1 逃げ回ろうと
首都・平安の夜道は暗い。
欧米の文化が九州最西端から流れて早3年。それでもまだ大和の国は、夜道を照らすという異国の習慣に馴染めずにいた。あるのは軒先のLED提灯。仄かな揺らめきは人工のものだが、この暖かみのある色は100年間愛され続けてきた伝統品だ。
「はあっ・・・はあっ・・・」
鴨川に渡された橋の上。一人の男が駆けていた。
時刻は丑の刻。
軒を連ねる長屋の部屋明かりは消え、皆寝静まっているこの時間。外を彷徨く者は、帰りそこねの酔っぱらいだけだ。
「こ、こんなはずじゃあなかったのに!」
橋を渡り終え男は緩やかな坂道を全力で下る。
追われているという焦燥感が足を急かし声を震わせる。
彼は小さな袋を自らの子を守るかのように抱き、細い路地に身を躍らせる。提灯の明かりすらなく、道を照らすは上弦の月。心許ない暗がりも彼は構わず走り抜ける。
「はぁっ・・・っはぁ・・・あんの野郎、約束と違うじゃねえか!」
結論から言えば約束はただの一つも違っていない。では序論はどこからか。
はじまりは一本の電報だった。
日頃から裏で盗みの仕事を働いていた男、清治郎からすれば、何の気苦労もない遣いっ走りの依頼であった。
『建設中七条駅。箱。四条河原町駅へ』
愛想のない一文。
時刻も指定されず、正確な場所も記載されず。
ただ、清治郎には別に七条へ赴く用事があったので帰りに立ち寄ったのが子の刻。
人が払われた静かな煉瓦造りの駅内には一人の男がいた。
山高帽に二重廻しの黒い外套。中は小袖の着物に袴と手には傘。清治郎が写真で見たことのある西洋風の衣装そのものであった。
西の風を吹かせた男は清治郎に気がつくと革の靴を鳴り響かせながら傍らを通り抜ける。もちろん小箱と一両小判の詰まった袋を落としてしまうことを忘れずに。
清治郎は訝しんだが、袋の中を見て仰天。
怪しさなど忘れてすぐに駅を飛び出した。
清治郎の本業は盗みだ。猫ばばも考えたが依頼の電報が家に届いていた時点で身元は割れている。今後のやっかいごとを避けるためにも仕事をこなすことにした。
その終了間際に問題が発生したわけであるが、特に「あの野郎」こと洋服の男性が、清治郎の身の安全を保証してくれていたわけでもない。
つまり先程のあれは洋服の男への罵倒ではなく、彼の思い込み故のただの悪態である。
「糞っ!」
空き瓶の入った箱を蹴散らし、けたましい音を背後に残しながら相手のない罵倒を続ける。
発生した問題は至極単純、待ち伏せだった。
目的の駅の高架下に辿り着き、目深に帽子をかぶったスーツ姿の男と先程と同じ手順で小箱を渡した直後、一陣の風が吹いた。
風の正体は小柄な少女。淡く焦げた茶髪を短く結わえ馬の尾を思わせる高さで髪紐を揺らす。
スーツの男が自らの腰に差した長身の刀を抜き取るのに合わせて少女の体がぶれた。
ぎいぃん
男が風が起こした初撃を受け止める。鉄と鉄が軋む耳障りな音が響いてはじめて清治郎は襲撃を理解した。
一歩距離を置き、スーツの男と対峙するその姿は胴着に袴。田舎然とした風呂敷を背負い、雨も降らぬ夜道でつまらなそうに畳んだ蛇の目の傘を肩に傾かせている。
瞬間。
チリっ、と砂が鳴る音と共に少女の傘がしなる。左上段から片手で振り抜かれる和傘にスーツの男が対応する。左半身を一歩引き、その勢いのまま両足を浮かせ、少女の一閃を躱しきると同時に腰のひねりと共に両腕で上段から薙ぐ。常人からすれば驚異的な身体能力で成されたその一撃は、高々未成年の華奢な少女への攻撃としてはやりすぎなほどだろう。
しかし、日本刀の先は空を切り10尺ほど先の屑入れと地面を深く抉っただけだった。地を貫いた切っ先を引き抜こうとしたその時、刀の銅に重みが降りる。
少女が少し腰を屈めゆっくりと前のめりになり、銅を踏み込む。同時に手にした和傘をくるりと逆手にし、石突で男の喉を突いた。
どさりと膝をつき、倒れ伏そうとする男の胸元から小箱が零れる。少女は器用にそれを弾き、傘で跳ね上げ真上に飛ばす。
落下してきた箱をゆるりと開いた傘の軒で受け止めると、少女は静かに清治郎を見据えた。
清治郎は本能に従い、震える足を奮励し、踵を返して逃げ出した。
「嫌な予感はしてたんだ!!」
まだ秋のはじめだというのに首を撫でる風が嫌に冷たい。だが、衣擦れする服は冷や汗でびっしょりと重たい。
まだ少女の姿は見えないが確実に追ってきている。見えないからこそ恐ろしい。背後から迫る威圧感で足が縺れ転げそうになる。
倒れかける身体を腕で支え道の角を左に曲がる。
どんっ
何か柔らかいものに接触し、反動で体制が大きく崩れて尻餅をつく。
「ちっ」
思わず舌打ちが漏れ、相手を睨み付ける。
「いってて・・・」
そこには着物姿の美しい少女がいた。艶やかな赤の衣に、高いところで結われた長く茶色い髪が上品に垂れている。ぶつかった衝撃でか、下駄が片方脱げ、すらりとした色白の踝が覗く。
よろりと立ち上がった清治郎は少女に近づくと
「わっ」
魔が差した。とはこういうことだろう。
か弱く細い腕を引き立ち上がらせ、問答無用で小刀を喉元に突きつける。
そして目前の闇に向かって大声をあげた。
「ぉ、おい!今・・・お、俺に近づいてみろ・・・わ、わかる・・・な!!」
声が震えて、自分でもなんと言ったのかはっきりしなかったが、背後に迫っていた気配が立ち止まるのが分かった。
清治郎はそのまま少女を引き連れてそろりそろりと交代し始めたとき。
どこからか少年の声が届く。
「今時平安でも武器は刃物なのか?あきれるな」
「!?」
どこからかではない。ここからだ。
首を後ろにもたげ挑発的な目をする着物の少女が腕を組み、にやつく。
「え?は・・・?」
手にしていた小刀がいつの間にか消えていた。
代わりというように着物の人物の手には先程の袴の少女と色違いの和傘が握られていた。
「安心してくれよ。不殺が信念だ」
半回転させられた傘の朱が目に入った瞬間。
清治郎の意識は根こそぎ刈り取られた。
「お見事。弟様」
「ありがとう。妹殿」
慣れた皮肉を交わし合い、少年と少女は邂逅する。
「ついてるよ妹殿。小袋に金貨だ」
「それは下衆のすること・・・弟様」
「一理あるな、にしし」
小判の詰まった袋から一枚だけ抜き取り、口紐を結んで、白目をむく男の傍らに投げ捨てる。
少女の方もそっと近づき、小箱を仰向けの男の胸元に置く。
「まあ、働いてやったんだ。これぐらいは赦されるだろう?妹殿」
「一理ある」
少年は脱げた下駄を拾い上げ、もう一度つっかける。
「弟様。一つ聞いて良い?」
「いいぞ?」
「なんで、私金全部はたいて女装したの?」
少しの沈黙。
「似合うだろう?」
月がやけに綺麗だ。
少女は無言で頷いた。