青天 (二)
私なりに国主とはどうあるべきか考えてきた。
中国の古典の書物には驚かされる。二千年も昔に、君主とはどうあるべきか、将は兵とどう接すべきか、述べられている。その奥深さには感心させられる。人間の本質は変わらない。人間は機械ではない。情を忘れてはならない。過去も現在も同じだ。未来の人間も変わりはしないだろう。変わってほしくない。
父は暴君だった。国を治める者は、民を慈しむ心が不可欠だ。しかし、戦国乱世の時代ならば、父のやり方もまったくの誤りとは言いきれない。
祖先を同じくする者たちが互いに争い、親兄弟でさえ信じられなくなる世の中だ。古くはよそ者が甲斐を専横した時代もあった。力を落とした武田家だったが、父の代でようやく甲斐国内を平定し、盟主としての地位を確固たるものにした。対等を気取っていた者たちを屈伏させ、家臣に組み入れ、上下関係を明確にしたのだ。
国外では、南から今川氏、東から北条氏、西から諏方氏に攻め込まれても耐えてきた。その実績は尊敬に値する。
甲府の街並みをつくったのも父であり、世紀を超えて受け継がれている。武田信虎という人物が現れなかったら、未来は違った姿になっている。断言してもよい。
現時点で、今川、諏方とは同盟関係にある。北条は私と同年代の氏康殿が当主となられて日が浅く、しばらくは多方面でいくさをする余裕はあるまい。北の佐久はほぼ支配下にある。基盤はできあがっている。父から国を、家臣からは国主の座を用意してもらったとはいえ、これ以上の好機はないだろう。
やってみよう。国主になろう。父とは違う、理想の国を築いてみたい。無力な私がどこまでやれるのか、試してみたい。
一つ気になることがある。板垣の憎々しげな顔が浮かんでくるのだ。あいつの策略の手のうちにいるのかと思うと、すこし癪にさわる。
悩んだ末に決断した。日取りを決めてのちは、相続に関わる準備、代がわりを知らせる手配など、忙殺された。しかし、館内で見かける顔はみな晴々としていた。甲斐の国は変わる、という期待に満ちていた。
まず、着手しなければならないことは、今川殿への対応だ。こちらの状況はつかんでいるだろう。父のかんかんに怒っている姿が目に見えるようだ。甲斐に攻め込むべしと、つばを飛ばし、大声をはりあげているに違いない。義元殿には迷惑なこと。駿河での隠居をお願いし、費用の調整など、早急にかたづけなければならない。父が、甲斐への進撃の口実になってはならないのだ。
今川殿との交渉は思いのほか順調との報告を受けた。向こうにしても、血の気の多い横暴な君主が隣国を治めていては、枕を高くして眠れまい。私のような優男なら暴れることもないし、御しやすいと思うはず。今川殿が甲斐へ派兵したところで、うまく事が運ぶかわからないし、勝ったところで父との領地の分け前で一悶着、起きそうだ。となりの親子喧嘩に口をはさむだけ馬鹿らしいものはない。ともかく隠居の件は落ち着きそうだ。
問題は国内だ。私は試されることになる。国主にふさわしい人間かどうか。正念場だ。
六月下旬、天から万民に恵みがもたらされるという天恩日のこの日、御旗と楯無の御前にて、家督継承の儀を執り行った。私の精神は一つの門をくぐりぬけ、階段をのぼる。
御旗とは、後冷泉天皇より下賜されたと伝わる日章旗である。赤い日輪は、天下を一つにまとめ、静謐にせよという願いがこめられたものだろうか。
楯無の鎧は、甲斐源氏の祖、源義光公が着用されていたと伝わる甲冑である。平安朝に製作された大鎧という形式は古くさく、重厚である。楯無の名のとおり、矢も通さぬ霊験あらたかな鎧は、歩くことさえ苦痛で、馬上でしか用いられない。斬撃戦が主流の時代には、もはや骨董品にすぎなかった。
しかし、御旗楯無は武田家の象徴として、先祖代々相伝されてきた家宝である。気が引き締まる思いだ。
そして次なるは、武田家当主を披露する晴れの舞台。躑躅ヶ崎館の主殿に家臣が居並ぶ。
私が上座につくと一同頭を下げた。妙な気分だ。右手には板垣、甘利、そして譜代の家臣が、左手には弟の信繁、そして親族の者たちが列をなし、下座には足軽大将、奉行の面々が正面を向いている。
板垣がまず口を開き、経緯を簡単に説明した。
「皆の者、よく聞け。先代、信虎様は平生悪逆無道にして、人民への慈愛に欠けておられた。国を治める者はそれにふさわしい人物であらねばならぬ。世を乱し、不安をまき散らす者であるならば、その座を退いていただかねばならぬ。それが天道である。ゆえに、信虎様は駿河にて隠居されることとあいなった。青天輝く今日の日より、武田家の主は晴信様である。甲斐の国に末永く光をもたらしてくださるだろう。者ども、ひかえよ」
