『今川氏輝の不可解な死について』 (三条夫人婚約者説) ”悪鬼”より
結論から先に言います。今川氏輝は自殺しました。以下、仮説です。
武田信玄の正室、三条夫人はもともと氏輝と婚約していました。しかし、今川家の主流は武田との同盟を優先し、武田の娘(信玄の姉)を氏輝の嫁に変更し、三条夫人は信玄の嫁にと考えました。氏輝は意見を受け入れたものの、自暴自棄になり、入水したのです。
駿河、遠江を領有する今川氏は、将軍家足利氏の流れをくむ名門です。その今川家当主の氏輝と弟彦五郎の同日の死は、戦国時代の一つのミステリーと言えるでしょう。今川家ゆかりの文書には理由を示すものはなく、『高白斎記』や『勝山記』など、外部の人間が事実を伝えるのみです。今川家にとって、ふれたくない過去のようでもあります。
国を代表する二人が同じ日に死ぬというのは、尋常ではありません。人為的なものを感じさせられます。謀略説が出てくるのは当然の成り行きでしょう。通説では病死とされています。
それに対して、興味深い説もあります。『浅羽本系図』所収の「今川系図」の心範という人物の注記として「為氏輝入水、今川怨霊也」と記されているそうです。心範は氏輝の叔父です。この注記をもとに前田利久氏は入水自殺説を提起しました。
前田説に対して、小和田哲男氏は、氏輝にたたる怨霊に見当がつかない、弟と一緒に死ぬことに無理がある、と疑問を呈しています(『今川義元』ミネルヴァ書房、2004年)。
有光友學氏は、氏輝との軋轢で心範が入水自殺に追い込まれ、氏輝本人は入水していないと解釈されています(『今川義元』吉川弘文館、2008年)。
「為」は「氏輝」にかかるのか、「氏輝入水」にかかるのか。
私は前田氏の説を支持し、氏輝が入水したため、その後の心範の死因は彼のたたりだと当時の人たちにうわさされたのではないかと思います。そして、氏輝が自殺する原因をつくったのは、心範ではないでしょうか。
ところで、氏輝は享年二十四ですが、独身だったようです。昔は早婚でしたから、遅いほうです。病弱と言われていますから(推測では?)、それも原因かもしれません。どちらにせよ、嫁をもらうことを考えていたはずです。
それでは、嫁には誰がふさわしいでしょうか。同盟関係にある北条氏の娘か、あるいは公家の娘か。
氏輝の母、寿桂尼は中御門宣胤の娘で、京都の公家です。氏輝も公家の娘との婚姻を願っていたと私は推測します。いろいろあたって、調整がついていた女性が、のちに信玄の正室となる三条夫人、と考えるのは飛躍しすぎでしょうか。
ここで、今川・武田の動きを時系列で整理します。
天文五年
二月五日 氏輝と彦五郎が小田原にて北条氏の歌会に参列する
三月十七日 氏輝と彦五郎が駿府にて死去
三月 信玄、元服し、武田晴信を名のる
四月二十七日 栴岳承芳(のちの今川義元)と庶兄玄広恵探の
家督争いがはじまる(花蔵の乱)
五月三日 義元、足利義晴より家督相続を認められる
六月八日 北条氏の軍勢が義元に加勢する
六月十日 玄広恵探が自刃し、乱が治まる
六月 信虎、玄広恵探派の残党をかくまった前島一門に
切腹を命じる
七月 信玄、三条公頼の娘を正室に迎える
天文六年
二月十日 義元、信玄の姉を娶り、甲駿同盟が成立する
二月二十六日 甲駿同盟に立腹した北条氏が、今川領の
駿河東部に侵攻する(河東一乱)
三条夫人が信玄に嫁いだ時期について記されているのは『甲陽軍鑑』のみで、天文五年七月です。花蔵の乱と呼ばれる家督争いを、義元が制したのは同年六月上旬であり、このあとで武田家との関係を深めようとして三条夫人の輿入れを斡旋するのは、時間的に無理があります。嫁ぐ半年前には、武田家と三条家との仲を今川家がとりもっていたと考えるべきでしょう。となると、嫁いだ時期はもっと遅いと考えるべきで、しかも不正確な内容で知られる『甲陽軍鑑』のことですから、七月の婚儀はあてにはなりません。
