風のごとく
(天文二十三年)
ここ数日、ぐずついた日がつづいた。暦のうえでは春になったというものの、まだ生まれたばかりの赤ん坊、よちよち歩きで寒さにふるえているのかな、というのは余計な心配か。今日は久しぶりに晴れ間がのぞいた。春も笑顔で野山を飛びまわっているのではと思いをめぐらす。私も縁側でつかの間のひなたぼっこを楽しんでいた。
どこか遠くでウグイスが鳴いている。力強くも、軽やかで美しい声に聞きほれていると、浮き世が憂き世であることをしばし忘れさせてくれる。
それにしても、毎日毎日、瑣末な事案に振りまわされて、うんざりさせられる。
正午まで、とある訴訟の件で駒井らと論じあった。甲州法度之次第という独自の法を定めているが、これに新たな条文を加え、基準を明確にするということで話はついた。幕府の策定した建武式目は、武家を統率するために示したものだが、人心の乱れた世の中には、ざるとしか言いようがない。小賢しい人間がはびこる俗世に秩序を与えるためには、事例を明文化していくことも一つの方便なのだ。
誰かが得をすれば、誰かが損をする。勝者がいれば、敗者が必ずいる。いがみあいは世の常だが、法を度外視して、人殺しの名を変えた戦争が、正当に見なされる世の中にも悲しいものがある。
其の疾きこと風の如く
其の徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如く
知り難きこと陰の如く
動くこと雷の震うが如く
さきほどまで孫子の軍争篇を読み返していた。響きがいい。呪文のようにつぶやく。
数年前の塩尻峠の合戦が記憶の片隅からよみがえってくる。もし、あのとき、敗れていたなら、どうなっていたことか。諏訪は小笠原の領地となり、佐久は村上に盗られ、はては甲斐へ攻めこまれ、私は自決するか、他国へ落ちのびるか、悲惨な情況に追いつめられていたかもしれない。
のちの世の話になるが、小笠原長時は流転の生涯をおくる。一時は京の都で将軍の弓馬師範の地位につくこともあったが、かつては守護大名として信濃一国を任されていた男だ。家臣のほとんどは彼から離れてしまい、故郷の地を踏むこともなく、元家臣に殺されてしまう。運命とは、紙一重の偶然の積み重ねなのか。まるで綱渡りだ。踏み間違えたなら、奈落の底へと落ちていく。
自分はどうかと言うと、決して順調ではない。北信濃に進出し、小笠原と村上を追い出したけれども、領地というにはほど遠い。新たな問題が生まれたのだ。宿敵と言うべきだろうか。彼の名は長尾景虎、のちの上杉謙信だ。彼は強い。
人の世は、思いどおりにならないようにできているものらしい。誰もが苦しみ、もがいている。志が高ければ高いほど、悩みは深く、道は険しい。
もっとも、志という言葉は私には高尚すぎる。欲が深いと言い直すべきだろうか。
私は運がよかったのだと思う。上田原で大敗したといっても、戦力は十分残っていたし、次の塩尻峠での合戦で大勝し、帳尻を合わせることができた。武田弱しの風評を払拭することもできた。
失敗は成功のもととも言うが、小さな失敗やひやりとした体験は、次に活かすことができる貴重な財産でもある。だからこそ、すこしずつ歩んでいくことが肝心だと考えた。大事故を引き起こしては立ち直れないこともある。
とくに戦国も末になると、戦法や兵器が充実し、動員する人数も尋常ではない大いくさもふえてくる。そのため、ひとたび大負けすると日が没するごとく落ちぶれることがままあった。そして、家臣や民衆は距離をおくようになる。信濃守護の小笠原長時もそのような部類であろう。のちの勝頼にしても ……
しかし、リスクをとらなければ、大きく前進することはできない。老骨の身になって気づいたときには遅かった。
数々の成功といくつかの失敗が、戦国の世を生き抜く知恵となった、と大見得を切りたいところだが、上田原の合戦の二年後には、村上義清にまたしても惨敗している。
天文十九年、村上方の一大拠点である砥石城を攻めたのだが、落とすには至らず、形勢不利を悟り、撤退したが追い討ちをかけられ、総崩れとなり、横田備中守をはじめとして討ち死に千余人という大打撃をこうむった。世に砥石崩れと言われ、我々は戦意を喪失した。
にもかかわらず、行動で範を示した者がいた。真田弾正忠幸綱である。
彼は天文十年の小県侵攻により敗れ去った海野棟綱の血をひく人物であり、一度は棟綱とともに上野に逃れていた。私の代になると武田に帰順し、信濃先方衆として最前線で働いてくれた。小県の本領をとりもどすには、武田についたほうが得策と考えたわけである。
