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新しい道 (四)   “塩尻峠”

 いくさの余勢をかって、村上勢が佐久へ攻めてきたのは、合戦から二ヶ月がすぎた四月下旬のしことだった。内山城にせまり、城下の根小屋に火をかけ、荒しまわり、略奪して引きあげていった。

 このままでは佐久が危うい。

 今回は前哨戦であろう。次は領土を奪いにくる大いくさになる。

 海野一族の望月氏を陣営に迎えた我々は、五月、彼らに小諸の布引城の改修を命じ、兵力を増員させた。この城の後方には山の峰がつづき、容易に侵入はできない。前面は川である。千曲川に沿うように断崖がつらなり、城は一気に高度を稼いだ断崖の上に築かれている。眼下の千曲川は大蛇のごとく身を横たえていて、右から左へ流れるその下流、西の方角に村上はいる。

 布引に兵を置くことにより、村上を牽制できる。もし村上勢がこの城を攻めても、数日で落とすのはむずかしい。それまでに内山城から援軍を、甲斐からは大軍を送りこめる。仮に布引の城を無視して内山城を攻めたなら、挟み撃ちにできる。村上勢は気安く佐久へ入ることはできまい。力よりも頭を使った駆け引きが重要になってくるのだ。


 城は囲碁の石に似ている。碁石一つはとても弱いものだけれど、それがほかの石とつながりを持たせたとき、強い力を発揮する。逆につながりが断たれたなら、石は死ぬ。

 城も単独では機能しない。城と城とのネットワークを構築し、領土を囲んでおくことが必要だ。城は堅固さを要求されるが、点にすぎない。城と城とをむすぶ、目には見えない線が重要なのだ。線が切れたとき、つまり援軍を期待できなくなったとき、どんなに優れた城にこもったところで、時間さえかければ城は落ちる。攻められる前に自壊することも多い。城攻めは、ネットワークを破壊していくことと同義と言ってもよかろう。

 一方、自軍の視点に立ったとき、城のネットワークを築いていけば、線は面に変わり、領地の確定につながる。布引の城もその一つなのだ。

 私は信濃という碁盤に石を置く。そして色の異なる石を囲み、石を殺す。



 しかし、城の配置で村上の気勢を削ぐことはできたとしても、上田原の大敗は各地で不穏な空気を生みつつある。領地に組み入れて間のない佐久はもちろんのこと、諏訪もあやしくなってきた。郡代として諏訪に君臨してきた板垣信方の戦死は、反武田を腹の底に隠していた者たちを勢いづかせている。離反への対策が追いつかなくなってきた。

 天文十七年は申年、御柱祭の年なのだが、人々は集まらず、祭事もままならなかった。というのも、信濃守護の小笠原長時や、仁科などの北信濃の手勢が諏訪西部に乱入し、略奪や放火を繰り返したのである。

 弱いと見れば、それに乗ずるのが弱肉強食の戦国の世。あなどられたものだ。だが、弱体化したのは事実だし、謙虚に受けとめる必要がある。

 とはいえ、対外的には虚勢をはらねばならない。中身は二の次で、要領よく生きていくのが栄達の道。正直者が報われるのは、昔話で終わっている。


 七月、諏訪西方衆が蜂起した。武田にくみする者の家々は焼き討ちにあい、身の危険を感じた者は上原城へ逃れているとのこと。裏で糸を引くのは小笠原か。

 小笠原勢が大挙して南進しているとの情報もあり、これ以上、野放しにしておくわけにはいかなかった。その日の夕刻、十一日のことだったが、かき集められるだけの兵をつれて、第一陣として出発した。


 守護職を務める小笠原長時は、信濃国府に近い林城を拠点にして、安曇(あずみ)筑摩(つかま)の両郡をおさえている。村上義清とならぶ大物だ。系図をたどれば小笠原も甲斐源氏の流れをくむ同胞である。

 鎌倉幕府の創立に貢献した甲斐源氏は、強大な軍事力を持つがゆえに恐れられ、粛清された。断絶こそまぬがれ、武田は甲斐に、小笠原は信濃に地盤をおき、命脈を保っている。そして三百五十年の紆余曲折をへて、波瀾を乗り越えて相対する。

