悪鬼
(天文五年)
天文五年の三月、十六歳の私は元服した。
一族、家臣に見守られるなかで執り行われ、京の都より下向された幕府の勅使が烏帽子親として私の頭に烏帽子をつけてくだされた。そして、公方足利義晴殿の「晴」の一字を賜り、名を武田晴信と改める。申し遅れたが、それまでは太郎という通り名で呼ばれていた。
年の初めには従五位下に叙任され、そして元服のこの日、左京大夫の官職をいただいた。これもひとえに父が朝廷と幕府に多大な献金と貢ぎ物を納めたからであり、父には感謝しなければならない。
しかし、私には官位など、なんの意味も感じられないが、武家社会の人間は誰しもありがたがる。官位が高いほど敬われ、なければ見くだされる。多くの者がその価値を信じている以上、その神輿に乗らなければならず、また利用すべきものだと思う。朝廷は金欲しさに官位を与え、また自らの存在意義と権威を高めるための手段としている。律令制度が崩壊し、意味が消え失せてしまった代物に我々は翻弄されている。なんと馬鹿げたことか。
いつの世も肩書はついてまわるものだが、人とは見栄をはる、卑しき生き物だ。その卑しさが世の中を動かす力となっている。
七月には、転法輪三条公頼殿の姫君が私の正室となるべく、はるばる都から従者をひきつれ、甲斐へ来てくだされた。
公家との縁組みは、父にとって誉れであった。源氏の血をひくとはいえ、それは遠い昔のこと。今では田舎武士もいいところ。宮中では歯牙にもかけぬであろう。この輿入れは、今川家がとりもってくれた。
一年前のちょうど七月、父は駿河に兵を進めた。今川家の若き当主、氏輝殿に対して、芽は早いうちに摘みとっておくべきと考えたのであろうか。国境の万沢口で合戦となった。ところが、相模の北条から横槍を入れられて、八月には撤退した。今川と同盟関係にある北条の軍勢は須走口から甲斐に進撃し、対応にあたった部隊は大敗北を喫したうえに、叔父が戦死している。父の腸は憎悪の念で煮えくりかえっていたに違いない。過去にも両国から散々打ちのめされてきたのだから。
今川は駿河と遠江をほぼ領有し、三河進出を目論んでいたから、甲斐との戦いは避けたいところ。富士の山際から、魔王のごとく、にらみつけられてはおちおち出陣もできない。そこで、公家の娘を世話して、武田との和睦をはかったのだ。父は申し出に応じた。
偏諱も嫁も、父のおかげであり、私に対する期待のあらわれと言っていい。
しかし、私は父が嫌いだ。
世間では父が私を嫌い、いびりつくしていると受けとっている。しかも、私はかいがいしく父に仕えていると。これは正しくない。
父が私を嫌いなのではない。私が父を嫌っているのだ。
父の名は武田信虎という。祖父信縄が病没し、父が家督を継いだのは弱冠十四歳のとき。若年にて武田家総領と甲斐守護職の地位を手にしたのだ。このとき、父の叔父にあたる油川信恵が反旗を翻した。
油川は以前にも兄弟間で祖父と反目しあっていたが、戦いに敗れ、身をひいた。潜めていたと言ったほうが正しい。
兄弟関係は油断のならないものだと歴史は伝える。源頼朝と義経、足利尊氏と直義、ひもとけばぞろぞろ出てくるだろう。恐ろしくもあり、おもしろくもある。人間は愚かだが、興味深い。こんな馬鹿な生き物は人間しかいない。しかし、なぜ人はいがみあい、殺しあうのか。
祖父が亡くなると、絶好の機会と見て、油川信恵は父の陣営に挑んだ。
少年だった父はこの争いに勝ち、油川とそれにくみする者たちを粛清した。父一人の力で勝ったというより、祖父に忠実だった家臣が父をもりたて、ある者は指揮をとり、多くの者が前線で活躍したのだろう。
その後も、国内では反乱が絶えることはなく、今川、北条が国境を侵すことはたびたびで、いくさに明け暮れる毎日。私が十歳をすぎたころには、国内はほぼ平定された。
それゆえ、私は血なまぐさい生活や、殺す殺されるという切羽詰まった、この世の厳しい現実からすこし離れて生きていた。
父はといえば、餓鬼大将がそのまま一国一城の主となったようなもので、精神は未熟で、学問、教養はものたりない。戦国の荒野に放たれた虎の子は、虎のまま成長した。
言いかたは適切ではないかもしれないが、心の貧しい青春時代をすごした父にとって、その反動なのか、文化的生活、貴族的生活に憧れていたようだ。
