全共闘の名前は日大の学生がつけた。
その日はこうした簡単な会話で別れた。
二日後祐司が再びやって来た。祐司を見ると待ちかねたように田沼は声を上げた。
「日大文理学部闘争委員会の『叛逆のバリケード』には次の事が書かれている。・・・使途不明金の新聞記事に先立つ68年1月26日新聞紙上に『都内の某私立大学の有名教授 裏口入学で三千万円、謝礼金をポケットへ』という記事があった。学内ではささやかれていたことだが、それが事実で大学経営の腐敗があからさまになった。・・・この記事の教授とは、日大理工学部の小野竹之助教授の事なのだのだが、いわゆる平の教授ではなく、大学教務部長・評議員・国立国土総合開発研究所次長を務める大学の幹部教授なんだ。彼が私的な裏口入学斡旋で得た収入を縁故会社4社に数千万円融資していることが発覚してしまったのだね。実はこの事件は氷山の一角で、隠されたこのような不正は全学に蔓延していたらしい。
2月3日 大学は総長(大学筆頭)とその配下の3人の学長と『学長会』を開いて、この問題を協議したけれど『事実なら大学全体の問題として黙視しないが、しかし教授個人の力では不正行為は不可能であったから彼一人の責任とは言えない・・・』と曖昧な結論をだして、O教授を処分しなかった。教授はその後も地位を確保し続けたのだね。この当時はどこの大学でも金次第で入れる風潮だったけれど、特に日大ではひどい状態だったという事だ。あの教授にもこの教授にも腐敗は蔓延していたのだね。
各学部はそれぞれ傘下に学科を持っているが、学科に一人の教授と一つの研究室(高校の職員室だね)は相当の金額・・・裏口入学金は学生個々で同じではないからね・・・を隠匿した上で本部に、人数割りで上納していたのだよ。本部の収入は水増し人数に正比例していたけれど、本部の人間も教授も縁故入学で相当の不正収入を得ていた。その事情は最初の朝日新聞の使途不明金の記事であきらかだね。
まあ、こうした不正事件に対して当時の政府や文部省が乗り出したという記事は見られないから、当時の政府の大学教育についての見識が、どんなに低いレベルのものであったかがわかるね!