諏訪のわが友
(天文九年)
「子ができたら、父の名代で諏訪へ参ろう」
昨日は思い出話やら、嫁ぎ先のことやら、話はつきなかったのに、今日は言葉が見つからない。「元気で」と声をかけるくらい。
天文九年の十一月も終わるころ、禰々は輿に乗り、諏訪へ旅立った。侍女をひきつれ、兵に守られた一団は、ものものしくもきらびやかに出発した。引き渡しの使者の大役は板垣信方に任せた。
花嫁は多くを語らない。涙を流すばかり。
生まれ育ったこの土地に帰ることはもはやないし、会うこともこれきりかもしれない。
甲府と諏訪との距離はおよそ六十キロメートル。電車や車を使えば一時間で行き来できる近さだが、当時は馬と徒歩しか交通手段がなく、遠い道のりである。馬を乗り継げば半日で行ける。輿での移動となると、担いで歩く者たちの歩みは遅く、三日はかかるか。そのうえ、輿に乗るのも楽ではない。ゆらりゆられて、バランスをとりながら。それより苦労するのは担ぎ手か。
豪奢に飾りたてられた花嫁行列は、領民へのお披露目の意味もある。別れを惜しみながら、時間をかけてゆっくりと花婿のもとへ行く。
禰々にとって、これほどの長い旅路は初めてのこと。
そして、一生に一度のこと。達者で暮らせ。
この時代、武家の娘に結婚の自由はなかった。国主の娘ともなれば、遠く離れた国へ嫁ぐことは珍しくない。それは友好の証だが、人質でもある。多くは人質を送り送られ交換しあい、同盟の絆とする。いくさをしかけないと高らかに宣言するのと同じである。女性たちはその道具となり、会ったこともない男の妻となる。否応もなしにである。父が決めた、それだけで人生が決まる。選択の権利は与えられない。愛があろうがなかろうが関係ない。男子が誕生すれば後継者となりえる。自分の血を受け継ぐ者がその地の主となるのだ。期待はふくらむ。
しかし、人身御供となる女性たちにとっては、与えられた運命に身をゆだねるしかない。見知らぬ土地に送られ、夫婦仲はどうなるかわからず、後戻りもできない。電話もテレビもネットもない時代、頼るのは人伝えの話だけ。花嫁の不安はいかほどであろうか。禰々の幸せを願わずにはいられない。
三年前には、姉が今川義元殿に嫁入りした。もちろん、今川家との同盟強化のためである。しばらくは南からの脅威はなくなる。しかし、その約束は永続を保証していない。いつ、敵と味方にわかれるか、わからない。姉も妹もそのような危うい立場へ旅立った。それが女のいくさなのかもしれない。
同盟という対等な関係ならば、まだいいほうだ。いくさに敗れて、戦利品として強奪されることもある。
私の生まれる以前、父が甲斐国内の平定にしのぎを削っていたころ、甲斐源氏の血をひく、つまり武田の庶流になる、大井信達は父と覇権を争った。ところが、大井氏の後ろ楯になっていた今川氏が父と休戦協定をむすんでしまい、加勢を得られない大井信達は和睦するしか手はなかった。そして、恭順の証として自分の娘を差し出したのである。
その娘とは私の母、お北様であり、大井夫人とも呼ばれている。母はこころよく嫁いだとは思えない。最前まで敵だった相手なのだから。その後、今日に至るまで、愛を育まれたのだろうか。私は知らない。たずねたこともない。私に対する教育への熱意は、父への反発のように思えなくもない。あのような人間になってはならぬと。
禰々が嫁いだ翌月、返礼として諏方頼重殿が躑躅ヶ崎館へ参られた。
天文九年の十二月九日は、現代の一月上旬に相当する。どちらにせよ、遊山を楽しむような時節でもなく、今宵、宴にてもてなすにとどまる。頼重殿は明日にも早々にとんぼ返りされるそうだ。
父と頼重殿を上座にして、家臣らがお互いに見合うように列をなす。諏方家からは四名の家臣が頼重殿につきそわれていた。私は列の一番前の座につかされ、「お見知りおきのほどを」などと型どおりの挨拶をかわすが、居心地は悪い。
父は上機嫌であった。酒がまわり、頼重殿を相手に盛んに話しかけている。頼重殿のまわりには人が集まり、酒をついでは雑談に興じ、親睦を深めようとしている。
末席でも大声でまくしたてている者がいた。飯富兵部か。しかたのないやつ。