今川・武田の関係でもう一つ重要なできごとは、翌天文六年二月に信玄の姉が義元に嫁ぐことです(『勝山記』)。とすれば、三条夫人の輿入れは、それより前ではあるまいかと考えると、『甲陽軍鑑』の内容もそれほど外れていない可能性があります。
『甲陽軍鑑』の七月を正としたとき、半年前の二月には氏輝と彦五郎が北条氏を訪ね、歌会など、親睦を深めています。すくなくともこの時点では、大病を患っていることはありません。そして、駿府に帰っての三月十七日に二人は死にます。
氏輝が留守の間に、今川家の重鎮は方針転換をはかったのではないでしょうか。
三月の信玄の元服にあたり、幕府の勅使が駿府を通過する旨を事前に通達されているでしょう。歓待やら護衛やらの準備をとおして、武田を意識するようになります。武田と争わねば、三河の制圧もかなえられると考えれば、よしみを通じようとも考えるでしょう。そのためには、手持ちの駒として三条の姫君があり、信玄の嫁にと斡旋すれば武田に恩を売ることになり、さらに武田から嫁をもらえば姻戚関係になり、後顧の憂いはありません。
そもそも今川家が武田に媚びるために、公家との縁組みをとりもつのは突飛すぎる気がします。すでに東国の武将たる氏輝に嫁ぐことが決まっていたのであれば、相手を変えるだけの労力ですみます。悪い言い方ですが、三条夫人は横流しされたというわけです。
そして、京にのぼり、婚約者を氏輝から信玄に変えるために、三条家に頭を下げるという大役を託されたのが心範ならば、氏輝から呪われて当然です。
氏輝が独身だったのは虚弱体質だったからではなく、許嫁の成長を待っていたからではないでしょうか。転法輪三条家は公家のなかでも最上級クラスの公家です。氏輝としても鼻が高かったことでしょう。
そんな彼の気持ちも知らず、武田との縁組みを勧められる。初めは受け入れたのかもしれません。でも、時間がたつにつれて、段取りが進むにつれて、非力な自分が情けなくなってきたのではないのかと想像します。北条家の歌会で、近々三条の姫を迎えると告げ、皆から祝福されていたなら、なおさらみじめです。自殺したくもなるでしょう。政略結婚の犠牲者は女性だけとはかぎらないのです。
婚約者を奪われた氏輝は発作的に身を投げ、それを見た彦五郎は兄を助けようとして飛び込み、ともに命を落したというのが私の説ですが、一石を投じることができれば幸いです。
これを正とすれば、今川家の御家騒動は信玄の姉にも飛び火して、持ちあがった縁談話の相手が氏輝だったのに、当人が死んでしまったので、義元に代えられてしまったのかもしれません。
これらの混乱は信玄と三条夫人の縁組みからはじまっていて、信玄は自分の意志ではなく、ただ存在したという理由だけで世の中が激変してしまったとも言えるでしょう。
なお、その後の展開については、今川家には誤算だったのではないかと思います。北条家との関係がこじれ、まさか敵にまわるとまでは考えていなかったのではないでしょうか。
おそらくは事前に(ないしは事後承諾で)今川の使者が北条氏綱のもとへ出向き、同盟の利を説いたとは思いますが、氏綱の武田信虎への悪感情は消えなかったのでしょう。
八年前、越後長尾為景が氏綱につかわした使者に対して、信虎は甲斐国内通過を許さず、贈答品の鷹三羽のうち一羽しか氏綱に届かなかった経緯があります。残りの二羽は信虎が分捕ったのでしょうか。この二人の遺恨は根深いものがありそうです。
氏綱存命中は幾度となく甲斐と駿河を攻撃し、今川氏にとっては富士川以東の地を奪いとられ、手痛い代償となりました。
のちに武田信玄、今川義元、北条氏康は子供たちをトライアングルで縁組みさせ、天文二十三年に甲駿相の三国同盟が完成します。そして、お互いに自分の道を歩んでいくことになります。信玄は信濃へ、義元は三河へ、氏康は関東へ。天文五年の今川、武田の縁組みはそのさきがけに位置づけられるものです。
発案は今川の軍師、太原崇孚雪斎でしょうか。すこしくやしい気がします。