わかれ道 (一)
(天文十一年)
天照大神の岩戸隠れの真似事をしている間にも、情勢は刻々と移り変わっていく。
板垣の専制に怒りが爆発する前の時点にまで、しばしもどる。天文十年七月のことだ。
家督を継いでまだ七日とたたないうちに、上野を治める関東管領上杉憲政の軍勢が佐久へ侵攻した。一月ほど前の海野氏が逃げこんできたことによる、旧領奪還を名目にした出陣である。
実態は、武田家代がわりの不安定な国情に食指が動いたのであろう。
大軍を前にしては、猛将飯富兵部も撤退せざるをえなかった。
我ら武田が手にした領地を蹂躙すると、次にぶつかるのは小県の諏方勢の領地である。頼重殿の軍は、勇ましくも単独で上杉に立ち向かった。武田と連動して、この局面にあたろうとしなかったのには理由がある。
頼重殿は村上と武田に断りもなしに上杉と和睦し、所領を分割したのである。この所領とは、わが軍が領土に組み入れた東信濃である。佐久のほとんどは上杉に、小県の武田領は頼重殿に盗られてしまった。
それはあまりにひどい。火事場泥棒ではないか。
現実は厳しい。要領よく生きていかねば損をするだけだ。きれいごとではすまされない。
海野氏も一族、家臣ともども、落胆したことだろう。小県への帰還を期待していたはずだ。ふたを開けてみれば、領土拡張のいい口実にされただけであった。
秋の終わるころには、台風が木々や家々をわがもの顔で吹き飛ばした。私が国主になってからは、世相は暗くなるばかりだ。言うまでもないが、私の岩戸隠れとは無関係である。
佐久を手放したとはいうものの、それで家臣たちは黙っていたわけではない。私が引きこもっていた間も、上原伊賀守を筆頭に、武将が海ノ口にはりつき、目配りしていた。
天文十一年の春、ぬくもりが蛙の目をさますころ、私は岩戸を飛び出した。
本格的に兵を動かしたいところだが、田植えの時期も近づき、単発的な戦いで終わらせている。要害を一つ二つ落としては、戦線をすこし北上させるのが関の山といった按配だ。脅して武田に寝返らせれば、それでいい。
大軍を動かすのは荷が重すぎる。馬と同様、慣れが必要だ。今は力をためておきたい。確実に力をつけていきたい。
だが、兵を引きあげさせるとき、家臣たちはこぞって進言してくる。
「ついでに小県を攻めとりましょうぞ」
「諏方を討つべし」
私はその話を聞くたびに不愉快になった。たまりかねて軍から離れ、数名の供とともに甲府に帰ったことがある。ときには声を荒らげることもある。
なかでも、うるさいのは板垣信方だ。頼重殿は禰々の夫。妹を敵にまわすというのか、それはできない相談だ。
しかし、板垣はしつこい。館内で口論になったことがある。
そのとき、あまりのしつこさに私は激昂し、刀を抜いた。板垣は切っ先を顔に向けられてもまだ私を正視し、不敵にも含み笑いをしていた。
「くどいぞ。だまれ。よくも妹の嫁ぎ先を攻めよと申したな。許せん」
「それがしをお斬りになりますか。だんだんと信虎様に似てきましたな」
「なんだと。ふざけるな」
「殿はお若い。いやいや、困ったものだ」
「おのれ、板垣、」
私の血管はぶち切れそうだった。体がふるえてきて、自分を制御できない。
刀をおろし、この不届き者めとにらみつけるが、声がうわずってくる。
「さがれ、さがらんか」
板垣は肩をすくめ、退室した。
そのだらしない態度は愚弄しているようにしか思えなかった。斬れるものかと見くびっているに違いない。なおさら許せない。