目の前の一団はいっせいに平伏した。彼らは単にその場に参列しただけのように感情が見えず、とても冷たく思えた。
一人、飯富兵部少輔虎昌は日に焼けたごつい顔をすこし上げていて、その上目づかいの白眼に侮蔑の色を見つけた。こいつになにができる、と疑っている目だ。彼もこのクーデターの共謀者だが、私に実力があるとは見ていない。
私もまた自分に対して同じ気持ちなのだ。
「突然のことで驚いたと思うが、実は私も驚いている」
思わず吹き出すような小さな笑い声が聞こえた。
「殿、」と板垣、そして甘利は私をたしなめたが、板垣の仰々しい前口上に辟易した私は茶化してやった。二人のしかめつらを横目で見ると、にやりと笑い、自分流につづけた。
「父にかわり、この甲斐の国を預かる。未熟者ゆえ、いろいろ至らぬところもあるかと思うが、ともに力を合わせ、良き国につくりあげていこうではないか。当座、一年ほどは出陣を極力ひかえる。ただし、他国から攻めてくれば別である。今は国内を磐石にすることが先決だと思うからだ。しばらくは民を休ませたい。毎年のいくさ、凶作と災害でだいぶこたえている。国の礎は民にある。民が疲れていては、国が疲れているのと同じこと。力を蓄え、人心を一新したいと私は思う」
異論はなさそうだ。額の汗をぬぐった。暑い。
「孫子の兵法に『彼を知り己を知れば百戦殆からず』という教えがある。皆も一度は聞いたことがあるだろう。彼、つまり敵を知るは言うに及ばず、我々の現時点での要は『己を知る』ことにあると考える。目前のいくさであれば、兵の能力を見極め、臨機応変の心構えをもって対処するが、平時であれば、己をじっくりと見つめ、長所、弱点を知り、知るにとどまらず、弱点を補う。それが『己を知る』ということだと思う」
一息ついて、つづけた。
「私は風通しをよくしたい。これまでは余計なことは言わないにかぎる、という風潮があったように思う。私は変えたい。思うところがあれば、十分に考えに考えて、できれば解決策もそえて上申せよ。意見を上にあげるがよい。私は聞く耳を持つ。風を起こし、この国を変えよう。甲斐を日の本一と言える国にしようではないか」
「兄上、まさか、天下を望まれているのですか」
どよめいた。信繁は親族衆筆頭として最前列に座し、不審そうに見つめていた。大言壮語を吐くとは、堅実な私らしくないと思ったのであろう。
「足利殿はわが先祖に恩義をかけていただいた御方。御恩を忘れては人とは言えない。あくまでも隣国に怯えずに暮らしていける国をつくりたいだけだ。天下取りは夢の夢。身のほどを知るべきである。まさに『己を知る』ということだ」
天下取り ― 妙に心に残る言葉だ。
しかし、私には関係ない。すくなくとも当時の私はそう考えていた。
ところで、信繁が公式の場で私を兄と呼ぶのは、このときが最後だった。以後、私を屋形様と呼び、一家臣としての筋目をとおした。
国主としての宣誓は、このへんで終わりにしよう。
「ここにひかえる板垣には職として内政、軍事にわたり統括してもらう。それ以外の職分はおいおい見直すことはあっても、当面、変えることはない。各自、持ち場の仕事に励んでほしい。皆の者、大儀である」
「これにて …… 」と板垣が退出を促そうとすると、しゃがれた声がさえぎった。
「駿河殿にもの申す」
「なんじゃ、」と板垣が横柄に返事をし、誰かと見れば、小畠山城守虎盛であった。
「晴信様に不服とは申さん。必ずや、国主として立派に務めを果たしてくださるだろう。だが、信虎様でなぜ悪い。他国へ締め出すにはあたらんと存ずる。甲斐の国をここまで築いてきたのは信虎様だ。信虎様だからこそ、今川、北条、諏方の者どもは一目置き、佐久、小県の兵も恐れをなしているのではないか。しかるに、晴信様はご経験がいかにも浅い。代がわりが知れたなら、反乱が起きるのは必定。北条だけでなく今川、諏方とて、この機を逃さずと攻め込んでくるやもしれず …… 」
「それゆえ、ここに集まりし我らが支えていくのではないか。わかりきったことだ」
「詭弁であろう。おぬしの本心は見え透いている。若殿を担いで、実権を握ろうとの魂胆ではないのか」
小畠はあごを引き、上目づかいで板垣を正視している。挑発的だ。
「無礼者が。足軽大将ふぜいがなにを言う」
「慇懃無礼とはおぬしのことだ。大方、おのれが信虎様をたぶらかした黒幕であろう」
「なんだと、言わせておけば」
板垣は苦虫をかみつぶしたような顔をして、怒りを露わにした。もっとも、いつでもそんな顔をしているが。身を乗りだした板垣を、甘利が押さえ、落ち着かせようとした。会見の場は荒れはじめていた。
