『板垣信方の人物像について』 ”地獄行”より
彼には悪いことをしたと思います。本文ではかなり粗野な人物としました。板垣の家名は甲斐源氏の流れをくむものであり、おそらく相応の人物だったと思います。ただし、血のつながりがあるとはかぎりません。断絶した家名を引き継ぐことは多々ありますので。
これまでの小説やドラマでは、板垣信方は信玄に忠義をつくし、陰日向に苦労したように描かれてきましたが、悪代官のような信方もありえるのではないでしょうか。しかし、やりすぎたかもしれません。
『甲陽軍鑑』では、上田原の合戦で信方が首実検をしたとか、栄枯盛衰の歌を信玄が扇に書きつけたとか、エピソードが出てきます。実話ではないでしょうが、そういう話が出てくること自体、信方に悪い印象があったからではないかと思います。
扇を見た信方は自身の増長ぶりをとがめられたと思い、諏訪郡代の辞任を申し出ますが、とめおかれます。「俺を解任できるわけがないだろう」と信方が考えているのではないかと思うと、信玄のくやしい胸のうちを察します。
また、信方には軽率で、人の意見を聞かないエピソードもあり、鵜呑みにはできませんが、このような人物を信玄が信頼するだろうかと考えてしまいます。たぶん、信玄は板垣信方が嫌いです。
ついでながら、飯富虎昌との関係もぎくしゃくしていたようです。
のちに飯富は謀反を企んだとして成敗されますが、『甲陽軍鑑』によると信玄は五カ条の理由を書き記したそうです。それによると、呼んでも無視することが多々あった、合戦の仕方を批判した、信玄公は弱いと公言した等で、ずいぶんと馬鹿にされていたようです。ただし、信じてよいかは別問題です。
ちょっとおもしろいと感じるのは、呼んでも無視した、という理由です。この小説では、信玄を物思いにふける人物としましたが、その姿を飯富が真似して茶化しているみたいで、もしかしたら信玄は自分のイメージに近いかもしれないかなと。
信玄といえば、川中島合戦ですが、第四回目の川中島合戦に至るまでの長い対陣において、最初に不平を言うとしたら、飯富だろうなと思い、『甲陽軍鑑』のその場面を読み返すと、案の定、飯富が発言しています。「決戦をなさるべきときです」という丁重な物言いですが、おそらくは開戦を決断できない優柔不断な信玄をなじり倒したのでは想像してしまいます。合戦後には、死傷者をたくさん出してしまった責任を、信玄の息子義信とともに信玄を糾弾します。たぶん、性格的には水と油ではないかと。
家臣団は一枚岩ではなく、家督相続時の信玄はワンマン社長というより、跡継ぎの若造にすぎません。ベテラン社員にもまれて、気苦労に絶えなかったのではと推察します。