青天 (一)
(天文十年)
天文十年の五月下旬、父は村上、諏方と共同戦線をはり、小県郡の海野棟綱を三方から攻めた。海野氏は古くから東信濃を支配してきた一族だが、昨今では村上氏におされ、退潮いちじるしい。村上氏は埴科郡を地盤とし、北信濃に勢力をおく古豪だ。清和源氏の血をひく。村上も、武田も、もとをたどれば同じ源である。
一昨年の海ノ口の落城を皮切りに、佐久郡の領国支配は順調に進んでいる。信濃の東の際をおさえたことになる。そして、次にねらうは西隣りの小県だ。欲望はつきることがない。
だが、父はここで手堅く出た。海野氏は力が落ちているとはいえ、簡単に勝てる相手ではない。そこで、村上と諏方の双方に誘いをかけ、圧倒的な戦力で囲いこむ作戦を選んだのだ。
理由はまだある。父は公言こそしないが、おそらく村上と諏方の戦力を恐れている。仮に武田だけで海野氏を倒したならば、村上、諏方のそれぞれの勢力圏と接することになり、彼らがだまっているはずがない。まして、佐久を怒濤のごとく進撃した武田軍に対して、神経をとがらせているに違いない。だからこそ、村上と諏方に分割統治を持ちかけたのだと思う。敵にまわしたくないのだ。
このいくさに私も出陣した。口をはさむことはない。弱い者は徹底的にむしりとられる。小県は草刈り場と化している。
海野棟綱に侵略者を追い返す力はなく、城を捨てた。
戦勝気分にわく本陣へ、諏方頼重殿が訪ねてこられたのは、海野逃亡の報告を受けて間もなかった。鎧を身にまとった貴公子はりりしく、頼もしい。諏方家当主としての気概に満ちている。格の違いを感じないではいられない。
私は自身の前途について想像すらできないし、自覚もない。頼重殿を見ているとうらやましくもあるが、遠い存在のように思えてくる。
頼重殿は床几に腰をおろし、父と話しはじめた。
私は空間的にも精神的にも距離をおいた。
「海野棟綱は上野に逃げ、上杉のもとへ身を寄せるはず。上杉が出てくると、またやっかいなことになりますな」
「そのときは婿殿にも加勢をお願いしようぞ」
「我らが手を組んでおれば、やすやすと手出しはしないでしょう。しかし、今年の梅雨は大雨つづきでまいりました。濡れねずみの大将にでもなった気分でござった」
用意された酒を酌みかわし、談笑している。
頼重殿は臑当についた泥はねが気になるようだ。馬は泥だらけだろう。いくさは近年まれにみる豪雨のなかで行われた。
私はその苦労話をすこし離れて聞いていた。
戦う前から勝ちは見えていた。弱りきった草食動物に三匹のハイエナが食らいつく。逃れるはずもない。これは恐ろしいことだ。立場が入れかわり、自分が食いちぎられる、そんな情景を思い描くと鳥肌が立ってくる。
「ところで、婿殿、禰々は達者か」
「いたって元気です」
「子はまだか」
「こればかりは、いくさのようにはまいりませぬ」
「男だとよいの」
「そうそう、晴信殿。たまには諏訪に遊びに来なさらんか。禰々もきっと喜びましょう」
頼重殿は話題を変えようと、私に話しかけてきた。
「まあ、そのうちに」
「聞いておりますぞ。平賀の化け物を討ちとった話。大手柄をあげたそうじゃないですか。ほかにも色々。禰々は晴信殿のことになると、自分のことのように自慢するものだから、ついついねたましくなってしまいますよ」
「私はなにも。働いたのは配下の者でして」
「似たようなもの。ご謙遜召さるな」
信繁はにやにや笑っている。
ちらと父を見れば、つまらなそうに酒を飲んでいる。
父の前で、海ノ口の話はやめてほしい。それに、あのときの作戦は子供じみていて、思いだすたびに恥ずかしくなる。
