新しい道 (二) “志賀城”
志賀城は最後の砦、心の拠り所だ。この城を落とせば、佐久の反抗勢力も屈伏するだろう。逆にこの城があるかぎり、佐久を治めることはむずかしい。
モズの初音は空耳か。
天文十六年閏七月のなかば、我々は出陣した。内山城を攻略してから、ほぼ一年ぶりになる。
この年の五月、大井貞清が投降してきた。内山城の城主だった男だ。彼には佐久の兵を率いて、最前線に立って戦ってもらう。志賀城には顔見知りの者が多くいるだろう。親類もいるかもしれない。武田を敵として同じ志をもっていた仲間たちが、次には敵となって殺しあう。戦国の世の悲しい掟だ。
「まめがらは釜下に在りて燃え、豆は釜中に在りて泣く」という中国の古い詩の一節を思いだす。詩の内容はいくさのことではないけれど、たとえるなら豆は籠城する佐久の兵、まめがらは大井貞清の率いる佐久の兵だ。もちろん、彼らだけで戦うわけではないけれど、命令に従うことが恭順の証なのだ。彼らは地理に精通し、内情にくわしい。将棋のように相手から奪った駒をうまく使いこなせば、断然、有利になる。そして、自前の兵は傷つかない。
もし貞清が裏切れば、彼の子供は殺すことになる。大井貞隆も殺す。彼らは人質だ。
小県の長窪城主だった貞隆は、先年、甲府に拘留している。彼は貞清の兄なのだ。裏切りはさせない。ちなみに、海ノ口城で倒した平賀源心も彼の兄弟である。大井一族も戦国の波にさらわれている。私と同じく。
城攻めは不利だ。山によじ登れば、体力は消耗する。ふもとから矢を放ってみても重力には逆らえず、空から押しもどされて威力は衰える。逆に、上から飛んでくる矢、石のつぶては勢いを増し、二倍、三倍になって我々に向かってくる。死傷者はふえるばかりで、相手へのダメージは小さい。無理攻めは最小限にしなければいけない。長期戦は覚悟のうえだが、歯がゆい。糧道を封鎖し、とにかく水の手をおさえ、干あがらせるしかない。井戸の場所は投降してきた者たちから聞いている。
攻城の第一陣は一点集中で攻めたて、早々に井戸は手に入れた。
しかし、八月になると雨の日がつづき、霧雨が山を覆い隠した。
動員する兵力の大半は農作業にたずさわっている。武士といえども扶持だけでは暮らしていけない者も多い。そのため、田植えや稲刈りなど、農作業の節目ごとに合戦の時期が意識されてしまう。暑さがゆるみ、刈り入れ前の約一ヶ月、この期間のうちに戦いを終わらせることが絶対条件ではないけれど、早々に決着をつけたい。
城攻めは時間がかかる。志賀の城を包囲して、すでに十日がすぎているが、らちがあかない。開戦前には大井貞清を通じて、降伏を呼びかけたが応じなかった。
城主は笠原新三郎清繁。気骨のある人物と見える。上杉の後楯も大きいだろう。佐久は上野の西どなりという近さもあって、上杉の家臣筋と姻戚関係をむすんでいる者も少なくない。
その上杉が動いた。
碓氷峠を越え、北から大軍が近づいているとの報せを受け、間髪入れず、板垣、甘利、横田、多田に命じ、兵を向かわせた。小田井原で激突し、結果は圧勝。
昨年の上杉は、北条に散々に痛めつけられ、北条にはかなわないとみたのか、形勢挽回をねらって、相手を武田にすり替えて、戦いを挑んできたようだ。佐久は上杉の勢力範囲だから、兵を出すのは至極当然ではあるけれど、どじょうは二匹といなかった。私が国主になりたてのころのように自由にはさせない。
志賀城に援軍はこない。小田井原での戦果を伝え、投降を呼びかける矢文も城内に放った。しかし、城からの返事はなかった。佐久の人々からすれば、武田は侵略者であり、略奪者なのだ。言われるがままに、されるがままに、無抵抗で受け入れるわけにはいかないのは道理だ。
しかし、私たちも引き下がるわけにはいかない。
個々のいくさに勝っても、治めるのはむずかしい。降参しても、ほとぼりが冷めて、手薄になれば歯向かってくる。そのような繰り返しに頭に血がのぼってくる。
生きのびるためには勝ちつづけなければならない。豊かになるために、強くなるために。その陰で虐げられる人々はどれほどの数になるのかわからない。
勝つ者がいれば、負ける者もいる。全員が勝者にはなれない。それがこの世の掟だ。掟ではあるが、ルールはない。どんなに汚い手を使ってもかまわないのだ。いつ、どこから、出しぬかれるかわからない。非情な世の中を渡り歩いていくには、とどまることは許されない。終わりのないマラソンのようなものだ。走りつづけるのだ。しかし、ゴールがないとはかぎらない。私には見えなかっただけであって、考えもしなかった。
私は行く先もわからずに道をさがし、もがいていた。
城を囲んでから半月、遅々として進まない戦況に私は切れた。
小田井原での勝利から四日目の八月十日、総攻撃の指示を出し、「城内の人間を一人残らず、皆殺しにしろ」と叫んでいた。
私は生まれ変わる。スサノオになろう。暴れまわってやる。欲望のままに生きてやる。それが人間というものではないか。すべてを壊す。私という人間を破壊するのだ。
なぜ、あのように高ぶっていたのか、理由はわからない。戦国の世に慣れ、国主という地位にも慣れて、自分の思いどおりにならないことが我慢できなかったのだろうか。有頂天になっていたとは思わない。しかし、思いあがりはあったかもしれない。
我々は兵を入れ替え、新手を繰り出し、手を休めることなく攻撃した。対して、城に立てこもる敵方は、かぎられた兵力で休みもとれずに戦いつづけている。力のつきるまで。
正午には外曲輪を落し、夜には二の曲輪を焼きはらい、志賀城本丸へと追いつめた。
弓張り月も沈み、残心に満たされた漆黒の夜、天空めがけて炎が舞う。
武士たちの叫び声がからみあい、山から山へと響きあう。地の底にいる私に呼びかけてくる。しかし、黄泉の国はこんなものではあるまい。まだまだ手ぬるい。朝焼けの光を浴びてもなお亡者は帰ろうとはしない。否、私が許さないのだ。
太陽が中天に達したとき、いくさは終わった。
城主笠原新三郎とその息子、そして主だった武将を討ちとり、残りの兵は降伏した。城内に逃げこんでいた女、子供もおりてきた。
しかし、私の感情は静まらなかった。佐久を支配するためには、恐怖を与えなくてはならない。なまやさしい人間ではないと思わせなければ。捕虜となった男は金山の穴掘り人夫に、女、子供、年寄りは奴隷として売り飛ばした。甲斐に親類縁者のある者は解放したが、それでも金と交換で引きとらせた。
美人の誉れ高い笠原新三郎の夫人は、小山田出羽守信有が褒美として所望したので彼に与えた。これらの仕置きは、歯向かう者は容赦しないという見せしめである。
奴隷狩り、人身売買が横行していた当時の世相である。兵士たちにとって、人は戦利品であり、金儲けの種であり、黙認しているのが現実だ。
だからといって、君主自らが手を染めるとなると話はすこし異なる。
この世を荒らし、人心は乱れていくばかりで、それを私が焚きつけている。私を批判する者が信濃ばかりでなく、甲斐国内にもいたとしても不思議ではない。私が犯してきた罪は、のちの世にも語り継がれ、ののしられるだろう。私は人倫の道を踏みはずしてしまった。