要害散歩
(天文三年)
鬼鹿毛の墓をつくったことは、遅かれ早かれ、父の知るところとなるだろう。なおさら不快に感じるに違いない。承知のうえだ。
さて、時はさかのぼる。ときおり、私は山歩きに出かけたものだ。禰々が七歳くらいだったろうか。私の行動に興味をもったみたいで、いつもの山歩きについてきたことがあった。まだ春浅い日のできごとだった。
赤い小袖を着た禰々は歌を口ずさみ、落ちていたヤツデの葉っぱを手にとって、くるくるまわしはじめた。木立のなかをぬって歩く。
ちょっとした山登りだ。屋敷の北側には山がせまり、すぐに急な登りがはじまる。山といってもたいして大きな山でもないので、すぐにゆるやかな登りくだりの連続になる。峰よりも西側に山道があり、東側はもちろん、西側も木が生い茂り、景色はほとんど見えない。ときどき見えてもそこもまた山である。日差しはほとんど届かず、冷気が体をつつみこみ、ほてった体に心地よい。
しばらくすると水場にたどり着いた。ちろちろと流れる沢の水をすくいとり、のどを潤す。禰々もまねして水を飲む。
「こんなに高いところなのに、なんで水が出てくるの」と不思議そうにたずねた。さらに上のほうを指さして、「てっぺんはあそこで終わりでしょ」
「たぶん、木が水を蓄えて、すこしずつ分けてくれるんだよ」
「ふーん。そうなんだ」
なんだか納得したようだ。実のところ、私にもよくわからないのだが。
「みんな、ありがとう ― 」
だしぬけに禰々が叫んだ。すると一陣の風が吹き、木々の葉をゆらし、山がざわめいた。
「天狗かな」
そうつぶやくと、禰々は持っていたヤツデの葉を振り捨てて、私にしがみついた。
「大丈夫だよ。もし天狗なら、きっと、どういたしましてって言いにきたんだよ」
「ほんと?」
「ほんとうさ」
禰々はこわごわ見上げて、天狗をさがした。目を大きく見開き、きらきら輝かせて。しかし、見つけることはできなかった。私にはたくさんの木が見つめているような気がした。
禰々の大声には不意打ちをくらわされたけれど、天狗も驚いたに違いない。そう思うと愉快であった。天狗の驚いた姿を想像するのもわるくない。
禰々には、悪いことをすると天狗につれていかれるぞ、とからかったものだ。ただ、あまりしつこく言うと泣きだすので、薬のさじ加減は必要だが。
じっとしていると寒くなってきた。尾根づたいに沿った道である。西斜面にあるため、日陰になっているのだ。
「さぁ、歩こう」
歩きながら、私は考えていた。天狗が現れるとき、世は乱れる。逆かもしれない。世が乱れるから、天狗が現れるのか。どちらだろう。
鎌倉幕府が滅亡するとき、前兆として天狗が現れては世を惑わしたという。とはいえ、そのほとんどは盗人や人さらいなど、人の手によるものだろう。世の乱れに乗じて、あるいは食う物に困って、はたまた支配者への鬱憤晴らしか。ともかく、まつりごとが機能しなくなっていることを示している。それより昔には鬼が暴れたそうだ。これも同族か。
現在も同じ。まともな世の中なんてありはしない。そもそも誰が良し悪しを判別するのか。ふんぞりかえる人間か、虐げられた人たちか。らちもない。
考えながら歩いていると、石や木の根につまずいてころびかねない。気をつけよう。
さきほどまで騒いでいた禰々も、登りがつづくと、口数が少なくなった。
「疲れたか。帰ろうか」と声をかけたが、「平気、平気」と言って、私の前を歩くのだ。
禰々は負けず嫌いであった。そんな禰々が私は好きだった。
山道のわきにはカタクリやスミレの花の咲くところもある。しかし、まだ時期が早く、木々も眠りからさめず、うらさびしい。
歩いているその先には、要害山と呼ぶ山城がある。そこが目的地だ。