あいつにとって、自分の言いなりにならなければ、国主の首のすげ替えさえもやりかねない。父と同様、私は追放の憂き目にあうか、殺される。そして、弟の信繁か誰かを国主の座につけるだろう。あるいは、板垣自身がとってかわろうとするのではないか。現状、実権は握られ、思うようにはならない。やつは要注意人物だ。私は屋敷を飛び出し、刀を振りまわした。
ただ、この一件だけはゆずれない。断固として拒否した。
彼らの言い分もわからないでもない。
佐久と小県は家臣たちの血と汗の賜物であり、その背後には手下の者どもの多くが傷つき、死んでいった。それをあろうことか、同盟をむすんでいたはずの諏方が、上杉の侵犯をいいことに、双方で武田の領地を奪いあったのだ。これは裏切り行為であり、家臣たちにとっては許しがたい所業であった。本来ならば、武田と連携して、上杉を追い返すべきではないか。
家臣らの憤りをないがしろにするわけにもいかないが、私にはそれほど強い執着はなかった。というのも、これらの領地は父が手に入れたものであり、私が得たものではないからだ。もし、私の主導で得た領地であれば激怒したことだろう。今はあらためて獲得すればいい、急ぐ必要もない、じっくり確実に進んでいきたいと思っていた。
しかし、いつかは頼重殿と対決せねばなるまい。勢力範囲が広がれば、小県でお互いの領地が接するときがくる。そのとき、統制できるとはとても思えない。わが軍の勢いを遮断すれば、反動は私に向かってくる。どのみち、頼重殿は敵になるだろう。禰々も敵となる。
まだ先の話だ。深く考えたくはない。
四月、禰々が男子を産んだ。諏方家の嫡男だ。寅年生まれにちなんで、幼名は寅王と命名された。この寅王の誕生を祝うかのように、諏訪では大がかりな祭りが催された。御柱祭である。
御柱祭とは、諏訪大社の神事のなかでも、もっとも盛大で豪壮な祭りであり、寅と申の年に行われる。信濃国一の宮に定められた歴史あるこの神社は、諏訪湖をはさむように南東に上社を、北西に下社を配置し、鎮座している。上社には本宮と前宮の二つの社が、下社には春宮と秋宮の二つの社がある。各々の御神座となる社をとりかこむように、前後左右の四隅に柱を建てるのが、御柱祭だ。
柱となる巨木は、八ヶ岳につらなる御小屋山や、霧ヶ峰につづく森林から伐採される。樹皮をはぎとられた、長さ十五メートル前後になる御神木を山林から曳きだす「山出し」、御神木を諏訪大社の境内へ運びいれ、柱として建てる「里曳き」の二つの祭りが両社で行われる。
圧巻は下社山出し祭で、傾斜三十五度近くもある崖から、百メートルにおよぶ長さをくだりおりる「木落し」である。躍るように落ちていく大木に、馬乗りになった氏子の男たちが必死にしがみつき、あるいは振り落とされるさまは豪快を超えている。ときには死者が出ることもある。このような祭りが現代にも引き継がれ、奇祭として知られている。
もっとも、神事として重要なのは、「建御柱」と宝殿遷座であろう。
「冠落し」された御柱の先端は錐状にとがり、上空からおりてくる魔物を威嚇するかのように、神域を守る柱として建てられる。
宝殿は宮ごとに東西二つあり、交互に新造して、神霊の宿る神輿を移しかえる。
なぜ、四隅に柱を建てるのか。祭事の発生は、桓武天皇以前の大昔にさかのぼり、意義は失われている。いろいろな説があるけれども、御柱で囲まれた仮想の立方体を神聖な空間とし、神と人との境界を明確にすると考えるのが無難なように思う。建築物などなかった文明草創期のなごりであろうか。
神様に新しい息吹が与えられ、禰々には新しい命が授かった。