今川と和睦したのちは、そのつてを頼り、都で名の知れた歌人を招いては歌会を催していた。歌をつくる技量は疑わしいが、雅びな世界にひたり、世間にも見せつけ、ご満悦であったろう。
私はたまにしか同席しなかった。興行的な感じがうさんくさく、好きにはなれなかった。父も私がいることを好まなかったと断言していい。武の世界ではなんの功績もないけれど、文の世界では私に引け目を感じていると思われたからだ。
父にかぎらず、軍事的に余裕のある領主ともなると、風流に酔う者は多い。
母方の祖父、大井信達は父以上に歌会を開き、子供らも和歌に秀でていた。他人から一目置かれるようになるには、教養も必要で、武力だけでは野人に等しく、軽蔑される。尊敬されるためには文人的側面も必要なのだ。
しかし、これは両刃の剣で、文の世界を深めるほど、武は弱まる。強大な権力を持ったところで、その子孫に至っては弱体化していくものだ。歴史は多くの例証を残している。そして、新たな野人が立ち上がり、世の中を動かしていく。むしろ、世界を変えるには新しい血が必要なのかもしれない。血筋を尊ぶことは、ひびわれたコンクリートの橋を使いつづけることと同じ。パテ埋めして繕ってみても、崩れる日が来ないとはかぎらない。
父と私をくらべてみても、武から文へと衰亡の流れが垣間見える。流れに乗るつもりは毛頭ないが、力強さがたりないことは自分自身がよくわかっている。
戦国の世を生き残ることができるのか、不安でならない。
話はそれるが、この年の駿河はゆれていた。私が元服した三月に、こともあろうに当主たる今川氏輝殿が亡くなったのだ。享年二十四。入水自殺とも取り沙汰されているが、今川家は黙して語らない。私はすこし気にかけている。
彼の父、氏親公は中御門家の娘を妻とした。伯母も正親町三条家に嫁ぎ、都人となられた。氏輝殿もまた、名のある公卿の姫君を迎えたいと考えていたであろう。ある意味、勲章であり、花である。
私と同い年、十六歳のわが妻は、もしや、氏輝殿の縁談のお相手だったのでは。
待ち望んでいた西方の一美人を、和睦のえさとして武田にくれてやることに同意しなければならなかったのか。病弱と聞くが、怒りに手がふるえていたのではなかろうか。
彼女に問うたことがある。しかし、口を濁してしまい、それ以上、追求はしなかった。
氏輝殿は歌会となると水を得た魚のごとく生き生きとされていたそうだが、まつりごとは好まなかったらしい。ないがしろにされてばかりでは、世をはかなむのも無理はない。
奇妙なことに彼の弟、彦五郎も同日に亡くなっている。推測するに、不慮の事故に遭遇し、兄を救おうとして、ともに溺れ死んだものか。それとも、邪魔者として消されたのか。
真相はわからずじまいだが、これを契機に、残った弟たちの間で家督争いが生じ、領内全土を二分する内戦に突入した。のちに僧から還俗する義元殿が、側室腹の兄を倒し、国主の座を手に入れている。この年の六月のことだ。
どこもかしこも血塗られた話に満ちていて、私も憂いに沈んでしまう。
ところで、父は昔から私を嫌っていたわけではない。幼いころはかわいがってくれた。ときにはきつい言葉もかけられたが、もともと性格が荒っぽいから、とりたてて嫌われていたということはなかったと思う。しかし、私はしだいに父から遠ざかった。
カマキリにちょっかいを出して遊んだ子供のころ、指をはさまれた。痛くて泣いた。カマキリを摘まみとろうとすると、前足をぎりぎりはさみつけ、抵抗する。
「痛い、痛い」と泣いた。見かけた父は「踏み殺してしまえ、弱虫が」とののしる。母は「じっとしてなさい」と言う。しばらくすると、カマキリは力をゆるめ、離れた。父はあきれた顔で引っこんだ。私は泣きべそである。
外を出歩くと、道ばたに車にひかれたカマキリを見かけることがある。
踏みつぶされたカマキリはその直前まで車から逃げようとはしなかった。小さい体で、羽根をひろげ、鎌を持ちあげ、逆三角形の顔をそむけることもなく、巨大な車に身構える。この虫は不思議な生き物だ。恐怖という感情を知らない。自分の体の十倍、百倍あろうとも恐れない。大きさを把握できないのだろう。逃げるより先に戦いを選ぶ。