その幸綱が天文二十年に難攻不落の砥石城を、自らの手勢だけで奪いとるという大殊勲をあげた。砥石城はそもそも海野氏の持ち城であり、上田は彼の住み慣れた土地である。顔見知りの者もいよう。彼は内通者をつのり、切り崩しに成功した。城の中から攻められては、要衝といえども守れるものではない。
村上勢にとって衝撃であったことは想像にかたくない。我ら家中においても驚愕のできごとだった。大軍をもってしても落とせなかった城を、新参の真田がわずかの手勢で乗っ取ってしまったのだから。
こののち、彼には北信濃、そして西上野における軍事指揮権を与え、宿老に近い待遇へと昇格させた。とりわけ期待したのは、去就を決めかねている有力者の取り込みである。土地勘があり、弁舌巧みな幸綱は、使者として安心して送りだせる人物でもあった。もっとも、寝返りや同盟への手付金として用いる金子は私が彼に託したものだし、その後の厚遇も私が保証している。
砥石城攻略で得たものは軍事面だけではない。私自身が多くを学んだ。
いくさの目的は領土の拡張にある。経済的利権の確保にある。現状を維持するためには他国に威をはり、勝ち進まねばならない。けれども、いくさをせずとも領地が手に入るなら、無理をして戦う必要はない。謙信のような強敵ならば、なおさらだ。真正面から正々堂々と戦って兵力を損なうよりは、敵から逃げ、かわし、あるいは引きつけている間に手薄な城を攻め落とす方法もある。戦略というものを考え直すきっかけになった。
知識と経験が私の血となり、肉となり、そして羽ばたく翼を身につけたと私は誇りたい。
魂は戦国の色に染まる。拒否すれば、この乱世を勝ち残ることは無理だろう。受け入れるしかない。変わるしかない。正しいとか正しくないとか、拘泥するわけにはいかないのだ。たとえ卑怯者とののしられようと。
空を見上げると雲間の太陽はまぶしく、その輪郭はとらえがたい。
思わずくしゃみをした。小さなくしゃみがつづく。まるでこだまのように。体がぽかぽかして、頭もぼんやりしてくる。
漂う空気のなかに花の香りを嗅ぎわけた。梅か。風が運んできたのか。
そう言えば、すゞは元気で暮らしているだろうか。彼女は諏訪にいる。今年は寅年、御柱祭の年だ。人も町も活気づく。
あれから十二年、彼女との間に男の子もできた。当年九歳になる四郎と名づけた彼もまた、療養している母親と、ともに諏訪で日々をすごしている。三男の四郎には諏方氏の跡目を継がせようと考えていた。よもや私の後継者として武田の全軍を率いることになろうとは、もちろん考えてもみなかった。のちに武田勝頼と名のり、筋骨隆々の、体格からして戦国武将と言える立派な青年になったが、当時は虫の命も大切に思う、目の輝く少年だった。
ありがとう、すゞ ……
会いたい。せめて、夢のなかでも。目を閉じて、天女のごとき姿を思い描く。
白い梅の花咲く、木立の下を歩く、すゞ。
両手を広げて見上げる、すゞ。
風になびく長い黒髪をおさえる、すゞ。
笑顔を惜しみなく与えてくれた、すゞ。
午後の光につつまれながら、幸せな気持ちがわきあがってくる。しかし、それを打ち消すように不安な風が通りすぎる。病は癒えるだろうか。考えたくはない。いつまでもつのだろうかと。
かさかさと小さな音がした。
けだるく目を開き、音の正体を確かめようと焦点を合わせると、植込みから少年が現れた。
寝ぼけているのか、なぜここにいるのか、迷いこんだのか、などと思いつつ、彼の目を見たとき、彼の目的を理解した。私をにらみ、短刀を両手で握りしめている。ねらいをはずすまいと体をすこしかがめたかとみると、「やぁー」というかけ声とともに突進してきた。眠気は吹っ飛び、とっさに身をかわした。
「なにやつだ」
大喝を意にとめず、無言のまま、再びねらいを定めている。
少年のいちずな目は、私を過去へと引きずりこむ。遠い昔へ、遠い記憶へ、忘れたい過去を呼びさます。
「父の仇、母の仇だ、生かしておくものか」
そのとき、物音に気づいた小姓など、数名がかけつけ、少年をとりかこみ、とりおさえた。
質素だが清潔な衣と丸刈りの頭から、どこかの寺の小僧と察せられる。もがきながらも私をにらんでいる。
「ちくしょう、放せ」
「名はなんという。どこの寺の者だ」
「捨て子に名はない。知らぬわ」
「仇と言うて、捨て子とは異なことを言うものだな」
「うるさい」
「なにゆえ、ここに来た。仇とはなんの話だ」
「おまえを殺しにきたんだ。そんなこともわからんのか」
「無礼者が、」と小姓の一人が少年の頭をおさえつけた。
年は十二、三歳だろうか。次郎と同じくらいの背格好だ。法要に訪れた和尚の付き人を装い、まぎれこんだものか。年若いゆえに、うろついても不審に思われなかったのだろう。ぎこちない手つきから、人を殺したことがないとわかる。
