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『山本勘助は実在したのか』 (真下家所蔵文書への疑義)

 作品の構想段階では、山本勘助を登場人物としてうまく使えないかと考え、『要害散歩』の章で存在をにおわせようとしました。現在のところ、私は軍師としての山本勘助を否定的に見ています。というより、蛇蝎のごとく嫌っています。


 本文では登場する場面がないということもあって無視していますが、『甲陽軍鑑』での勘助の活躍シーンはすべてうそくさく感じます。

 流れ者に築城の名手なんぞ、いるはずがありません。築城のプロになるには経験が重要で、耳学問で勤まる仕事とは思えません。経験を積むためには、一つの土地に根づき、支配層に認められる必要があります。しかし、西国や関東を渡り歩いたと言うわりには、武田領域外で勘助ゆかりの城の存在を聞いたことがありません。領域内でさえも伝説程度のものです。城主として城の管理を任された実績もありません。

 受けねらいの『甲陽軍鑑』に歴史家をはじめ、私たちは翻弄されてきたのではないでしょうか。


 もう一つ我慢ならないのが、勘助登用にあたっての信玄の対応です。

 信玄が当主になったばかりのころの武田家は、築城の技術者を必要としていた(そうです)。そこで、駿河で今川義元に認められずにくすぶっている勘助を、板垣信方が信玄に召し抱えるよう進言します。

 信玄は勘助を一目見るなり高く評価します。片目を失い、疵を負って手足も不自由、色も黒い、という醜男なのに名声があるのは、よほどの人物と見て、百貫文の約束を二百貫の知行に増やして採用します。

 これは結局のところ、信玄も今川義元も、外見で人を評価していて、二人とも同じ穴のむじなではないですか。『甲陽軍鑑』は信玄を賞揚しているどころか、信玄を愚弄しています。

 勘助を採用するなら、いくつか質問すればいい。というより、質問しなければ、いけません。城づくりの哲学、情熱を問いただせば、ペテン師のボロが出ます。即戦力の技術者を求めているのだから、見てくれよりも、実績が問われなければなりません。


『甲陽軍鑑』ではうさん臭い山本勘助ですが、実在を示す文書が発見されています。ただし、文書上の山本()()と『甲陽軍鑑』で活躍する山本()()が同じ人物かどうかはわかりません。つまり、二つの論点があります。

・山本菅助は実在するか (文書は本物か)

・実在するなら、『甲陽軍鑑』に記されたような高い地位にあったか (「菅助」と「勘助」は同一人物か)


 昭和四十四年に発見された「市河家文書」は、それまで架空の人物とされた山本勘助の実在を示すものとして、脚光を浴びました。文書の最後に、「猶可有山本菅助口上候」とあり、使者として赴いた山本菅助が書状の意を伝えると結んでいます。へたをすれば上杉に寝返りかねない、境界線上の市河氏への使者ですから、地位は高く、しかも信玄とじかに話をする人物と見えます。


 さらに、平成二十年に群馬県で「真下家所蔵文書」が発見されました。山本菅助宛て文書三通と、子孫宛て二通です。信玄自筆と見なされている書状が一通あり、軍事作戦の検討と小山田氏への見舞いを菅助に指示しています。私はこの自筆文書に不審の念をいだいています。


・書式が折紙おりがみ …… 信玄自筆とされる文書は竪紙たてがみが主で、信玄時代後半の武田家の文書もまた竪紙です。折紙とは竪紙を上下二つ折りにし、上半分から字を書きます。竪紙のほうが紙全体を使い、字が大きく、威厳が出てきます。本文書は弘治四年と見なされ、例外的な書き方になっていると思います。


・「晴信」の署名が小さい …… 折紙という書式のせいか、他の署名に比べて、小さく、弱々しく感じます。


花押かおうの向きが直立 …… 花押とは署名者を特定するために記号のようなものを図案化したものです。信玄の花押は、大雑把に表現すると、「月」の形に似ています。縦の二本の足のうち、左側は垂直に伸び、右側が外に開き気味で、全体的には左に傾いたような形になっています。ところが、本文書は左側も外に開き、直立しています。

 似たような文書を探しましたが、きわどいものもあって判断しづらいのですが、十点ほどあります。そのなかには、保存用に書状を写したものと思われるものがあります。また、偽書ではないかと思うものもあります。本物と思しき文書ですと、回木家文書(『山梨県史』県内文書957)と市川家文書(『山梨県史』県外文書1437)があります。とくに、前者は信玄の直筆のように見え、私としては分が悪いのですが、大局的には例外的な花押です。


・宛名に「との」を使用 …… 武田家に限らず、文書は身分によって体裁を変えます。高い身分には「殿」を使い、低い身分には「との」とひらがなで記します。「山本菅助との」では、まるで一兵卒の扱いです。もし誤りなら、失礼にあたります。


・「入」の筆の運び …… 信玄自筆文書では、「入」の字が大きく、特徴的です。一画目は直線状になりやすいようですが、本文書は丸まっています。また、二画目のはね方も丸くはねるのに対し、折れてはねています。折紙のせいで、スペースがなく、窮屈になっているのかもしれません。


 感覚的な見方にすぎませんが、きれいにまとまっているような気がします。信玄の字は乱筆と言えば語弊になりますが、荒っぽさがあり、一度書いたあとに追伸を小さく書き加える場合もあって、すこし汚い印象が強いです。清書しなおして、気力が落ちているのでしょうか。