「やめんか」
私は一呼吸し、天井を見ながら大きく息を吐いた。
「山城、そちの申しよう、よくわかる。わかるが、今となっては父上を呼びもどすことはできない。私が国主を宣言した以上、父を追い出した責めは私が負う。山城がもし父を慕い、駿河に行きたいというなら止めはしない」
私は座を見まわした。
「皆にも申し伝える。父上のもとに参りたい者は申し出よ。甲斐国内を無事、通過することを約束する。今川殿にも便宜をはかろう。いつでもよい、申し出るがいい」
小畠に向きなおり、「山城、できれば、そのほうには甲斐に残ってほしい。至らぬところがあれば言ってほしい。若輩者に力を貸してくれぬか。頼む」と頭を垂れた。
「もったいないお言葉にござります」と小畠は平伏した。しかし、心底はわからない。
組織は結束が大事だ。一枚岩なら難局も乗りきれるが、小石の山ならたやすく崩れる。異物はとりこむか、さもなくば排除するしかない。小畠のような人物は私には必要だ。ずけずけ言うところがいい。彼は私を貶めようとしているのではなく、武田家を中心とするこの小さな社会をより良いものにしたいという気持ちがある。だから、うれしいのだ。
小畠虎盛は遠江の出身で、彼の父とともに仕官した者だ。混乱した甲斐をしずめ、他国とわたりあう信虎に希望を託し、高名を得ようと、出世する場を求めてやってきた。私の生まれる前のことで、そのときの彼は八歳の子供だったそうだ。今では経験という油がのった猛者である。名前の「虎」の一字はわが父から与えられたもので、高く評価された証なのである。
小畠のほかにも、父の声望を頼りに甲斐に入国した者は多い。横田備中守高松は伊勢から、原美濃守虎胤は下総から、多田淡路守三八郎も美濃からやってきた。名も知らぬ小兵になると、かなりの数にのぼるのではないか。
新参者だが、腕を頼りに名をあげようと獅子奮迅に働く者たちなので、大事な戦力である。ただし、私を慕って集まったわけではなく、父を主人として集まってきた者たちだ。私にではない。
結局のところ、駿河に行きたいと申し出る武人はいなかった。父は隠居の身で、駿河に行ったところで、今川殿の被官になるしかない。父の下にはつけないのだ。
私の母、お北様にはいち早く事情を説明し、許しを乞うた。悲しむよりも私の家督相続を喜んでおられるように見受けられ、逆に発破をかけられた。父のもとに行かれるかどうか、たずねたところ、甲斐にとどまるということだった。おそばに仕えても邪魔に思われるだけと卑下されていた。
父が寵愛したお西様さえも断った。お西様は躑躅ヶ崎館の西曲輪に住まわれて、その名はあるが、武田家同族の今井信是の娘である。信是もまた幾度となく父に挑んでは撃破され、ついには降伏の貢ぎ物として、娘を差し出している。命乞いである。その後、お西様の兄、今井信元も兵を挙げ、籠城し、抵抗をつづけたが、十年ほど昔の天文元年には屈伏し、このときをもって、父は甲斐統一の最終仕上げを遂げている。
追放という今回の事件に対して、お西様は冷めていた。天罰とでも思っているのだろうか。
後世には、妊婦の腹を割いたなどと伝説化された。さすがに父が哀れに思えてくるが、和解する気はさらさらない。
さて、ひきつづき、譜代の重臣を残して軍議が行われた。今後の方策、喫緊の問題についてである。遊びほうけているわけにはいかないのだ。しかしながら、私には理解できない案件ばかりで、はじめのうちは問いただしていたが、たびたび中断させてしまい、また、自分の無知をさらけ出してしまうので、口を閉ざしてしまった。「よきにはからえ」という感じで、一等席にすわり、議論の進行を眺めるだけになり、情けない。
不意に下克上という言葉が脳裏をかすめる。
このときの室町幕府は細川氏やその奉行衆に牛耳られ、将軍職は形骸化していた。足利殿は自力で国を動かせないほどに落ちぶれてしまったのだ。実務から離れ、運用を部下に任せきりにすれば、部下の言いなりにならざるをえない。そして、利権を求めて争いがはじまり、衰えていく最悪のパターン。京の都を震源に、世の中はうごめいている。それなのに、あるべき姿がわからず身悶えしているかのようだ。波動が伝わってくる。
意識は飛び、耳はその機能を停止した。なにも聞こえてこない。
ようやく軍議が終わると祝いの席が設けられ、酌もされたが酒はうまくない。軍議は翌日だったかもしれないが、いずれにせよ、長い一日だった。早く、一人になりたい。
コオロギか、なにか鳴いている。それにしては早すぎる。耳鳴りなのか。今年、初めて耳にした、やさしくて消えいりそうな小さな音色、そして命。さびしげな、秋の気配を感じる夜だった。