その心意気はたたえても、やはりむなしく悲しい。
蟷螂の斧にさえかなわない非力な私は、どうやって生きていけばよいのだろう。今になって思うのは、世の中の流れ、運命には抗えないものなのか。
立ちはだかるもの、それは私にとって父でもあった。
父は厳しかった。それは期待の裏返しであって、甲斐国主の後継者としてふさわしい人間になってほしいと願っていたからだと思う。しかし、厳しければ厳しいほど、反感は高まった。弟の信繁を引きあいにされては、なじられた。
私は反抗的になり、暴れたり悪さをしたりすることはなかったが、わざとできないふりをした。父の期待を踏みにじる行為をした。弓の練習も、父のいる前ではまとをはずしてばかりいた。馬に乗ろうとすれば、乗りそこねて背中から落っこちたりもした。汚れた服のまま父の御前に出たこともある。家臣の居並ぶ前で礼儀知らずのまねもした。父の叱責は私にとっての満足であった。
父はわかっている。私が故意にやっていることを。
父は怒り、私は軽蔑した。お互いにエスカレートし、父の怒りは常のこととなり、私を見れば罵倒した。
父はいくさにしろ、政治にしろ、なにしろ荒々しい。当時、明という国が支配していた、中国の先人の話を持ちだし、理屈で言い負かそうとすると、父はぶち切れた。
甘っちょろい。たしかに、私はなまやさしいと思う。現実もわかっていない。戦場の恐ろしさも知らず、生きぬく強さもない。知識だけの張りぼてになにができるというのか。
けれども、否定こそしないが、父のやり方も正しいとは思えない。
今川家で御家騒動があったことは前に述べたとおりだが、この争いに加担し、敗れ、甲斐に逃れてきた福島の残党を、かくまった者がいた。父は一族もろとも成敗した。この仕置きに激怒した奉行衆は甲斐を去っていった。こんな君主のもとではやっていけないという思いだったのだろう。
いくさも多い。戦争好きかと言いたくなるほどだ。しかし、国内の不満を解消し、衆人を一つにまとめるには、外へと拡大するのは方便である。ただし、民は疲弊し、殺される者は必ず出る。不具者も出る。いつかは自分の番がやってくるロシアンルーレット、誰もが怯えている。
しかも、この数年、飢饉がつづいている。なのに、増税はエンドレスだ。父への怨嗟の声は高まっていると聞く。駒井もどうしたものかと思案はしても、策はない。
父の暴走は止まらない。楯突く者はいない。私一人、口論を吹っかけたところで、実績のない身の上、相手にされない。
「ひねりあげていかなければ、まとまりはしない。人間なんてそんなものだ」と父はすごむ。
戦争で培った知恵かもしれないが、私にはさびしい。
和をもって貴しと為す ― そのような国がつくれないものだろうか。理想で、はるかに理想にすぎないかもしれないが、築いてみたい。父の言うことも一面は正しい。人間の根本は悪であり、教化しなければならない。おそらく、父自身も。
父と私は境遇にしても、考え方にしても、すべてにおいて違っているが、父から受け継いだと言えるものがある。それは頑固な性格だ。父と私は意地をはりあった。まわりの者は心配している。このままですむのか。
(天文九年)
ともかくも良好とは言えない親子関係は大きな波風を立てずに、自分なりには取り繕ってきたわけだが、しかし私は成熟し、父は老いていくという現実がある。時の流れが気まずさを微妙に変えていったようだ。
弟の信繁も心配してくれる。父とのわだかまりを解消してほしいと。父から歩み寄るのは絶対に無理。私のほうから合わせるべきだと信繁は言う。
「へつらう気はない。間違いは間違いと言うだけだ。信繁、おまえこそ、跡を継げばいい。俺は身をひく。父上様のご機嫌とりなんてまっぴらだ」
「兄者をさしおき、家督を継ぐなど考えにもよらぬこと。なにかしら方策がありましょう」
「ないな。僧にでもなったほうがよいかもしれぬ。学問の道を究めたい。西行法師のように諸国を渡り歩くのもいい。野垂れ死ぬのもまた風流だ」
「なにを言われます」
「二十歳にもなって、ただ飯食らいのていたらくだから、お笑いだよ。しかしな、気がかりなのは三条と太郎だ。とくに、三条は京の都からここまでやってきて、一人にさせるのは、突きはなすようでつらい」
