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『三男の四郎勝頼について』 (三郎永久欠番説) ”風のごとく”より

 三男の四郎という記述を奇異に感じられたかもしれません。もはや世迷い言で、一笑に付されてもいたしかたないところですが、可能性として述べたいと思います。

 信玄の息子は七人いて、順に義信、信親(龍芳)、信之、勝頼、信盛、信貞、信清となります。

 私は三番目の信之は実在しないのではないかと疑っています。


 現存する甲斐武田氏の系図はすべて江戸時代に作成されたもので、戦国期以前の原本は失われているそうです。容易に調べることができる史料集としては、『続群書類従』、『系図綜覧』、『山梨県史』があり、そのなかで信玄の息子が出てくる系図は十二種あり、うち信之と思われる人物は五つしかありません。長男の義信と跡目の勝頼はすべての系図に記載されており、信親、信盛、信貞と思われる人物は「成就院武田系図」を除き、すべてに記載されています。

 ちなみに、末の信清はどの系図にも出てきませんが、武田家滅亡後に上杉氏を頼り、家臣になったそうです。

 系図上の信之らしきものについて、注記されている内容とともに列挙します。


a 信之   …… 次郎、十歳にて死去

b 信之   …… 次郎、十歳にて早世

c 西保三郎 …… 母は三条公頼の娘

d 西保   …… 三郎、母は三条公頼の娘

e 信繁   …… 早世


 出典は、順に以下のとおりです。

     a 『続群書類従』「武田系図」巻第一二一

     b 『続群書類従』「武田系図」巻第一二二

     c 『山梨県史』「円光院武田系図」

     d 『山梨県史』「大聖寺甲斐源氏系図」

     e 『山梨県史』「成就院武田系図」


 最後のeは、信玄の弟、信繁の名を拝借したものと思われます。系図自体も簡素なもので、早世した人物がいた可能性はありますが、考慮の対象外として差しつかえないと考えます。

 cの「円光院武田系図」には、与えられた名跡の名であらわした仁科五郎以下、望月六郎、葛山七郎の名がありますが、望月六郎に該当する信玄の子供はいません。また、信貞は葛山十郎が正しいです。順番にナンバリングした形になっていて、四郎である勝頼の前に三郎を創作したように見受けられます。

 cとdの系図を比較すると、西保三郎以外の人物や構成を見るかぎり、どちらかがコピーしたとは思えません。ですが、dの西保は、欠落する三郎をcをもとに書き入れたのかもしれません。西保とは牧丘町のあたりです。丸島和洋氏は、武田一門の安田氏はこの地にゆかりがあり、三郎なる人物に家名継承を予定していたのではと指摘されています。

 aとbの信之については、注記に記されている仮名(けみょう)が次郎で、cとdの三郎とくい違っています。仮名とは、元服前までの仮の名前です。こちらも四郎勝頼の前に三人の男子がいるはず、という思い込みから二番目に挿入されたものと思われてなりません。十歳では元服をすませている可能性は低く、生前に信之を名のっていたことはないでしょう。真田昌幸の長男に、父親と袂をわかち、徳川家康に仕えた真田信之という人物がいますが、彼の名前から拝借したのではと妄想をめぐらせています。

 そして、残りの七つの系図には、夭折した息子の存在を記していません。記載されている五つの系図も統一感がなく、疑問です。とはいえ、記されていないから実在しないとは断言できず、歯がゆいところです。


 ところで、武田信虎の仮名は五郎です。彼が五男であったというわけではありません。信虎の父信縄も、祖父信昌も五郎で、親の仮名を嫡男が受け継いでいるのです。これは特別なことではなく、太郎から順番に名づけられることよりも多く見受けられます。

 それに対して、信玄は太郎です。

 平山優氏は「これは、信虎はみずからを甲斐源氏の祖武田(源)清光(信義の父)になぞらえ、嫡男に信義の仮名太郎を与えたのではなかろうか。それは、甲斐統一をなしとげた信虎の強烈な自意識のあらわれと思われる」と指摘されています(『武田信玄』吉川弘文館、二〇〇六年)。

 くわえて、信虎は、太郎すなわち信玄に多大な期待を抱いていたことが窺われます。元服には、将軍足利義晴の「晴」の名と左京大夫の官職も手配していることを考えれば、この時点では信虎と信玄の仲は良好だったと考えます。すくなくとも険悪な状態ではないと思います。むしろ、信玄のほうが信虎の横暴さ、強引さを嫌い、疎遠になり、反発したのではないでしょうか。

 話が横道にそれてしまいました。


 信玄の弟の信繁には、次郎の名が与えられていました。ところが、三郎を名のる人物はいません。大井夫人の三番目の男子となる信廉は孫六です。なぜ三郎の名が与えられなかったのか。ここにヒントがありそうです。

 孫六のほかに仮名のわかっている男子には六郎や源十郎がいます。一から順番に割り振るこだわりはないようです。三郎、四郎、五郎を飛ばして、六郎がいるのも興味深く感じます。

 五郎が抜け落ちているのは理解できます。信虎の仮名ですから、五郎の名のりは信虎の正嫡の意味をもってしまい、太郎よりも格上になるからです。


 三郎といえば、ご先祖様に源新羅三郎義光という重要人物がいます。彼の兄は源八幡太郎義家で、その子孫には鎌倉幕府を創設した源頼朝、室町幕府を創設した足利尊氏がいます。当時の日本は足利氏が日本を治めていた時代です。そして、義家の弟義光の血筋を伝える甲斐源氏もまた名門です。

 信虎は三郎の名を敬い、名づけをはばかったのではないでしょうか。信玄も同様に、三郎を欠番にしたのではないかと考えることもできると思います。

 もっとも、信虎より先代にさかのぼっていきますと、三郎を名のる人物が散見されます。これらの人物は義光公にあやかったか、単純にナンバリングされた名前なのでしょう。


 信虎も、信玄も、甲斐源氏としてのアイデンティティを強く意識しているがゆえに三郎の名づけを避けたと私は考えます。それだけ先祖や血脈を誇りにしていたということではないでしょうか(しがみついていたとも言えますが)。


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