禰々が嫁いで、初めて迎える御柱祭だ。とても思い出深いものであったろう。諏訪上社の大祝となるべく生まれた男の子は、禰々と頼重殿の子供でありながら、現人神としての役目が待っている。奇しくも御柱祭の年に、しかも祭礼の直前に生まれたというのも縁というか、とてもめでたいことである。彼女もこれで諏方家の一員になれたのだ。この世の春を謳歌したというくらいに、幸福の絶頂にあったことだろう。
男子誕生の報せを受けて、早速、祝いの品々を届けさせた。使者には信繁をたてた。私の名代だ。彼には託していたことがあった。
禰々は元気だと聞いて安心した。出産は女性にとって一大事業であるけれど、医療の進んでいない当時では命を落とすことが珍しくなかった。
母親になったということは喜ばしいことだが、さびしくもある。しだいに距離が遠ざかっていくように感じてしまう。小鳥がかごを脱けだして、大空を飛びまわる姿は楽しそうだが、大切なものを失った悲しみにつつまれる。
そして、小県の件は、予想どおり断られた。小県の武田領をお返し願いたい、とジャブを打たせたが、さらりとかわされた。時の勢いとかなんとか、ごまかしていたそうだ。
私も期待してはいない。せっかく手に入れた土地を、無条件で他人に与えるお人好しはいない。信繁にも、とげとげしくならないように言い含めていた。
頼重殿からすれば、そもそも小県は自分たちがねらっていた土地であり、それを武田がしゃしゃり出て、分配にあずかるのは承服しがたく思っていたに違いない。目算どおりの姿に返ったと考えているのではないか。
義理の父親がいなくなり、遠慮もいらなくなった。
私との関係にも甘えているのだ。なめられている。
私の心のなかに、ある考えが生まれつつあった。遠くない将来、頼重殿とは対決しなければならない。小県をたたくより先に、根幹をたたくべきではないか。諏訪を攻めとるべきではないのか。
佐久、小県へ進むには八ヶ岳のわきをぬけて、峠を越えなければならない。坂をのぼり、坂をくだる。甲斐にもどるときも、坂をのぼり、坂をくだる。対して、諏訪は地続きだ。障害物がない。
諏訪は信仰の地。信濃の民のみならず、人々の心の拠り所になっている。魅力的な土地柄だ。くわえて、諏訪大社の祭神は、軍神タケミナカタだ。
私はゆらぎだした。柱は立ち上げられ、大地に埋めこまれようとしている。邪悪な柱が。
しかし、禰々は死なせたくない。頼重殿も殺したくはない。
この板ばさみに悩んだ。私がこんな悪事を考えているとは、諏方勢はおろか、わが家臣さえ知らない。なにしろ、諏方攻めを真っ向から反対していたのは、私なのだから。
諏方と武田の力関係は五分五分であろう。両虎相闘えば勢い倶に生きずのごとく、共倒れになる可能性すらある。先代の頼満殿とわが父とは好敵手の間柄だった。頼重殿の代で衰えることもなく、むしろ我らのほうが心もとない。へたに手を出せば、かまれるのはこちらのほうだ。仮にごり押しして勝ったところで、攻めたてられ、逃げ道もなくなれば、頼重殿は討ち死にするか、自害するしか道はない。禰々もあとを追うだろう。
参考になったのは、昨年の小県攻めだ。武田、諏方、村上の三者が共謀して、海野氏を圧倒したいくさだ。兵力の差を見せつければ、戦う気力も失せるだろう。数をそろえれば、戦わずして勝つこともできる。父のまねにはなるが、いいところは盗んでいくべきだ。
諏方氏を敵視する勢力は二つある。諏訪の南、高遠を領する高遠頼継は、諏方家総領の地位を奪い返したいと考えている。金刺をはじめとする下諏訪の衆は、上諏訪を治める諏方氏におさえつけられ、叛意をつのらせている。彼らと結託して攻めこめば、諏方の兵は戦う前から自壊するだろう。
シナリオを思い描き、私は確信した。
佐久、小県はひとまず手を引き、諏訪を攻めとる。