 どちらに義があるかと問えば、疑いようもなく小笠原に軍配が上がる。武田は信濃へ計略の手を伸ばしている悪党だ。信濃を守護する立場の小笠原の挙兵には、正当な理由がある。もちろん、諏訪郡を支配しようという好餌もある。欲を言えば、甲斐一国、もらい受けようとまで思っているのではないか。

 南の伊那郡はそもそも小笠原の所領であり、南北朝分立に終止符を打つころ、信濃の国主として現在の松本へ赴任したのが、長時の血筋である。彼らには旧領奪還という名目もある。



 若神子(わかみこ)で悪い報せが届いた。佐久衆も反旗を翻し、前山城、内山城を攻めているとのこと。上田原の敗戦が各地に波紋を広げている。佐久から兵を動員するどころか、兵をさかねばならない事態だ。

 若神子は佐久街道の入り口、ここから北へ向きを変えれば佐久へ行ける。だが、諏訪はどうする。二手に分けるのは無理がある。小笠原は弱敵ではない。諏訪を守るために大急ぎで進軍したけれども、身動きがとれなくなってしまった。

 しかも、彼らは塩尻峠(しおじりとうげ)に陣を組んだという。この峠は諏訪郡と筑摩郡を隔てる小高い峰にある。

 諏訪へおりてこないのか。峠で迎え撃つ作戦なのか。


 高台に立てこもる軍勢と戦うのは、城攻めと同じだ。城攻めには相手の三倍の兵力が必要だと言われている。敵は総勢三千を超えると見ている。対するには一万の兵を動員しなくてはならない。無理だ。死傷者の数もはかりしれないものになる。

 上田原では多くの兵を失い、人材をなくした。人は財産だ。しかし、お金とは違う。お金は商品とその場で交換できるが、お金で死者をよみがえらせることはできない。労働力となる人間に育てるには時間がかかる。軍人ともなれば経験を積む時間が必要だ。時間はお金以上に大切なもの。いくさに負ければ時間を失い、いくさに勝てば敵から時間を奪う。


 小笠原勢との戦いを避け、佐久へ進むべきだろうか。

 諏訪を捨てるという選択肢はあまりにも弱気だ。敵だけでなく、味方からも見離される。たとえ佐久に進んでも、村上が参戦してくる可能性もある。泥沼だ。

 村上義清はなにを考えているのだろう。おそらく、武田と小笠原の死闘の隙をつき、佐久を手に入れようと思っているのではないか。今は高みの見物でほくそえみ、てぐすね引いて待っているところだろうか。

 仮に諏訪も佐久も失ったとしても、私が甲斐国主に就いたときの状態にもどるだけ、とも言える。しかし、のぼってきたのと、くだってきたのとでは、同じ位置でもわけが違う。一方は上向きの、もう一方は下向きの、流れができている。

 悪いやつはいつの世にもいるものだが、弱い者から根こそぎ奪いとるのは、乱世の常識だ。連中は甲斐にも手を伸ばしてくるだろう。そのとき、南の今川、東の北条はどう心変わりをするかわからない。今でこそ対等な力関係で、あたりさわりのない状態を維持しているけれど、どうなるものか。考えれば考えるほど、悲観的になってくる。



 若神子で二日待った。しかし、やつらはおりてこない。雑兵が里を荒らすばかりだ。

 できることなら、峠に陣どる小笠原とは戦いたくない。こちらが動きを止めたことで、諏訪に進軍するかもと淡い期待をかけたが乗ってこない。だからといって、敵の誘いに素直に従うつもりはない。敵の用意した戦場で戦う不利は、上田原で経験済みだ。

 小笠原は私を誘っている。「おいで、おいで」と呼んでいる。彼らの目的は私をつぶすことであり、甲斐の軍団を壊滅させることなのだ。領地はその副産物にすぎない。敵のふところに飛び込めば、小笠原の目論見どおりになってしまう。

 だが、それを承知で戦わなければならないときもある。塩尻峠の布陣は、私への果たし状なのだ。逃げるわけにはいかない。家臣のみならず、国内外に示しがつかなくなる。そのうえ、もたもたしているうちに、村上勢に小県と佐久を制圧されてしまうかもしれない。外見にはおくびにも出さないが、心ははやり、じれていた。