さらに北には標高二千メートル級の山々がつづき、東には奥多摩の山が、北西には遠く離れて八ヶ岳の峰が、南西には南アルプスの山脈がそびえる。南には御坂山塊に山裾を隠した富士の山がひかえている。
山また山であるが、天然の城壁となり、心理的な防波堤となっている。国境を暗黙のうちにつくり、我々を守っている。おのずから人の出入りは、山にふさがれていないところや峠道となる。
そのような場所には川が流れているものだ。西の甲斐駒ヶ岳からは釜無川が、北の甲武信ヶ岳からは笛吹川が流れ、二つの川がまじわり、富士川と名を改め、はるか南の駿河湾へそそいでいる。山々からは幾多の小さな川が現れ、これらの川に合流する。
川のそばには田が潤う。甲斐は山国ゆえ、平地は少ない。米の生産量も少ない。人も養えないから、兵力も劣る。結果的に国力は高くない。しかも、大風、洪水、日照り、人間の力ではどうすることもできない悪天候に悩まされている。餓死する者も多い。
それでも、一つの国として生きのびているのは、山に守られているからだ。自嘲的に言えば、魅力のとぼしい土地柄ということもある。
時の経過とともに世の中は変わる。景色も、人の心も、変わってしまう。しかし、五百年近くたつというのに山の姿はほとんど変わらない。「私」をつないでくれる唯一の存在である。
足を止めて振り向くと、南アルプスの一角、白根三山が雪をいただく姿を見せている。前衛の黒い山々に隠れて頭しか見えないが、右から北岳、間ノ岳、農鳥岳が空に溶けそうな青い色をして鎮座している。さらに左には赤石山系の名峰がならぶのだが判然としない。
右手には鳳凰山、甲斐駒ヶ岳とつづいていくが、私たちのいる山と同じように立ちのぼる手前の山に邪魔される。そこにも湯村山城という山城が配されている。
北岳は尖端をのぞかせているばかりだが、この山は富士山に次ぐ、日本第二の高峰だ。当時は知るよしもない。まして名も与えられていない。そも、富士が日本一の高さを誇るとは知りようもない。間ノ岳はゆるやかな稜線を描き、横綱のよう。農鳥岳は二つの頂きがごつごつとして遠目にもわかる。
ここからだと白根三山のうちでもっとも姿を大きく見せている農鳥岳の、この頂上に立てば、甲府の町を見おろすことができるだろう。いつの日か登ってみたいものだ。
ところで、私と禰々は兄妹ではあるが、母は違う。父は色好みで、私の母を正室として、ほかに側室を何人もかかえていた。数える気はしない。節度のなさに家臣のなかにはあきれる者もいると聞く。人のことを言えた義理ではないが、当然、兄弟姉妹も多く、のちに生まれる者も含めると二十人くらいになる。
禰々の母は、処罰された者の娘という理由で離縁させられ、禰々とは無理やり引き離された。
幼い禰々は毎日のように、「母上、母上、」と泣きあかし、哀れを誘い、それゆえ、私の母が禰々の母親代わりとなり、世話をやいていた。
そのような境遇なものだから、私も肩入れしてしまいがちになる。
貝合わせをそばで見ていたときのこと。私は目配せして、ちょっと違うかな、それそれ、みたいな目をして禰々に教えてあげたことがあった。
貝合わせという遊びは、蛤の貝殻を二つに離した、三六〇個の組合せの片方をならべ、形、色あい、大きさから、提示された貝殻と同じ片割れを見つけるゲームである。一対の貝殻の裏側には、源氏物語などを題材にした同じ絵が描かれていて、金箔を用いるものもあり、豪華な遊び道具である。
禰々より年下の、のちに信廉と名のる、弟の孫六は幼すぎて要領がわからず、禰々が喜んでいるのを尻目にずるいと言ったきり、すねてしまった。
孫六、ごめん。
母は屋敷の北曲輪を住まいとされていたため、「お北様」と呼ばれていた。信心深く、教育熱心な母である。私に学問や礼儀作法を身につけさせようと、長禅寺という禅寺へ毎日のようにつれていかれたのは八歳のころという話だが、おぼえてはいない。禰々もそのような母上に見守られて育ったのだ。