軍議にかけると誰もが驚いた。君子は豹変す、である。家臣らの賛同を得たが、念を押したのは禰々の救出である。夫の頼重殿も討ってはならんと。
六月なかば、諏訪大社上社の遷宮の神事が行われ、神輿が西から東の宝殿に移された。この日にあわせて、寅王のお宮参りもされたと、あとになって聞いた。禰々の喜びようはいかほどか。
このころの私は決意を固めていた。高遠、下諏訪の双方に、談合の使者を送りこんでいる。準備は万全を期する。戦わずして勝つ。迷わない。
七月一日、頼重殿の居城、上原城から南東一里ほどのところに陣をかまえ、翌日、軍を押し出した。高遠頼継も杖突峠を越えて北進し、安国寺に火をかけた。諏方勢は武田が攻めこんでくるとは、露にも考えなかったはず。たやすく進撃できた。
傷つき弱った小鳥は物陰に隠れ、ふるえているかもしれない。トビのように上空から舞いおり、獲物をねらう高遠勢。猫のようにじわじわと詰め寄り、隙をうかがう甲州勢。息の根を止めるつもりはない。それとも、いたぶるか。北西からは下諏訪の衆も兵をあげた。
頼重殿は上原城を捨て、より堅固な桑原城へ移った。上原城下の町一帯は放火され、火の海となり、夜空を染めた。赤い炎の群れが心を高ぶらせる。
だが、頼重殿と禰々はどのような思いでいるのだろうか。
翌日も合戦と呼べるいくさもなく、一方的に追い詰め、桑原城を囲んだ。小勢で攻めてきた者もいたが蹴散らした。頼重殿に勝ち目はない。
夕刻、土砂降りの雨となった。桑原城にも悲しい雨の音が響いているはず。私は焦りを感じた。城攻めはまだ敢行していないとはいえ、もはや袋のねずみ、守りの兵のほとんどは逃げ出していると聞く。少人数では戦えまい。
禰々は生きているのか、不安な夜だった。雨が私を打ちつづける。
翌朝、軍使を派遣し、和議を申し出た。
軍使には信繁をと考えたが、あまりにも危険だと家臣らの反対を受け、老獪な板垣信方に任せた。軍使は敵に意向を伝え、交渉も行う重要な責務を負う。と同時に、身の危険がともなう。その場で殺されるかもしれないのだ。私としては、頼重殿と禰々に精一杯の誠意を見せたかった。
協議の時間を与えるため、この日は城攻めをさしひかえる、と自陣にふれている。
城を明け渡すこと、頼重殿は武田の臣下となっていただくこと、しばらくはご家族ともに甲斐にご逗留いただくこと、これらの条件を飲んでもらう。命と引き換えである。
昨夜の雨は夜半にはあがり、曇り空にその余韻を残している。回答を待った。
私が皆の無事を案じていることも板垣は伝えている。
あきらめて降伏し、我らの軍門にくだられよ。
頼重殿は承諾された。翌日の五日には甲斐に下向された。
遅れて禰々も、寅王も。
私は立ち会わなかった。勝者であるのにあわせる顔がなく、尊大にふるまえばいいのに隠れていた。作戦どおりの上首尾の結果に喜々とするどころか、これでよかったのかと疑念にさいなまれる。
虜囚の一人に私の側室を約していたすゞ姫もいた。その娘に会おうとは思わないし、この期に及んでは口にしなくても破談である。
わが軍は遅れて甲斐へもどる。上諏訪の仕置きのためだ。領地は宮川を境とし、東を武田、西を高遠に分割した。宮川は諏訪湖にそそぎこむ川の一つで、甲州街道に沿うように南東から北西に流れくだる。高遠の取り分には諏訪大社上社があり、宗教的価値がある。武田の取り分は政治、経済、生産の拠点であり、上原城などを備えた軍事拠点でもあり、実をとるほうを選んだ。
頼重殿はなにを考えているだろう。
彼にとって私は義理の兄でも年下で、弟分としか見ていないのではないか。相応の人物とは評価してくれたと思うが、まさか縁者を蹴落とすような器量も度胸もあろうはずはなく、考えもしなかったに違いない。ほんの二、三ヶ月前の私でさえ微塵にも思わなかったのだから。