 日も暮れ、山々のその遠くから血を吹き出したかのように、空が茜色に染まるころのこと。汗とほこりにまみれた使いの者がころがりこみ、前山城を一揆勢に明け渡したと告げた。両手を地につけ、無念さをにじませていた。あわてた我々は、同じく佐久の内山城を守る上原伊賀守へ使者をつかわしたのだが、たどり着けるかどうか。今しばらく耐えてほしい。



 時を待ち、相手の出方をさぐる、辛抱の日々がつづく。

 私を気にかけてくれたのか、駒井から粋なはからいがあった。新しい馬を手配してくれたのだ。黒鹿毛の大柄な馬だ。怒ったような顔をしていて、鬼鹿毛を思いだす。あれから十年になるのだろうか。なつかしい。


「いたっ」


 腕をかまれた。首をたたいて愛撫してあげようと手を伸ばしたら、かまれてしまった。草をすりつぶす歯なので、かみちぎられはしないが力は強い。本気になれば骨も砕いてしまうだろう。馬からすれば防衛本能から攻撃しただけであって、不用意に近づいた私が悪い。

 近くにいた者たちは心配そうにしていたが、大丈夫だと声をかけた。馬の名前をたずねると、馬丁はおそるおそる答えた。悪源太(あくげんた)というのか。私を仇とでも思ったか。気の強そうな馬だ。私をまだにらんでいる。

 馬丁は手早く馬装をすませてくれた。

 お手並み拝見、すぐさま騎乗し、上から悪源太の首をたたくと、顔をすこし後ろに向け、なんだよとばかりに流し目で私を見た。

 こいつ。腹をかかとで軽く押すと、あくまで軽くだ、尻っぱねして飛び出した。元気な馬だ。力強さを感じる走りっぷりが気に入った。小姓が私を呼んでいる。無視して走りをしばし楽しんだ。


 陣触(じんぶ)れからすでに四日。小笠原は動かないし、我々も動かない。敵もこちらの動向はつかんでいるだろう。我慢くらべの様相だ。それとも甲州勢は怖じ気づいているとでも思っているのか。それなら、なおさらよい。私はともかく、兵たちはだらけていないか、心配だった。各隊の長は、たがをゆるめてはいないだろうが、私は陣内をめぐり、声をかけていった。


「しばらく様子を見ている。いつでも出立できるよう、準備だけは怠るな」


 ふざけあい、楽しんでいる者もいれば、疲れて暗い顔をしている者もいる。若くてはち切れそうなくらい壮健な者もいれば、戦場の悲惨さを幾度もくぐりぬけてきたと察せられる面構えの者もいる。無気力さを感じる者は少なくない。老年に近い者もいる。武具の手入れに頭を垂れているのはさびしげだ。

 合戦になれば生きて帰れる保証はない。負けが濃厚となれば逃げ出そうと考えるだろう。雑兵といえども、わりのいい合戦に出たいものだ。命を賭してばかりの奉公ではやりきれない。

 したがって、戦時中の敵地での略奪は大目に見ている。敵兵の所持品や、敵地の物資は宝の山だ。ただし、いくさが終われば、ご法度である。彼らにとっても旨味がなければ、いくさに加わる気にもなれまい。なかには大物の首をとり、出世の道が開ける場合もあるかもしれないが、そのような志を持つ者は少なかろう。食い扶持にありつけるだけで、気乗りしないまま参戦している者も多いのではないか。それとも、うまい儲け話か。

 だからこそ、第一に考えなければならないのは、勝ついくさをすることだ。勝算が五割を切るようないくさであれば、兵はついてこない。今、塩尻峠に陣取る小笠原勢と正面から戦ったなら、勝ち目は薄く、兵たちは逃げ腰になり、負けの確率が高くなるばかりだ。回避するには、これは詐欺的な行為だが、進むしかないような状況をつくることもありうるし、極端な場合、背水の陣のように死地において戦うことも戦略的には必要だ。

 孫子は「兵は詭道(きどう)なり」と言った。勝負事は手の内を見せてはならない。敵に対しては当然だが、有利な状況をつくるためには味方さえもあざむくことは許される。為政者のご都合主義の弁でもある。戦争とは、とどのつまり殺しあいである。正義は通用しないし、常識にこだわっていては生き残ることはできない。悲しい世界だ。私はその世界に生きている。