酒宴のもりあがるなかで私は孤独を感じた。私は長男であり、跡継ぎとなるべき立場にあるのだが、父に疎まれ、あやふやな位置にいる。家臣たちも父の目を恐れ、私に深入りしようとはしない。
私はここにいてはいけないように感じ、逃げ出したかったが、頼重殿には無礼になると思い、ぽつんと目の前の膳をつついていた。
父と頼重殿は初対面ではない。甲斐国内の掌握に目処がつきはじめていた当時、享禄の年号のころ、父はたびたび諏方の軍勢と合戦におよんだ。諏方の援軍を期待して反乱を起こした者たちもいたが、彼らを鎮圧すると、父の視線から諏訪がはずされることはなかった。先代の頼満殿が采配をふるっていた諏方勢には、勝っては負けての繰り返しで、雌雄を決することはできず、天文四年の九月に堺川を国境と定めた。その地に父と頼満殿が顔をあわせたのだが、このとき二十歳になる孫の頼重殿も陣頭にいた。
この和睦の会談に、神長の御宝鈴が鳴らされた。さなぎの鈴とも言い、鉄板を丸め、底をすこし広げたメガホン状の、長さ十数センチほどの鈴を数個、紐でつないだものである。諏訪の原始神ミシャグチ様に対して、誓いを立てる儀式なのだ。
父は神妙にして、響く音を聞いたであろう。特筆すべきは、この御宝鈴は諏訪の地より持ち出された前例がない。頼満殿が武田との和睦をどれほど大事に思っていたのか、気持ちがあらわれていた。
ところが、御宝鈴のありがたみを感じない、神罰も恐れないわが父は、一月もたたないうちに約束を反故にした。小競り合いが繰り返されたが、昨年の暮れに頼満殿が亡くなり、頼重殿が家督を相続すると、父は急接近したのである。
しかし、私には世の中の動きが空気のようにうわついていて、実感がまるでなかった。
「晴信殿、晴信殿、」
ふと、顔をあげると、頼重殿が笑みをたたえてすわっている。私は驚き、危うく声をあげそうになった。もし声を出していたなら、それこそ、父の物笑いの種になったであろう。
「禰々が言っておりましたぞ。いつもぼんやりしているお人だと」
「禰々がそんなことを。まったく、あいつったら。いや失礼、奥方にむかって」
「なんの」
二人して大笑いした。
「兄上とお呼びすべきですかな」
「それはよしてください。晴信で結構です」
「酒はいける口ですか。どうぞ」
頼重殿は私より五歳、年上である。そして、目鼻立ち涼しげな美丈夫である。しかし、力強さにはすこし欠ける気がする。
頼重殿は禰々の近況を話してくれた。婚礼の式はとどこおりなく進み、家臣やら客人やらの挨拶に追われ、気の休まるときがなかっただろうと。翌朝には諏訪大社上社を参拝し、諏訪湖のほとりを案内すると、この土地を気に入ってくれた様子だったという。
「今頃は一人でほっとしているでしょうね」と頼重殿は笑い、私は「くしゃみでもして、怒っているかもしれませんよ」と笑いあった。
よそよそしく感じられた頼重殿とすっかり打ち解けることができた。話しぶりから誠実さが感じられる。この人に禰々が嫁いでよかった。そして、私に似ているとも思った。父や家臣の誰よりも私に近い人と思われたのだ。禰々を幸せにしてくれるだろう。
「外の空気にあたりませんか」
頼重殿に誘われた。
喧騒から離れて、廊下に立つと、冷気がしんしんと凍みてくる。夜空は晴れわたり、ふくらみかけた上弦の月の、その光は冴えている。照らしだされた庭を見ている頼重殿もまた、月の光を浴びている。
背が高い。ほっそりとした体つきは武人というよりも、神官であり、まさに大祝、その人である。
「我に体なし、祝を以て体となす」という諏訪大社の縁起のままに、幼少の男子が神の依代となる。山鳩色の狩り衣を身にまとった童子は、神長の祭祀により神が降ろされ、生き神へと変わる。
このときの頼重殿はすでにその地位を後進にゆずられている。元来、大祝は諏訪の地より出ることは許されず、軍人として外征するにはその職分が妨げになるのだ。
「寒いですな。もっとも、諏訪とくらべれば、大したことはない。むこうは雪景色ですから」と話を切り出され、向きなおり、目があうと、声には力がこもっていた。
「ところで、晴信殿。お願いしたいことがある」
私の心は一歩ひいた。なにを言われるのか。
「すゞをもらってくれないか」
「すず?」
