棚自体が部屋の壁を構成しているのではないかと思えるほど扉以外の部分をぎっちりと覆っており、隙間が全くない。部屋自体に窓がないのだから、本棚を敷き詰める意図に異を唱える者もいないわけなのだが。
そんな外界を遮断するような造りの室内を照らす照明は、部屋の中央に置かれたテーブルの上に設置されている釣鐘型のガラス細工が発する山吹色の光だけである。
簡易的な照明器具のように見えるが、実はこの細工物には全く意味はない。本来の光源──グリモワールの光球を生んだ者が趣味でこのように誂えたらしい。
昔から、そうだ。ラルヴァンダードは意味もなく偶像を愛する趣味があった──
そして事あるごとに、ヴェゼヴィーユに説教されていた。ノヴリージェの教を何よりも重んじるエルシャダイの使徒とは犬猿の仲らしく、よく口論になっている場面を目撃したものだ。
そのヴェゼヴィーユは、目の前で喉元に手を当てて何度も深呼吸を繰り返している。
現世で1、2を争う美貌を持つと言われる顔も、表情が歪んでいては魅力が台無しだった。
「随分と衰弱しているではありませんか。エルシャダイの剣ともあろう御方が」
「…………」
ヴェゼヴィーユは伏せていた目線を持ち上げ、ちらり、とホルミスダスを見た。
グシュナサフと服装が全く同じなのは、これがマグスのみが着用を許される賢者の法衣だからである。しかし老賢者が黒であるのに対し、こちらは緑を基調としており、胸元に輝くペンダントの色も異なっている。
色がそれぞれ違うのは、色自体が彼らを表す一種の象徴であるからだ。グシュナサフが黒、ホルミスダスが緑、そしてラルヴァンダードが白──ただしラルヴァンダードが法衣を身に着けている姿を見たことは1度もなかったが。
「公務も大切なのでしょうが、貴方の本分はノヴリージェ様の護衛。まさか忘れたわけではありませんでしょうな」
忘れるものか。
胸中でヴェゼヴィーユは呟いた。
そうだ、決して忘れることはない。あの時の、殺されかけた瞬間に味わった屈辱は。
例え王の力で蘇生したとはいえ、失われたものは完璧には戻らないのだ。
長い年月をかけて築き上げてきたものが崩壊した時、再度それを元の形に直すには最初に費やしたのと同じだけの時間と労力が必要となる。自分を殺そうとしたあの者に見せつけることはもはや叶わぬほどの、途方もない時間と労力が。
掌中の筆を腹いせに折りたくなる怒りを抑え付け、ゆっくりと息を吐き、ヴェゼヴィーユは卓上に散乱した紙を掻き集めた。
これまでに彼が書いた城内の見取り図と、衛兵の配置図である。
紙をまとめてひとつの束にする。
それと同時に、扉が開いた。
入ってきたのはグシュナサフと、もう1人──漆黒のドレスの女。口を真一文字に結び、何処となく肩を尖らせている。顔の方に表情はないが、ひょっとしたら怒っているのかもしれない──そう思える歩調でヴェゼヴィーユの背後まで来ると、彼の手からさっと見取り図を取り上げた。
「……何をする、クラ……」
振り向くヴェゼヴィーユ。しかしその後の言葉は形にならなかった。指先で唇を押さえられたためだ。
指を突きつけた格好のまま、クラウディアは見取り図の内容を確認し始めた。
ホルミスダスは、普段通りの気難しげな顔で静かに席に着いている。
グシュナサフは、相も変らぬにこにことした微笑を浮かべて事の成り行きを眺めている。
「ヴェゼヴィーユ」
と。唐突にクラウディアは執事の名を呼んだ。
彼の唇を押さえていた指先を離し、それで紙面を撫でながら、
「父上からの言伝です。己を殺すのは必ずしも良と限らぬ、と」
「……父上が?」
「これは私からの提言ですが……貴方は、しばらく役目を離れて静養しなさい」
「……!?」
ヴェゼヴィーユの顔が驚愕の色に染まる。
目を見開いて席を立つが、特にそれをどうとすることもなくクラウディアは淡々と続けた。
「ノヴリージェ様の護衛は私と、サーベラスとで担当します」
「サーベラス……正気か、クラウディア!? エルシャダイの使徒が背負うべき重大な任を、一介の庭師などに……」
「サーベラスは王都が誇る番犬です。それを推して彼を庭師に任命したのは他ならぬ貴方なのではなくて?」
ぐ、とヴェゼヴィーユが呻くのが聞こえた。事実を指摘されては反論のしようがないのだろう。
それが例え予想できた反応だったとしても、実際に目にすると滑稽だったらしく、クラウディアは珍しく口元を綻ばせた。
相手の吐息が肌に感じられるほどに自らの顔を近づけて、悪戯を告げるかの如く声を潜め、
「……彼を任に指名したのは、私の独断ですが」
紅い唇をちろりと舐め、そのままそれをヴェゼヴィーユの唇に押し付けた。
熟れた果実のような、瑞々しく柔らかい感触。唇の隙間を縫って入ってきた彼女の舌が、生き物のように彼の舌に絡み付いてくる。
見目麗しい男女2人が交わす口付けは、傍目から見ていても1枚の絵画のように美しい構図である。
これが普通の口付けであったなら、それで終わりだったのだろうが──
急に、ヴェゼヴィーユの全身から力が抜けた。足下に引っ張られるように、すとん、と垂直に身を落とし、そのまま前に倒れる。
ぶつかった椅子が派手な音を立ててひっくり返り、悲鳴が上がった。
ヴェゼヴィーユの身辺の世話を理由に部屋の外にいたアイリスが声の主らしい。昏倒したまま動かない執事の名を呼びながら、彼の傍に駆け寄ってくる。
「強引ですな」
「彼は基本的に、父上の言葉以外は呑まない性分です。多少ならば、問題はありません」
肩を竦めるホルミスダスに、見取り図を渡してクラウディアは言った。
ヴェゼヴィーユを昏倒させたのは紛れもなく彼女だが、特に悪びれた風もなく、足下の彼とそれを介抱しようとしているアイリスの背中を見下ろしている。
神の眷属の中には、グリモワールの能力以外に個人特有の能力を持っている者がいる。
クラウディアの場合はこれがそうだった。相手の精気を奪い取る能力──異性を誘惑し、全てを吸い尽くす夢魔のように──彼女の口付けは媚薬であり、また毒薬でもあるのだ。悪い例え方をするなら、1度味わえば2度と手離すことのできない究極の麻薬のような。
しかし、ヴェゼヴィーユは彼女の虜となることはないだろう。元々クラウディアにその気はない上に、そもそも彼女が彼から吸った精気の量は、爪の先ほどにも満たない微々たる量のものだったからだ。
「ホルミスダス。グシュナサフ。後は貴方たちに一任します」
「やれやれ……この老いぼれに肉体労働をさせるとは。クラウディア様もなかなか酷なことを申されまする」
とは言いつつもやはり笑顔を崩さぬグシュナサフ。
全く、とその後をホルミスダスが続ける。
「この大事な時に平然と部屋を空けるラルヴァンダードは……若気の至り程度で済むことではない。帰ったら説教のひとつもしてやらねば気が治まらん。
彼は深々と、誰が見てもそうと分かる溜め息をついた。