躑躅ヶ崎にもどっても、しばらくは頼重殿に面会しなかった。
禰々にも会わなかった。
彼らは一人ひとり別々に寺に預けた。軟禁状態だが、もちろん警護の兵はついている。仮に脱走すれば、危害は他の者に及ぶから、無謀な行動は慎むだろう。禰々もまた、諏方の人間として寺に預けられている。頼重殿とは引き離しているが、寅王とは一緒だ。
家臣のなかには頼重殿を討つべきだと言う者もいる。それでは、なんのために命を救ったのかと思う反面、さてこれからどうしようかと悩んでいる。
私は禰々を悲しませたくない。夫婦ともに慎ましくとも暮らしてもらいたい。頼重殿が臣下としてかしずいてくれるなら、高い地位にもつけるだろう。私の親族でもあるからだ。
会わずにすますわけにもいくまい。数日後、東光寺へ出向いた。
小者に案内されると、頼重殿は床に額をつけんばかりに頭を下げていた。
横をすりぬけ、彼を見おろしながら、上座についた。
「頭を上げてください」
ゆったりとした動きに落ち着きを感じた。表情もおだやかだった。伏し目がちに私の胸のあたりを見ているようだった。
私は負い目を感じつつも頼重殿に声をかけた。
「このような仕儀となり、誠になんと申し開きしてよいかわかりません。今しばらくは、この地にとどまり、体をやすめていただきたいと思っております」
私の言葉を受けて、彼は背中を起こし、口を開いた。
「戦国の世のならい、油断していたそれがしが愚かということでしょう。しかたのないことです。ただ、許せないのは高遠頼継。同族でありながら裏切るとは言語道断の所業。あの者が諏訪に居すわるのは受け入れがたく、くやしくてなりません。願わくは、兵をお貸しいただき、頼継を討ち果たしたく存じます。身のほどをすぎたお願いにございますが、あやつになりかわり、かの地を賜り、武田殿の先方となって働きとうございます」
観念しているようだ。私の下につくしか再起の道はない。彼が同意してくれるなら、きらびやかな生活は無理でも、家族そろって暮らしていける。私も望んでいる。
しかし、まだ早い。彼を信じていいのか、はかりかねていた。
「お心はよくわかりました。ともかく、ご辛抱いただきたい。そうそう、禰々と寅王君、それから弟君の頼高殿も息災ですので、ご心配なく」
彼の目がぎらりと光った気がした。すゞ姫を言い忘れたが、そのせいか。今さら、付け加えるのも変な気がして、あえて言い直さなかった。息災などと言ってしまったけれど、禰々にはまだ会っていない。
「禰々はなにか言っておりましたか」
「頼重殿を心配していました」
私はうそをついた。
「寅王は一緒なのですね」
「ええ」
「それはよかった。是非にもお社をとりもどし、寅王には大祝についてもらいたい。禰々もきっと同じ思いでしょう。晴信殿、お願いにございます。それがしに働き場をお与えください」
彼は頭を下げたが、聞き入れるわけにはいかない。
「お気持ちは十分わかりました。残念ですが、諏訪の仕置きやら再建やらで手がまわらないありさまですので、日を改めて参ります。なにか入り用の物があれば、下男になんなりとお申しつけください。酒でも、肴でも、お好みのものをなんでも」
一瞬、はっとして顔を上げたが、すぐにほがらかな顔にもどられた。
「ご配慮ありがとうございます。禰々にもよろしくお伝えください」
私を責める言葉は一つも口にしなかった。終始、丁重、低姿勢をくずさなかった。私は罪悪感に打ちのめされる前に早々に退出し、振り向いて、しばらく寺を眺めた。
さて、どうしたものだろう。