それはともかく、目の前の少年をどうしようかと考えた。
愚鈍な子供には思えない。憎しみのまなざしには見覚えがある。いやいや、そのような目はいたるところで私に向けられている。
ためこんだ息を一気に吐き出した。どうにもなりはしない。あごで合図した。
そして、少年は庭から引きずり出された。
「おまえのようなやつは神仏が許すものか、天罰を受けるがいい、地獄へ落ちろ …… 」
姿が見えなくなっても、わめき散らす声が聞こえてくる。悲しげな声は私の心に届いている。
少年のその後の扱いについては、ここに記すつもりはない。
しばらく空を見上げていた。白い薄衣で覆われたような空からは、やわらかな光がそそがれて、数分前のできごとも夢のように思われてくる。風は消えた。
丘の上にも桃の花が咲いている。
大地はまるで乙女のように着飾り、恥じらう。
つぼみは美しく口を開き、ほほえむ。
散ってもなお、日を重ねるごとにみずみずしい実をつけ、
数えきれないほどに実をつける。
思い出もかくありたいもの。
風が吹く。なぜだろう。
春の風は、目に冷たい。
男の子のはしゃぐ声が聞こえた。
子供を呼び止める母親と父親と思われる声もつづく。
私は人目を避けるようにして丘をくだった。
風に舞う、花びらを道づれに。
風が「私」を呼んでいる。
車に乗りこみ、キーをまわす。
ひとしきり咆哮をあげると、振動が静かに伝わってくる。
窓を全開にして、よどんだ空気を入れかえる。
どこからともなくガソリンとオイルのにおいが鼻につく。
ギアをつなぎ、アクセルを踏む。
車に命を吹きこみ、止まっていた時間が動きだす。
アスファルトの黒い道が延々とつづき、白線が流れ去っていく。
視線を左に向けると、淡い紅色の畑が広がっている。
丘で眺めた南アルプスの山々も見えてくる。
空も、山も、水の色。
峰には白い雪を残している。
五百年の時が移ろうとも、山の姿は変わらない。
スピードメーターの針はふるえている。
新しい空気が肺に流れこむ。
「私」は腰を軽く浮かし、馬に鞭を入れた。
エンジンの回転数ははねあがる。そして叫び、そして泣く。
私はアクセルを踏む。
過去を振り切るそのために。
(完)
武田晴信は永禄二年前後に仏門に帰依し、徳栄軒信玄を名のります。
『甲陽軍鑑』では、出家の理由を三つ述べたあとに、真意は父親を追放したことだと聞いていると、ちゃぶ台返しをしています。実際にはそれも直接的な理由ではないでしょう。
当時は、武将が出家し、法名を名のることは、珍しいことではありません。人の命を奪うことが仕事のような彼らは、地獄に落ちることを恐れ、仏門に入ります。ほとんど慣習に近いと言えるのではないでしょうか。
信玄が出家するにあたり、脳裏に去来するものがあったと思います。一つだけではないでしょう。禰々のことも考えたと思います。
この小説が禰々の供養になれたら、うれしいかぎりです。
正邪二面性をあわせもつ信玄を、この小説の主人公のような人物ならば、説明がつくのではと、私としては自負するところですが、いかがなものでしょうか。
川中島合戦については、私の手に負えませんので、ここで筆を置きます。
すゞとの恋物語、勝頼と信玄の微妙な関係、「もう一つのわかれ道」となる長男義信との相剋もまた、小説として表現するにはむずかしいテーマです。
とくに、後半生の信玄を考える上で、自分の子供への対応は重要な検討事項です。
義信との関係の悪化は、信玄が駿河侵攻を決意したことが端緒とされています(以前からぎくしゃくしていたかもしれません)。今川義元の娘を妻にもつ義信には、駿河侵攻は絶対に同意できません。軟禁状態にされた義信は自死を選びます(強要された可能性が高い)。後におそらく、信玄は跡取りを死に追いやったことに後悔したのでは、と推察します。
そして、戦いかたに変化が見られます。若いころは慎重に確実に物事を進めていたのに、晩年は大胆になります。下手をすれば、命を落しかねないような際どいいくさもありました。駿河に侵攻したものの、北条氏に退路を断たれたこと。八王子城を無視して相模に進出し、三増峠の戦いで北条氏に挟撃される前に勝ち逃げしたこと。
義信という大きな犠牲を払ったことを正当化するためには、今川領を絶対に手に入れなければならなかった。人生の残り時間が気になりだしたこともあるかもしれないですが、無理をする信玄の心境の変化も興味あるところです。
次章から自説を述べます。本作品を補足するものですが、無関係もあります。わがままをご容赦願います。なお、以降では晴信ではなく、信玄で表記します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。