歩きはじめて一刻ほど、実際には二時間もかからず、要害山城の本丸につく。その手前には不動明王の石像がまつられている。
「にらんでて、いや」
禰々はその場を離れようと私をせかした。
「不動明王という仏様は、顔は怖いけど、心はとってもやさしいんだよ。仏の教えを信じない、どうしようもない人間を見捨てはしないで、左手に羂索という縄を持っているけど、それで捕まえて、無理やり仏道に帰依させるんだ。すべての人間を救ってあげたいと思っていて、そのやさしさの裏返しなんだよ。怖い顔をしているのは、言うことを聞かない連中を叱りつけ、どんなことがあっても逃げ出そうとしない、お不動様の強い意志をあらわしているものなんだ」
「へぇー」と禰々は近づいて、目をぱちぱちさせて見つめている。
「母上の受け売りなんだけどね」
禰々は私に顔を向けると、すこし考えてから、こう言った。
「それなら、兄上はやさしいお顔だから、心はこわいのかな」
「禰々はおもしろいことを言うんだね」
私はおかしくて腹を抱えてしまった。涙が出そうなくらいに。禰々と一緒にいるのは楽しい。気持ちをなごませてくれる。
禰々に不動明王の話をしたのは、このときではなかったかもしれない。
後々、思い返してみると、なにげないこの一言は鋭くついている。
私の五体のどこかに邪心が隠れている。禰々はそれを見抜いたというわけではなく、気まぐれに言ったまでだと思う。だが、私の心の底には泥がたまっている。くさいにおいを放つ泥が。いつのまに生まれたのだろう。減ることはない。ふえつづけ、積みかさなっていく。かき混ぜれば泥水のように濁ってしまう。
私だけではないはずだ。
人は皆、邪悪な種を宿している。それは年々育っていく。悪の花を咲かすのも本人しだい。しかし、それを摘みとり、対峙するのも人の心なのだ。
そうだ。人は、仮面をつけた、鬼。
本丸に近づくにつれ、城につめている兵とすれ違うようになる。彼らは私に道をゆずり、ひざまずく。そして、後ろからついてくる珍しい客人に驚き、また一様に笑みを浮かべてくれた。
番所の木戸をぬけると、そこが要害山城の本丸だ。
頂上を平らに削り、周囲を土塁で高くもりあげ、あるいはくりぬき、守りを固めている。奥行きは数十メートルもあり、かなりの人数を収容できる。
しかし、基本的には非常時の城である。大軍で攻められたら、ひとたまりもない。兵も万一に備えているので、軍事訓練を兼ねた最小限度の人数を割りあてている。
この城は私の生まれた前年に築かれた。さらにその前の年には、ふもとに屋敷を造営した。躑躅ヶ崎の館という。
この館の主人である父は、屋形様と呼ばれている。
父は石和からこの地へ移り、甲斐の府、つまり行政機関をおいた。屋敷の南側のひらけた地域に町を興し、寺を建てた。そして、家臣の屋敷もつくり、強制的に人々を住まわせた。
ありていに言えば、人質を要求したのだ。これは主従関係を明確に示すことになり、一族の代表という立場を大きく踏み越えたものである。各地に盤踞する領主たちは、その多くが甲斐源氏の流れをくむ者だが、父の有無を言わせぬ対応に反発し、反乱も起きたが鎮圧され、今日の甲府の町がある。
父の強力なリーダーシップと行動力には感服せざるをえない。言葉を変えれば、強引で無神経な人間である。民は苛政を恐れ、憂えたという。それほどまでに激しい性格の持ち主だった。
私にはとてもまねはできない。協調関係を維持することと集団を導くことは相反する性質のように思える。私はおとなしすぎて、ひかえめなのである。
そして、町と躑躅ヶ崎館の北の守りとして、要害山の城が用意された。
