24 しあわせなじかん
――彼は、変わった。
『アンタ、英雄になりなさい!』
なんて上から目線で、恥知らずな物言いだろうか……。
でも、あの時は彼しか自分を助けられる人間はいないと、そう思ったのだ。
それに、あの時の状況的に――彼以外の『モノ』になるのは、耐えられなかった。
英雄なんて、簡単になれるものではない。ましてや、差し迫った状況をすぐに打開するなど、殆ど不可能な話だった。――そうであった筈、なのだ。
――彼は、あの無茶苦茶な『願い』を、叶えてくれた。
『もう大丈夫』
そう言ってくれた彼が、自分にはどれだけ神々しく見えたことか。
彼はいつも通りの、はにかんだような笑顔だったが、それでも自分にとって、彼は間違いなく『英雄』だった。
そう――彼は、『英雄』だった。
――少なくとも、自分にとっては。
世間にとって、彼はただの冒険者なのかもしれない。でも、自分と、家族と……多くの人々の絶望的な状況を好転させた彼は、『英雄』と呼んでもおかしくはないのではないか? 少なくとも、自分も父も、そして幼い頃からの親友である『彼女』も、きっと彼を『英雄』であると思っている筈である。――『彼女』は、素直に認めないかもしれないけれども。
元々、彼に対して自分が特別な想い――そう、口に出すのは少々恥ずかしいのだが、所謂『恋心』というものを抱いていた、というのは関係ないだろう。……少しは、関係あるかもしれないが。――でも、それは些細な事だ。余程冷静な女性でなければ、彼がしてくれたことに対して心が動かない筈がない。……きっと、自分でなくとも彼に心惹かれたであろう。
最近は、そんなことを考える度に、不安になる。彼が、誰か『素敵な人』に心動かされ、自分の前からいなくなってしまうのではないか、と……。
自分に自信なんて、無い。容姿も中身も、人に誇れるとは思えない。そんな自分が、彼に『自分だけの英雄』でいてほしいと願うなんて――贅沢なのではないか、と。
不安なのだ。彼が優しければ優しいほど。彼が魅力的であればあるほど。――それに釣り合わない自分を見てしまい、心が折れそうになるのだ。
自分が、相対的に見れば恵まれた身であることは、重々承知している。けれども、そういうのとは別次元の『不安』なのだ。今、彼を『失って』しまったら――そんなことを考えるだけで、身体が震えてしまう。
生意気なことを言って、彼より優位に立とうなんて小賢しいことをしているけれど――私はずっと、震えている。そんな、ちっぽけな女の子なのだ。
☆ ☆ ☆
「美味しいケーキの新作が出たらしいんだ、食べに行かない?」
父の仕事の手伝いにも目処が立ち、さてどうしようかと思案していると、彼――レイが私を誘いにやって来た。
「珍しいわよね、男の人で甘味情報に詳しいのって」
そこいらの甘味好き女子も敵わないのではないかと思ってしまうほど、レイはそういった情報に詳しかったりする。普段はカッコつけたがりなのに。
「珍しいかな? 刃物好きが鍛冶屋を回るようなものだと思うけど……」
「それ、例えになっていないと思うけれど」
思わず苦笑してしまう。これが最近話題になっている、若手冒険者の中でも有望株と言われるレイ・ガーラントだなんて、初対面の人間に説明しても信じてもらえないだろう。
「準備するから、少し待って」
「なるべくお早めに。売り切れちゃったら、食べられないからね」
そう急かす彼は、妙に子供じみていて。私は、やっぱり苦笑してしまった。
彼が案内してくれたお店は、大人しめのデザインで飾られたカフェで、なかなかに盛況のようであった。
「この、新作の『妖精の贈りもの』をセットで。飲み物は……紅茶を。――クリスはどうする?」
彼に尋ねられ、「私も同じものを」と店員に告げる。他にも気になるケーキはあったが――彼と同じものを、食べてみたかった。