「諏訪の暮らしには慣れましたか」
「すっかり板についた感じで、裏方もよく仕切ってますよ」
「怖そうですね」
「さよう、さよう」
頼重殿は笑いながら、杯を置かれた。私は仏頂面だ。へらへらしていると、父から難癖をつけられそうで相好はくずさない。まわりを窺いながら、小さな声で話しかけた。
「あれはきっと父親似です」
頼重殿は吹き出した。ひざを打って、大笑いした。
「そのとおりかもしれん。これはおかしい。禰々に話したら、どんな顔をするか、見物だな。あははは」
笑いが止まらなくなった頼重殿を見て、すこし後悔した。彼女には母の記憶がない。もしかすると、母親から引き離された、にがい思い出は残っているかもしれないけれど。
「そういうことか。おっと、ずいぶんと長居をしてしまったようだ」
頼重殿は空模様を気にしながら立ち上がり、父に声をかけた。
「帰国の準備もありますので、これにて自陣にもどります。御父上殿、約定のこと、お忘れなく」と言い終えるや、私の肩をたたいた。
「わかっておる。村上にもあらためて使者を送る」と父は応じた。
頼重殿の最後の言葉、これが訪問の趣旨だったのだろう。
いくさの目的は領土の拡大である。それは経済力、軍事力の増強を意味する。国力が高まれば、他国から攻められることもなく、逆に攻めとり、ますます潤う。家臣は所領を与えられ、豊かになる。もっと豊かになりたいと、次も手柄をあげようと思うのだ。
しかし、その所領のなかで働く者たちはなにも変わらない。勝つ者と負ける者、富む者と貧する者、そして、ゼロサムゲームの世界とは無関係に、搾取されるだけの者たちがいる。欲のない人たち、素朴な人たち、心静かに生きていたい人たち、彼らは下層の世界におかれる。働いても働いても豊かにはなれない。生まれの違い、物欲や才覚の違い、なにが人間を区分けしてしまうのか。
いろいろあるかもしれないが、上の世界の人間は、下の世界の人間の労苦を意に介さないものだ。過去も、未来も、変わりはしない。
あとになって気づいたが、頼重殿のほめ言葉にとげが隠れていたと思えるのは考えすぎか。海ノ口城を落とせず、佐久攻略にもたついていれば、小県を武田と折半することもなかったはず。余計なことをしてくれたとでも思っているのではないか。
考えれば考えるほど、そう思えてくる。彼は、私の友人ではないのだから。
夕刻というわけでもないのに薄暗い。黒い雲のどこかでゴロゴロとうなっている。また一雨来そうだ。
「ぼやぼやするな。さっさとかたづけろ、馬鹿者が」
父の怒鳴り声に小姓たちはぴりぴりしている。私もどきっとする。血刀を持った父の姿がありはしないかと。
陣を引きはらう準備で忙しい。戦後の仕置きはほとんど終わり、将の配置や常駐する兵も決めている。細かい指示は部下に任せ、今日は前山の陣所に泊まる。
前山は北佐久への前線基地であり、板垣信方が城をかまえていた。今は他の者に城代を引き継いでいる。とはいえ、完全に平定したわけではなく、恭順を誓った者もいつまた蜂起するともかぎらない。佐久も小県も武田の地盤とするには時間がかかりそうだ。
翌朝、空は青く輝いている。
地に由来する物体のほとんどは、火であぶれば赤くなり、黒くなり、灰になるものだが、空は青くなるというのか。燃えるような青さだ。
ここから甲斐にもどるには、千曲川の源流をたどるように、川にそって南へ向かう。
六月、梅雨も明けて、夏の強い光を浴びながらの行軍は、それだけでぐったりする。歩いてつき従う者たちはもっとつらかろう。右手に見える八ヶ岳の青い山脈も熱気につつまれ、もやっとして薄らいでいる。