 陣内を一まわりして馬屋にもどると、出迎えた馬丁に声をかけた。


「いい馬に仕上げてある。気に入った」


 下馬して馬を預けると、馬の態度が変わっていることに気づいた。顔つきからとげとげしさが消えて、私を値踏みするかのような目で見ていた。誰もが私のほうへ向き直り、へりくだっていたから、背中に乗せたこの私を偉い人かもしれないと思っているのだろうか。そんなことはないんだよ。

 理念ばかり考えている、この私は何者だろう。雑兵たちとどこが違うというのだ。生まれが違うだけではないか。国主の子に生まれるか、農民の子に生まれるか、それだけの違い。私は与えられた地位にすわっているにすぎない。民は私に敬意を表し、家臣はうわべだけの忠義をつくす。私のような愚物が上へ上へと押し出され、崇められている。優れた人物が高い地位につくのがあるべき姿だが、地位が人をつくるということもある。私は後者であろう。

 いつのまにやら、上座に一人いる自分に不自然さを感じなくなっていた。



 朝早く目をさまし、陣屋を出た。鳥のさえずりが一日のはじまりを告げている。

 東の空は明るさをとりもどしつつあり、星は姿をくらましている。

 静けさは、天空の支配者の登場を待つ。

 南から西へとつづく山脈は、紺色で形だけをあらわしていた。ついたてのように長くつづく稜線には、ひときわ目立つ三角にとがった山がある。甲斐駒ヶ岳だ。その頂きの左には、こぶを丸く突き出していて、一目で特定できる個性的な山である。山すそは青黒さを残しているが、しだいに青みを増していく。

 上空には丸い月が浮かんでいる。明るさを強める空にも負けず、白い光を蓄えている。

 月に心を奪われていたそのとき、甲斐駒の先端が赤く光った。

 みるみるうちに山肌が赤く染まっていく。

 あの峰に立てるなら、ご来光を拝めるだろう。月に手が届くかもしれない。

 西のかなたには、京の都も見えるだろうか。


 月は見かけ上、太陽から遅れるように位置を変えていく。まるで太陽から産み落とされたかのように、一日ごとに月は太陽から離れ、膨らみを増していく。

 新月は太陽と月が同じ方向にあり、摩利支天まりしてんのごとく、影となって姿を見ることはできない。三日月は夕焼け染まる西の空に、か細く浮かぶ。夕刻を基準にすれば、上弦の月は天頂にあり、満月は太陽と入れかわり、東の空に姿を現す。その後も月の出は遅れ、しだいに欠けていき、太陽と同じ位置へと回帰する。

 その見かけ上の周期は二十九日半である。当時の暦は太陰暦を使用しており、天体の月の満ち欠けが暦の月として生活に根づいていた。一ヶ月のはじめとなる一日は新月であり、十六日までには満月になる。一月の長さは二十九日か、三十日になる。十二ヶ月で一年とするには十一日たりず、閏月を追加して調整する年もある。


 さてと、いまだに小笠原が動いたという報せはない。ならばよい。うまくいくかどうかはわからない。不安はあるけれど、負けるわけにはいかない。原加賀守の見立てでは、晴天はしばらくつづくようだ。

 腹のうちでは八割がた決めている。先手必勝、速戦即決。上田原の失敗は繰り返さない。だが、依然として不安がつきまとう。短期決戦にする考えだが、しかけるタイミングをいつにするか、その点だけは慎重に見定める。そして重要なのは、決断だ。

 うつむきながら馬屋へ歩いていると、突然、大地が黄色く照らされた。

 顔を上げると、まばゆいばかりの光に目がくらみ、光の束が矢のように全身を貫いた。



 十八日、陣替えを指示した。といっても、十キロメートルほど先に進んだだけである。大井ノ森の陣所に軍を移動した。

 この場所からは北岳の頂上がのぞめる。鳳凰山から駒ヶ岳へとつづく稜線の、くぼんだところから頭を出している。嚢中の錐というべきか。北へ目を転じると、八ヶ岳の南端の山々がそびえ立つ。佐久街道から見る八ヶ岳とはまた風情が異なる。いくつもの山がにょきにょきと生えだしているかのようだ。東には、富士がゆるやかな指数曲線を描いている。

 別に、景色を眺めるために来たわけではない。兵たちには大井ノ森までの進軍としか伝えていないが、言うなれば準備運動のようなものであって、長期の退陣でたるんだ心身に活を入れるためである。

