『天文十二年正月三日の火事について』 ”わかれ道”より
この件は自信がありません。武田信玄の本を読むと、いずれも躑躅ヶ崎の館が火事になり、駒井は信玄に家を提供した、と解説しています。
とはいえ、多数決が必ずしも正しい結果を生むとはかぎりません。
信玄に関することで承服しがたい一例として、諏訪攻めでの一連の行動が予定どおりで、信玄を軍略家として賞賛する本を多々見受けられることです。高遠頼継の反乱を見越して、同盟を組むなんて、信玄を買いかぶりすぎていると思います。人間は目先の利益を優先して行動するものだし、予見しても計画どおりに進むものではありません。乱世ならなおさらです。その後の信玄の人生の七転八倒ぶりをみても明らかで、諏訪攻めも錯誤を積み重ねた結果だと私は思います。
頭をクールダウンして、話を火事にもどしましょう。
『高白斎記』には、次のように記されています。
「大風、従道鑑ノ宿出火、御前ノ屋形類焼、翌日高白ガ家進上仕ル」
御前という言葉は、高貴な人に対して用いるため、信玄と考えてもさしつかえないとは思います。ところが、その記述の直前、前年の十二月十五日に信玄は側室を娶り、「夜従祢津御前様御越、御祝言」とあります。近接するふたつの御前は同一人物ではないでしょうか。
つまり、禰津御前の屋敷が焼失したのです。
『高白斎記』で他の使用例を見てみましょう。
大永元年に今川の軍勢が甲斐に侵攻したときの九月十六日、「亥刻富田落城、寅刻御前御城ヘ御登リ」とあります。この御前は、信玄の母、大井夫人とされています。父親の場合は「信虎公」と名前をきちんと書いていますので、大井夫人でまず間違いありません。ちなみに、こののち敵兵を撃退し、信玄が誕生します。
もう一つの例は、天文十九年に駒井が今川家を訪問したときのことです。今川義元に嫁いだ信玄の姉を御前様と呼んでいます。五月二十七日に「駿府ニ着、酉刻御前様ヘ参」、六月二日に「午刻御前様御死去」とあります。信玄の代理で病気見舞いに訪れたのですが、残念ながら亡くなられました。
人称代名詞としての御前を、いずれも女性として記しています。源平の合戦のころには、静御前、巴御前と呼ばれた女性がいました。御前は女性への尊敬語でもあります。先の御前もやはり女性ではないでしょうか。
火事の記述で気になる点があります。躑躅ヶ崎館は堀で囲まれ、孤立していたはずです。道鑑という人物は武田家につらなる人物のようですが、その屋敷が火事になったからといって、躑躅ヶ崎に飛び火するのでしょうか。可能性はゼロではありませんが、解せません。それとも、宿は躑躅ヶ崎のなかにあったのか、それも考えにくいです。
禰津御前に屋敷を個別に与えていたなら、合理的に理解できます。
そして、駒井の家に避難したのは、信玄ではなく、禰津御前ということになります。
あるいは、御前を正室の三条夫人と仮定したなら、躑躅ヶ崎の北曲輪が火事の現場となります。名前のつかない御前は正室という暗黙のルールがあってもおかしくありません。
『高白斎記』の天文十二年三月と四月には「常ノ間」の建築が記述されており、火事による再建と見なされています。名前からして居住区のことでしょう。となると、従来どおりの見方で正しく、信玄は火事に巻きこまれたと言えます。
けれども、火事と「常ノ間」は無関係であると、私は考えています。というのは、建築前の二月二十四日に「御前ノ御屋敷ヘ御移」と、本件は終了しているからです。
断定できませんが、この火事が禰津御前と関連している可能性を指摘しておきます。
また、駒井高白斎が自宅を提供したのが、信玄にせよ、禰津御前にせよ、天文十二年の段階では、信玄と駒井が親密な主従関係になっていることがわかります。
なお、数名の側室が一つの館に同居しているように、ドラマなどで表現されることがありますが、おそらくは個々に屋敷を与えられ、通い婚の形式だったのではないかと想像します。躑躅ヶ崎の敷地は、それほど広いとは思えません。信虎の側室、お西様は特別待遇だったのでしょう。
ちなみに、禰津御前は諏方頼重の息女という見方とそれを否定する見方がありますが、本文では前者とし、「すゞ」と名づけました。
この論点に関しては、諏訪御料人こと諏方頼重の息女が禰津御前であっても不都合はないと考えます。信玄は彼女の父親を殺しているわけですから、諏方氏の肩書はきつすぎます。この場合、有力者の養女ということにして、諏方氏から切り離すという段取りを踏むと思います。もちろん、誰もが諏方頼重の息女とわかっているのですが、建前は重要です。ただし、禰津氏の実の娘の可能性が消えたわけではないので、私としては八割方、諏方氏でよいと考えています。