暑いからといって軽々しく不平を吐いてはいけない。昔の書にもあるとおり、将たる者は兵と苦楽をともにしなければならない。兵の心をつかまねば、兵は自分から進んで戦おうとはしない。前向きでない兵士ばかりでは、戦う前から負けている。持てる力の百パーセント、あるいはそれ以上の能力を出させるのが、将としての力量というものであろう。
国を治める者は、その上を行くのが理想である。まるで国主が存在しないかのように統治する。というより、民衆は統治されているとは考えもせずに生活する。これが最上である。たとえるなら太陽のごとく、頭上にあるときは誰にも見向きもされず、気にもとめられない。しかし、太陽はあまねく地上を照らしているのだ。曇りの日でも、雨の日でも。
父に語ったところで、なんになるだろう。馬鹿にされるだけだ。畢竟、父は真夏の太陽だ。ぎらぎらと照りつけ、汗をしぼりとる。天空で、大声で笑っているかのようだ。そして、前触れもなく雷を落とす。
海ノ口までくると甲斐は近い。千曲川は東に向きを変え、甲武信ヶ岳へつづいていくが、私たちはそのまま直進する。野辺山の高原を通りすぎ、峠を越えると、南アルプス北端の峰々が迎えてくれる。故郷へ帰って来たと気持ちが楽になる瞬間だ。
甲斐駒をはじめ、幾重にもつらなる見慣れた山々が甲斐の国を囲み、私たちを守っている。母親のふところに飛び込む幼子みたいに、私にとって安らげるところなのだ。ツバメが生まれた土地を忘れずに舞いもどり、巣作りにいそしむような安住の地としたい。
余談になるが、海ノ口という地名は、遠い昔、この地に湖があったことに由来するらしい。千曲川の東岸には小さな山のつらなりがあり、先年、いくさのあった海ノ口城はこの峰に築かれた山城だ。甲斐からの進入をくい止めるための要塞で、今は無用の長物である。
「あの話はどうなった」
「あの話とは?」
唐突に父から話しかけられ、なんのことかわからない。ぐずぐずしていると癇癪を起こすからたまらない。
「駿河行きの件だ。今川殿に万事学び、作法を身につけよと言いつけたではないか」
「その話ですか。ええ、考えてますよ」
正月のことだったか、最初に言われたときは冗談かと思っていた。とりあわなかったが、板垣信方が聞きつけて、「絶対に行ってはなりません。行ったら最後、二度と甲斐にはもどれませぬぞ」と忠告してくれた。
私はそれでもいいと思った。見聞を広めるのもよろしかろう。海も見てみたい。なにより修羅の道から逃れられる。心おだやかに暮らしたいものだ。しかし、平穏な生活を許してくれる世の中ではない。
甲府にもどると、しばらくは些事にかまけていた。
ときおり、頭に浮かぶのは駿河のこと。今川義元殿には姉が嫁いでいる。粗略に扱われはしないだろう。とはいうものの、裕福な暮らしは望まない。あるいは兵を与えられ、先陣を申しわたされるかもしれない。それは勘弁願いたい。くだらないことをあれこれ考えていた。
今日もまた平凡で退屈な日常がはじまるものと思っていた六月なかばの早朝。出仕の身じたくを整えていると、板垣信方と甘利虎泰が面会を請うていると小姓が伝えた。
また、あいつらか。うんざりだ。
父を廃して国主の座につくなんて、とんでもない。まず、父が承諾するはずがない。どうしようというのだ。
客間には二人が威儀を正してすわっている。
私も腰をおろし、板垣と目があうと、不機嫌さを隠さず言ってやった。
「朝っぱらから、なんの用だ」
「こたび、お屋形様には駿河にてご隠居していただくことになりました。つきましては、晴信様に …… 」
「ちょっと待て、どうしてそんなことになるんだ」