 実はもっと重要な理由がある。明日もさしたる動きはないと敵に思わせるためなのだ。小笠原にはこちらの動きが伝わっているはず。敵の透波がまぎれているかもしれず、家臣のなかに内通者がいるかもしれない。作戦は極秘で、信頼のおける重臣だけと協議し、練っている。さらに、兵卒が敵方に走ることがないように、末端に至るまで人数の把握に努めさせた。


 予定の場所に到着し、馬から鞍をおろして、水を与えた。そして、鼻まわりをかいてあげると、目を閉じ、うっとりしている。馬の名前は天元(てんげん)と改めた。先日、腕をかんだ馬だ。今はすっかりなついている。

 さあ、これからが乾坤一擲の大勝負。ばくちにも近い。

 天元の大きな黒いまなこがぎらりと見つめる。私を信じている目だ。


 小笠原勢に奇襲をかける。もちろん、敵も警戒しているだろう。しかし、満月の夜に攻めてはこなかった。武田勢の動きはにぶい。戦う気がないのではと、油断が少なからず生じているはず。

()く兵を用うるものは()の鋭気を避け、其の惰帰(だき)を撃つ」という孫子の言葉もある。

 とくに我々は圧倒的に不利な立場にある。峠に立てこもる軍勢に対して、下から駈け登っていかねばならず、戦う前から力が衰えてしまうのだ。気力の落ちている敵に意表をつくことで、五分五分のいくさにできるかもしれない。長時間のいくさは避けたい。敵の体制が整わないうちに勝敗を決しなければならない。

 もしも奇襲がばれたなら、わなにかかるのは我々のほうだ。カウンターパンチを浴びるようなもの。ゆえに、兵たちには詳細を伝えておらず、ましていくさをするとは思いもよらぬこと。敵をあざむく前にまず味方から、である。



 日が沈むのを待ち、諏訪の上原城まで兵を動かすと伝えた。驚きの声が聞こえてきそうだ。夜間の進軍である。

 亥の刻、午後九時すぎ、東の空に黄色みをおびた月が現れた。

 十八日めの月は満月よりはしぼんでいるが、まだまだ丸い。光量も十分だ。松明(たいまつ)は使わない。行列ともなれば光の川となって、遠目にも行軍が知られてしまう。また、明かりを灯せば足元は明るいが、光の届かないところは真っ暗になり、明暗の差が激しい。むしろ、月明かりでぼんやりとでも全体を見通せたほうが、速く歩けるのだ。


 馬という生き物は、暗闇でも目がきくようだ。人間には感じとれないわずかな光にも、足どりを間違えずに歩むことができる。馬の足の真ん中のところ、ひじの位置の関節は実際には手首に相当する関節だが、内向きにこぶのようなものがある。昔の人は、目とは異なるセンサーを馬は持っていると考えたようだ。このこぶを夜目(よめ)と名づけている。

 また、馬の目は真後ろを除き、ほぼ三六〇度の視界がきく。それは外敵を恐れて生きる草食動物の悲しさの象徴でもある。それゆえ、凝視する能力は劣っているように思われる。捕食活動をする肉食動物や、樹上生活をする霊長類は、一点を見つめ、物を把握する能力は草食動物より秀でている。馬には馬の目があり、人には人の目がある。

 私の目は塩尻峠に向いている。見えてはいないが見ている。


 月は煌々と輝き、兵士たちの背中は照らされて、山々は黒いシルエットを描いている。土を踏む音、蹴る音が絶えることなく、はるかな前方から後方まで流れていく。


 上原城に着いたころには、月は見上げなければ見えないほどの高さになっていた。

 兵卒の皆には休息を命じ、食事をとらせた。私もまた腹ごしらえをすませ、家臣らと最後の軍議を開いた。透波の報告によれば、小笠原に動きはなく、おそらく感づかれてはいない。

 先鋒は多田三八郎ほかの足軽大将だ。選ばれた彼らは、俺たちの出番だと意気込んでいる。奇襲は基本的に少数精鋭で行うべきだが、今回は三千人を超える兵力同士の戦いだ。夜襲では同士討ちになる可能性が高くなり、戦況もわかりにくく、危険すぎるため、夜明け近く、寝静まっている敵にいくさをしかける。朝駈けだ。