 これだけの理由で偽書と断言できないかもしれませんが、私は疑っています。

 折紙にしたのも、字を小さくして、ぼろが出ないように企んだように思えてしまいます。

 ひらがなの「との」を使用したのも、「入」と同様に「殿」も信玄のくせのある字なので、「殿」を避けたのではと難癖つけたくなります。信玄自筆文書では「殿」の最後の右はらいが下に長く伸びます。そもそも武田家総領の地位にある人間が、「との」と記す相手に文書を書くのだろうか。

 身分の低い者に使う「との」は致命的だと私は思いますが、以前、これらの内容を山梨県立博物館にメールで質問したところ、海老沼氏からは偽書とまでは言えないという回答をいただきました。


 他の四点の文書は本物、もしくは本物の可能性が高いとは思います。ただし、『甲陽軍鑑』上の活躍を裏づけるものではありません。

 自筆文書とされる一点については、おそらくは江戸時代にベストセラーになった『甲陽軍鑑』にあやかり、同姓の人間が山本勘助の子孫だと偽るためにでっち上げた贋作ではないか。複数の文書をセットにして仕官先を探し、徳川家に近づいたのではないかと、うがった目で見てしまいます。

 江戸時代は身分が固定され、縁故のない人間にとっては、一発逆転のために先祖を祭り上げるしか方法がない時代です。私は山本勘助の子孫を名のる者を信用できません。

 ほとんど妄想になりますが、真田幸綱か重臣クラスの人物宛てのオリジナル文書(竪紙)をもとに、山本菅助宛てに偽造した文書ではないかと考えています。


「真下家所蔵文書」で、もう一つ興味深いのが永禄十一年の文書です。宛名が山本菅助殿となっており、二代目と見なされています。しかし、根拠を示す文書や説を私は知りません。『甲陽軍鑑』を鵜呑みにしているだけではないかと思います。

 菅助は永禄四年の川中島合戦で討ち死にしていない可能性が考えられ、大発見の文書ではないでしょうか。くわえて、菅助は勘助ほど年寄りではないと仮定することもできると思います。


 話が長くなりましたが、最初に紹介した「市河家文書」にもどります。

 この文書は問題ないとの見方が主流になっているようです。私としては、なんとか論破できないものかと考えていましたが、この文書と体裁がそっくりの文書を見つけて、愕然としました。

 三月九日付けの神長宛て「守矢家文書」(『山梨県史』県外文書1885)が、一見、同一文書ではないかと見まがうほどに似ています。しかも、内容はまったく異なります。これは、同じ筆記者が同じ年に書いたとしか思えないほどです。

 どうやら、山本菅助という人物は存在し、しかも高い地位にあったようです。けれども、前線を任されるほどの人物、軍師として活躍した人物としては、まだ同意できません。

「市河家文書」に記されている山本菅助は、上杉武田の勢力争いの狭間に立つ市河氏を武田側に引き留めるため、信玄の口上を伝えた人物。ならば、山本菅助は武田家の高官であったであろう、という見立てが一般的なようです。「山本勘助」と題した解説本をいくつか読んだ限りですが。

 逆の可能性として、山本菅助は市河氏に近い人物ということは考えられないでしょうか。

 たとえば、菅助は村上氏もしくは小笠原氏の重臣だったが、早くから武田に通じ、内情をリークし、武田が優勢になれば寝返ることを約束していた、そのような人物ではないかと。さらには、菅助は市河氏と面識があり、気安く面談できる間柄だったかもしれません。そして、自分が信玄に信頼され、どれほど厚遇を受けているかを伝えたなら、市河氏の心をつかむことができるでしょう。「真下家所蔵文書」を除き、正統な歴史の表舞台に現れてこないことにも納得がいきます。

 つまり、山本菅助は主君を裏切り、武田に寝返った人物であり、甲斐ではなく北信濃に居住する人物、と考えることも可能だと思います。真田幸綱のような外様タイプではないでしょうか。


 個人的には田舎侍のようにしか思えない名前。

 僣称する官職の名前もいまだ出てこない。

 勘助実在説に対してはとかく感情的になりやすく、冷静にならねばと思うところではありますが。


 長くなりついでに、私が山本勘助を毛嫌いするようになった経緯を話したいと思います。

 私が山本勘助を知るための入門書としたのが、上野晴朗氏の『山本勘助』『山本勘助のすべて』(ともに新人物往来社刊)です。上野氏は勘助に関する逸話や家系図などの物証をならべ、多くの伝承とともに「市河家文書」をも無視する学界を批判しています。

 ならば、氏に問いたい(すでに故人となられていますが)。日本全国各地に鬼に関する話はあるけれど、鬼という生物が存在したというのか。幼児ならいざ知らず、誰も信じはしないでしょう。山本勘助も鬼と同じ。言い伝えがいくらあろうとも、そんなものは証拠にはなりえない。これが歴史家のあるべき姿かと激怒しました。(奇しくも、勘助の出家号を「道鬼」と伝えている書があるようです)

 民話もまた同じで、土地や地名、人物などから想起されて作り出されているものが大半ではないかと思います。もちろん、事実を投影しているものもあるでしょう。真実という宝を見つける作業が必要です。材料をならべるだけでは不十分です。

 上野氏の功績、つまり架空の人物とされた山本勘助に光を投じ、私たちに影響を与えた点では評価しますが、私には逆の意味で発奮材料になりました。

 ただし、実在した山本菅助に罪はありません。罪があるのは、自身の立身出世のために「山本勘助」という英雄譚を作った小幡景憲です。こいつは許せない。次の章でも述べます。


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