程なくして私達の前にケーキと紅茶が届く。ケーキは粉砂糖と生クリームで包まれたスポンジに季節のフルーツがたっぷり隠された、見た目にも可愛い『贈りもの』だった。
フォークで一口大にし、口に運ぶ。しつこくない甘さの中に、フルーツの僅かな酸味が心地よい。スポンジもふわふわで、すぐに口の中から消えてしまった。
「評判通り、美味しい。売り切れてなくて、良かったよ」
そう言って幸せそうにケーキを食べる彼。一時期、笑うことを忘れてしまったのではないかと思うほど気力のない顔をしていた彼は、もういなかった。
ホッとしながら、ケーキと紅茶を味わう。はしたなくならない程度に彼とお喋りをして、幸せな時間を噛みしめる。
本当に、幸せな時間だ。こんな時間を過ごすことが出来るなんて……。一度は諦めた、そんな夢のような時間。――それが、今、手の中にある。
幸せすぎて、不安になる。――贅沢だ、馬鹿ねと思いつつも、そう感じてしまう。今目の前にあるこの幸せが、突然失われてしまうことを………私は、何度か経験してしまった。だから、不安になるのだろう。
「こうしてのんびりしてさ、美味しいケーキとお茶を楽しめるなんて……贅沢だよね……」
そう言って、彼が笑う。――そんな言動に、私の心は揺さぶられてしまう。
――悔しいけど、恥ずかしいけれど……私は、彼に『恋している』のだ。
そう認めてしまえば、楽になれるかと思ったけれども。……現実は、そんなに簡単ではないようだ。
「私だけ、かしら……」
「………何が?」
ふと漏れてしまった言葉に反応した彼に、「何でも無いわ、独り言よ」と言うと、「ふーん……?」と、彼は変な顔をしつつもケーキへと視線を戻した。
(惚れた弱み、かしら……?)
私は、そんな考えに苦笑しつつ、彼と同じケーキを楽しむことにした。
「美味しいね。売り切れる前に来られて良かった」
嬉しそうに、そう言って笑う彼。――本当に、巷で話題の人物だとは、思われないだろう。
――彼の本当の姿を知っているのは、私だけ。
そんな、物語のヒロインのような思考になってしまい、私は咽せそうになって慌てて紅茶を飲む込む。危うく粗相をするところだった。
対外的にも良くないことだが、何よりも彼の前で、そんなことをしたくはなかった。
「うんうん、フルーツの酸味と甘みが本当に良いよね……」
私の葛藤なんて気が付きもせず、彼はケーキを楽しんでいる。――それはそれで、嬉しいような寂しいような。
(私、面倒くさい女なのかしら……)
そんな、新たな不安が胸に沈み込む。――恋って、大変なのね……。
「クリーム、付いてるよ」
突然そう言われて顔を上げると、彼がナプキンで口元を拭いてくれた。
「あ………あり、がとう……」
「どういたしまして」
彼は自然とそうしていたが、私は顔が赤くなっている自覚があった。――もう、これじゃあ子供みたいじゃない……!
――でも、彼にそうやって気配りされているんだなと思うと、悪くはなかった。
「レイは、どんどん成長していくのね……」
「急に、どうしたの……? 具合、悪い?」
「………何か、失礼なこと考えていないかしら?」
私が少し睨むと、彼は「そ、そんなことはないさ」と笑って誤魔化した。――本当、何考えていたのかしら……?
でも、そんな彼とのやりとりが、昔に戻ったようで……何だか、嬉しかった。
昔から、素直になれなくて。甘い空気というよりも、私が彼に一方的に甘えてしまって……彼には、嫌な思いをさせたことも少なくないだろう。
――でも、今の私達って、恋人同士に見える……わよね?
周囲には、何組か男女の客がいたが……その何れもが、夫婦か恋人同士か、という客だった。――その中に、自分達も溶け込んでいるだろうか……?
そう思うと、何だか心と体がぽかぽかとしてきて……幸せな気分に、笑みが零れそうになる。
「何だか楽しそうだね」
微笑みながら彼にそう言われ、私は「そうかもね」とだけ、答えた。
――とても、心が浮かれる幸せな時間だった。