「わしの娘だ。前の妻との間にできた子で、まだ十歳だから、当分、先の話にはなるが。いかがか」
思いもかけぬ願いごとに仰天した。
「いえいえ、私には三条という妻がおります。それはできぬ相談です」
「側室でよい。晴信殿は側室をお持ちではなかろう」
「そうですが、三条に不満はありませんし、別段、ほしいとは思いません」
「律儀な人だ。それとも、お公家さんに頭が上がらないのかな」
頼重殿の口元は笑っている。からかわれているのだろうか。
「そんなことは …… 」
「だからこそ、晴信殿にお願いしたい。きっと、すゞを大事にしてくれるだろう。実はの」
頼重殿は顔を近づけ、小声で話した。
「信虎殿につつかれて困っているのだ」
「父上が?」
頼重殿の声はさらに小さくなった。
「禰々を差し出したのだから、そちらも質を出すべきだろう、とな。しかし、わしよりも年上の御仁に渡すのは不憫だし、あの性格だろう。すゞが哀れだ。晴信殿なら申し分ない。こたび、甲斐へ参ったのも、そなたに会って確かめたかったからなのだ」
あのくそ親父め。禰々を嫁がせたのは、そういう魂胆だったのか。前妻の小見の方は大層な美人と聞く。そして、器量よしの頼重殿との子である。うわさを耳にしたことはあるが、まだ子供ではないか。うわさがうわさを呼んでいる、それだけにすぎないのではないか。しかし、頼重殿の言うとおり、その子が哀れだ。だからといって、私の側室というのもどうかと思う。
「どうだろう、よろしいか」
「はぁ」と生返事をしただけでなにも言えなかった。
「すゞを頼みますよ。さぁて、問題は大虎殿にどう切り出すかだ。もどりましょう。くれぐれもよろしく頼みますぞ」
了解したとも言えぬ返事をするばかり。父の機嫌の悪そうな表情が浮かんでくる。
側室か、まんざらでもない。三条にはどう伝えようか。近々ということでもないし、二転三転する可能性もある。黙っていよう。
私は席にもどる気にはなれず、自邸へさがった。
この婚儀の意味あいが読めてきた。頼重殿の人となりを見て、思った。
この人は不安なのだ。先代の頼満殿は四方の敵と戦いぬき、「諏方氏中興の祖」とまで言われた人だ。その頼満殿が亡くなり、当主として独り立ちしたばかり。まわりは気心の知れぬ隣人たちばかりだ。
諏訪下社の大祝を輩出してきた金刺の一党は、一度は頼満殿に追われ、甲斐へ逃げてきた者もいたが、下諏訪の火はくすぶっている。分家筋の高遠頼継も、嫡流を回復しようと諏訪の南の高みから虎視眈々とねらっている。信濃守護職の小笠原もどう動くかわからない。
頼重殿は武田と同盟を組むことで対抗しようとしている。わが父が後ろでにらみをきかせているからには、金刺も高遠もうかつに攻め込もうとはしないだろう。境界線を定め、侵犯しないという取り決めだけを求めているわけではない。頼重殿の立場が察せられた。
同盟を維持するには、父の要求にある程度は飲まざるをえない、苦しい立場なのだろう。小見の方を側室にせず、離別したのも、武田一筋という意思表示であり、父の目を気にしているからではないか。それにしてもだ。
それにしても、今夜は冷える。獣も鳥も鳴くことを忘れ、凍えていることだろう。
静かだ。饗宴はつづいているに違いない。月は沈もうとしている。私も眠る。
「今日一日、富士は拝めそうにないな。でも、甲斐から見る富士はいい。来た甲斐があったよ、晴信殿。いずれまたお会いいたそう」
朝早く、頼重殿は諏訪へ帰られた。馬上の人になられると、意味ありげな目つきで別れの挨拶をされて。
私には心を許す友がいない。気のおけない人物といえば、駒井くらいなものだろう。しかし、彼は年配だし、相談相手といった感じであり、父にも私にもへだてなく接してくれる人だが、親友ではない。
甲斐という国のなかで最高の地位にある者の息子となると、私と同い年であっても、年上であっても、身分は下になり、対等の関係は望めない。誰もが私にへりくだる。ただし、心のうちはわからない。私を馬鹿にしている者もいるだろう。
頼重殿一行の姿は小さくなる。
春はまだ遠く、風は冷たく、手足はかじかむ。灰色がかった厚い雲は青空をあますところなく覆い隠し、心の晴れない朝だった。
天気は西からくずれてくる。