大永元年十一月三日、私はこの城内で生まれたという。その年の秋、駿河を治める今川氏の武将、福島正成の率いる兵が甲斐に乱入した。富田城を落とされ、あわてた父は身重の母を要害山へ避難させた。その後、形勢は逆転し、私は生まれた。屋形様の男子誕生の報は、軍勢の士気を大いに高めたそうだ。さらに大勝利を収め、福島一門を多数討ちとり、今川勢を追いはらった。
この勝ちいくさにちなみ、私は勝千代という幼名を与えられた。もちろん、そのときの記憶はあるはずもないが、感慨深いものはある。たとえるなら、小鳥が巣にもどるような安らぎを得られるところ、という感じか。屋敷は針の筵だから、などと言ったら大袈裟か。冗談でも笑えない。
待てよ、ここは正確には屋敷の東北にあたる。陰陽道では鬼が出入りし、不吉と信じられている方角だ。鬼門封じの城とも言える。私はその鬼門から現れたことになるではないか。迷信だと笑い飛ばしても、人に語ることは、はばかられる。鬼の子なんて。
「おや、姫様もご一緒ですか。ようこそ、おいでなされた。こちらへどうぞ。お疲れでしょう。これで汗を拭きなされませ」
懐紙を手渡してくれたのは、城主を任されている駒井昌頼だ。兵舎の前で、たき火にあたっているところに出くわした。彼はいつもほがらかに出迎えてくれる。一息入れている私たち二人に、白湯をすすめてくれた。
禰々はじっとしていられずにあたりを見まわし、うろついている。
要害山一帯は木が伐採されていて、見晴らしがいい。甲府の町と躑躅ヶ崎館も見える。
ここにくる理由の一つは駒井と雑談するためであって、下々の者のこと、作物の出来ぐあい、家臣の話、合戦の話、他国の状況、いろいろ聞かせてもらっている。私の情報源の一つである。禅寺での勉学もいいけれど、駒井の話は生きた知識で、ありがたかった。屋敷や町では、じかに話す機会もなく、ときどき出向いている。
もっとも、駒井はいつも要害山につめているわけではなく、城代を置いている。いくさになれば彼もまた武将として兵をまとめるが、平時は内政を見ている。事務職が専門だった。だから、城主といっても庁所にいることが多く、頻繁に顔をあわせているわけではない。
父より年上で、私にとって大好きなおじさんみたいな人だった。そして、数少ない頼りとする人物である。武辺一筋の勇ましい男や、がさつな者どもよりも、駒井のような人間のほうが私には親しみやすかった。のちに彼は剃髪し、高白斎と称することになる。
「えいっ、やぁ」
突然のかけ声に驚き、何事かと見れば、禰々が落ちていた棒切れを手にして、すぐそばの柱に向かって打ちつけていた。兵たちの真似事をしだしたのである。
かわいいものだ。しかし、危なっかしい。
「これは、これは、勇ましい姫君。ゆくすえ、楽しみなことですな」
すると、禰々は振り返り、声をかけた駒井を見つめ、「勝負、」と食ってかかりそうになった。私はそれを制止させたが、元気がよかったのはここまでだった。
私の横にすわり、じっとしていると目が閉じかかっている。
「禰々、帰ろう」
「お帰りはどうなされますか」と駒井がたずねた。
「積翠寺にくだって、馬を借りることにする」
「そのほうがよろしいでしょう」
禰々は眠たそうで立とうとしない。
「おんぶしてあげようか」と聞くと、うなずき、急に元気になった。現金なものだ。
駒井に挨拶し、山をくだる。ほどなく、兵たちが寝泊まりする根小屋が見えてくる。積翠寺はすぐ近くだ。ここからは馬の歩ける道が整備されている。私たちが歩いてきた山道は、巡回の兵が行き来するくらいの非常時の道なのだ。さらに東にぬける道もあり、万一の場合の逃げ道になる。
遠くでキジが鳴いた。
しばらくすると背中が重くなった。見れば、すっかり眠っている。禰々もずいぶん重たくなったものだ。
母上に叱られるかな。