夫婦となって、はや四年がすぎた。子もできた。それなのに、私はどれだけ変わったというのか。
「どうしたものかなあ。自分だけ気楽に生きようというのもなんだしなあ」
「冗談はやめてください。それでは、どうしてもだめですか」
「だめだな。もっとも、親父殿が死んだら考えるよ」
信繁は眉をひそめた。彼は父に気に入られているし、私のように楯突いたりはしない。父の言うとおり、私よりまさっているところもある。文武両道で、肝もすわり、適任だと思う。
さて、私はどこに身を落ち着けるべきであろうか。
もしかしたら、そこにいると邪魔だ、という程度のことを父から言われたのかもしれないが、記憶が定かではない。だが、父を亡き者にしようと心を動かしたことは、酒くさい息さえもおぼえている。天文九年のできごとだった。
甘利備前守虎泰という人物がいた。家臣のなかでは一つ抜きんでた存在で、古株である。多言を弄することもなく、剣豪としての落ち着きと真摯な態度には信頼をおいている。
信繁とともに、甘利に剣術の指南を受けていたときのこと。甘利との実力差ははなはだしく、幼子のように手玉にとられてしまうのが常だった。彼は厳しいが、教え方は親切でていねいだ。彼に向かって木刀を振りまわし、ぶつけあっていると、心が無になり、澄んだ気持ちになっていく。剣の道は精神修養、心の道であり、人殺しの修羅の道とは違う。彼との稽古は嫌いではなかった。
そこへ、木刀のたたきあう音を聞きつけてか、父が足どり重くやってきた。
昼間から酒を飲んでいるようだ。
甘利は一礼する。
私は気づかぬふりをして、ひたすら甘利へ向かっていく。
父は床几に腰をおろし、眺めている。
「なんだ、その腰つきは。風で飛ばされるぞ」
「へたくそ」
「信繁、おまえがかわりに稽古をつけてやれ」
「蹴鞠のわざでも磨いたらどうだ」
後ろから盛んにやじを投げてくる。うるさい。
そのとき、甘利の一撃を受けとめられず、木刀を落としてしまった。
「実戦なら、おまえは死んでるぞ。情けないやつ。武士には向いてないのかもしれんな。坊主にでもなればいい」
私は木刀を拾い、父へ一歩近づき、稽古を申し出た。
「父上、お相手を」
「なにを」
父の赤らめた顔に埋もれる、濁った目がぎょろりと動いた。
若、兄者、と後ろから諫められるが、私は聞く耳を持たない。
「ご教授、お願いいたします」
「なんだと。ならば、真剣でいたそうか」
父はゆっくりと立ち上がった。それを見て、私は静かに答えた。
「承知しました」
「ふざけたことを。人を斬ったこともないくせに、よくもぬけぬけと。ならば、斬ってやるわ。備前、刀を貸せ」
上等じゃないか。
手始めに父から斬ってご覧にいれよう。
人生の門出にふさわしい。望むところだ。
こっちだって、頭に血がのぼっているんだ。
のどまで出かかるのを理性でおさえた。悪逆の人といえども、父である。
「お屋形、おやめくだされ。若殿もひかえなされ」
甘利は私の前に出ると、ひざをつき、事を治めようとした。
私はひくつもりはない。
しらふならいざ知らず、こんな酔っぱらい、負けるものか、たたっ切ってやる。
父は刀を求めて足を踏み出したが、足元がおぼつかなくなっているのを見逃さなかった。
私は無言でにらみつけたまま、木刀を捨てた。カランと音をたてた。
信繁は泣きそうな顔で説得する。父はつづける。
「どれほどの馬鹿者を手打ちにしたかわからんが、まさか自分の息子にまで手をかけようとは思わなんだ。度胸だけはほめてやる。今日のところはこのくらいにしておくわ。だがな、晴信、」
父は私を一瞥し、捨てぜりふを残して立ち去った。
「生きてるだけで邪魔なんだよ」
私は激怒するどころか、高まった気持ちがすうっとしぼんでしまった。立ちつくしたまま、心はへたりこんだ。そのまま地の底へ沈んでいきそうに、重く、重く、鉛玉のように支えきれず落ちていった。
邪魔者か、生きているだけで。必要のない人間なのか。
この一件は、すぐにうわさになり、横暴な父を相手に堂々、斬りあいを申し出たと話題になったらしい。世間がどう思おうと気にはしない。そんなことより、私の心は鐘の音のごとく鳴り響いていた。
生きているだけで ……
生きているだけで ……