私は片ひざを立て、身をのりだした。信じられない。板垣は話をつづける。
「昨日、お屋形様は今川様のもとへ向かわれました。我らは国境に兵を置き、お屋形様を二度と甲斐に入れさせぬ所存です」
「ふざけるな。なんの権限があって、おまえたちが …… 」
「甲斐のためです」と甘利が口をはさむ。「いくさに次ぐいくさで民は苦しんでおります。作物のなりも悪いうえに、税の取り立ては厳しくなるばかり。天災つづきで田畑を捨てる者はあとを断ちません」
「そのような話、大なり小なり、どこでも同じであろう。この戦国乱世に無理な話ではないか」
「ならば、乱れた世を正せば、よろしいではありませんか。それがしどもは期待しているのです。信虎様は人望がありません」
「買いかぶられては困る。父ほどの力量は俺にはない」
「殿もおぼえておりましょう。お手打ちにされた者たちのこと、憤慨した奉行衆があまた他国へ出ていってしまったこと。誰もが恐れ、腫れ物にさわるがごとく、お屋形様の顔色、目の色をうかがっております。へたな物言いをすれば、首が飛びます。このままでよろしいのですか」
甘利の説得には熱意があり、甲斐を建て直そうとする思いには誠意がある。
「今が絶好の機会です。我らはあとには引けません」と甘利は脅迫めいて、せまってくる。拒めば、斬りつけてきそうなほどに気迫がこもっていた。
「しかし …… 」
私には判断ができない。突然すぎる。けれども、誠実さに対して、不誠実で応えるわけにはいかない。
「殿、甲斐の守護におなりください」と板垣も声高に言う。
「すこし考えさせてくれ」と答え、私を呼ぶ声を無視して自室に逃げた。
こんな所業が許されてよいものか。
まずは駒井と信繁の考えを聞いてみたい。
父は行動力旺盛だ。私が幼いころ、信濃の善光寺に参拝されたことが二度もある。国主が自国を留守にし、他国へ出かけるとは大胆不敵だが、おおらかな世の中だったのかもしれない。甲斐をまとめあげたという、ゆるぎない自信があればこそである。禰々が嫁いだときも、頼重殿が甲府に参られ、その返礼に父も諏訪を訪れた。隣国の内情視察の目的もあるのだろう。
今回の目的はなんだろう。気晴らしか。三歳になる孫と、娘の元気な姿でも見たくなったのか。甲斐では食することのできない新鮮な海の幸を楽しみたいのか。あるいは、山々に閉じられた世界を飛び出して、新しい景色を見たいと思ったのか。駿府には都から多くの文化人が訪れているのも魅力的だ。とにかく父は旅が好きだった。
ついでに、私を駿河に追いやるための受け入れを頼みに行ったのか。ありえる話だ。しかし、クーデターが起こるとは思ってもみなかっただろう。まさか、自分が追い出されるとは。
甲斐の南、河内と呼ぶ地域は、親族衆の穴山信友が治めている。ここに兵を置くということは、板垣らは穴山に調整済みとみていいだろう。おそらく、主だった者とは話がついている可能性がある。もしや、今川殿にも内密に。
知らなかったのは自分だけか。もし事前に聞いていれば、必ず反対する。私は国を治める器ではない。
駆けつけた駒井も信繁も追放劇を知らなかった。そもそも父の駿河行きを二人とも知らなかったのだ。父は信繁をかわいがっているが、信繁が私を立てていることを知っている。私に近い人間には告げず、旅に出るとはあやしい。魂胆あってのことか。まったくわからない。
しかし、事ここに至っては腹をすえるべきと駒井は言う。父を甲斐にもどしたなら、板垣、甘利の命はないし、私自身も首謀者と見なされ、弁明は聞き入れられないだろう。もはや、あとにはもどれない。不倶戴天、ともに同じ天をいただくことは絶対にできないのだ。