「月は我らを照らし、我らを導く。神仏は我らとともにある、必勝疑いなし、出陣だ」


 諏訪大社上社にて戦勝を祈願し、檄を飛ばす。

 軍勢は音もなく闇にうごめき、諏訪湖の南側をまわりこみ、西へと進軍する。下諏訪の反乱分子の鎮圧は、別動隊を差し向け、本隊の動きにあわせて攻める手はずだ。

 湖は月夜に照らされて、光が細波立っていた。

 対岸は冥土の入り口か。

 この期に及んでは、奇襲がばれようが、ばれまいが、関係ない。戦いぬくしかないのだ。

 峠に至る街道には、敵の警戒の兵が配置されているだろう。多田が露払いをしてくれる。戦いはもうはじまっている。

 歩みを止め、気配をうかがう。不気味なほどに静まりかえり、朝の山気に思わず身震いする。背後を気づかえば空は白みはじめ、いつしか月明かりのことは忘れていた。山々が赤く染まったのか、それも知らない。我々は獲物をねらう狼の群れ。すべての目は敵陣に向いている。飛びかかる瞬間を今か今かと待っている。


 鹿が一寸鳴いた。

 甲高い鳴き声があたり一面響きわたり、虚空を切り裂く。それが天の与えた合図だった。

 鬨の声があがり、前線の部隊がいっせいに押し出した。山を崩せとばかりに怒声が響き、私の心をふるわせる。

 (ばい)を解かれた天元は落ち着きをなくし、しきりにいなないている。

 私は彼のそばに立ち、この合戦の行く末を見極めようと目を凝らした。天元の首の下から手をまわし、首を軽くたたいて寄りそう。彼のぬくもりと獣のにおいが私の気持ちを静めてくれる。

 寝込みを襲われた小笠原勢は狼狽しているに違いない。しかし、決着は簡単にはつかなかった。体制を立てなおして応酬している。守るによし、攻めるによし、として陣をしいた場所だ。この塩尻峠を自分たちのものにしている。だが、我々には勝ちぬくしか道はなく、強引に攻めるしか手段がなかった。人を殺し、殺しつづけ、あるいは殺されて、峠を血で汚していく。私はどれだけの人間を殺せば気がすむというのだろう。


 いつのまにか日の光が目の前の舞台を照らしている。

 敵は崩れだした。それは加速度的に広がっていく。

 小笠原の兵のほとんどは、武具をまとう余裕もなかったのだろう。開戦直後に半数近くが逃げ出していたそうだ。敗走しだした敵兵を追って、我先へと雪崩れうつ。山をくだり、塩尻の地に入り、さらに信濃の府がおかれる深志(ふかし)にせまった。下級武士や雑兵たちは略奪に明け暮れた。まるでイナゴの大軍が田畑を食い荒らすかのように。

 小笠原長時は林城へ逃げ帰るのがやっとというありさま。その林城へ二里ほど、歩いて二時間もかからないところまで進軍した。喉元に刃を突きつけたと言えるだろう。

 そして、小笠原に届けとばかりに盛大に勝鬨をあげたのである。奪取した村井城での雄叫びは、敵兵や領民の肝を冷やしたに違いない。

 形勢は一気に逆転した。大勝利だった。



 戦後処理に数日かかり、小笠原を威圧すべく一部の兵を駐屯させ、諏訪へと凱旋した。

 その道すがら、塩尻峠にさしかかると、黒々とした諏訪湖が目に飛び込んでくる。東の先には出発点の甲斐がある。遠すぎて見えないけれど、富士も見えないけれど、私は満ちたりている。目にするものは幻ではない。私は大地にしっかりと根をおろしている。

 北東には小県へ、南には伊那へとつづく道がある。振り向けば、塩尻をおさえたことで木曽へぬける道が開いている。伊那路とともに京の都に通じる道だ。

 そして、この合戦で北へ進む道が現れ、たしかな手応えを感じている。小笠原を倒せば、日本海にたどり着くことも夢ではない。海路で京にのぼることもできるのだ。

 三条の生まれ故郷。幕府を頂点とした政治経済の中心。(みかど)御座(おわ)すところ。文化、歴史、日本の源流。まさに都だ。

 切り開いていこう、私の新しい道を。


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