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全学連結成の頃

 田沼は言った。「1947年(昭和22年)に全国にできあがった学生自治会が協議して全学連ができるわけだけど、そのオルガナイザー(組織者)は共産党であったから、学生自治会の目的は共産革命を目指すものだったと言っていいかな?」

「そうですね、学生自治会は学生が学内の問題を解決すると言うより、それを足がかりに最終的には共産主義国家を打ち立てるというものでしたから、共産党傘下にあった各自治会の行動は共産党と一緒でした。1951年共産党が武力革命に方針転換したときも、その行動は同じでした。けれど1952年5月2日の警察と大騒乱を繰り広げた『血のメーデー』は平和主義になっていた国民の批判するところとなり

1952年の10月1日に行われた衆議院選挙で持っていた35議席全てを失ってしまったのですね。

 1955年7月、代々木の共産党本部で開かれた第六回全国協議会、言うところの『六全協』ですね。この会議で、武力革命を目指していた党の路線が反転して、議会主義に転換しました。これに驚いたのが、全学連に加盟している学生自治会の活動家たちなのです。とりわけ1950年東大に入って共産党員になって『血のメーデー』でリーダーとして闘った医学部の島茂朗しましげおは、この六全協の決定を激しく怒りとともに受け止めたようです。彼は武装闘争を命題としていた国際派でしたが、最近の党の武装闘争の方針によって和解でき復党していたところですが、この急激な方向転換に再び対立者となってしまったからなんです。そうして学生自治会の活動は単なる身の回りの改善運度となり、活動としては華々しかった一時期に比べ沈滞に追い込まれたわけなんです。当時の学生の心情は1958年に全学連委員長となった塩川喜信しおかわよしのぶ(1935-)についていえば当時『逆コース』呼んだように、民主主義が戦前の封建制に回帰するような反動的な動きが感じていたと言うことです。このままでは日本はまずいという気持ちだったのです。彼は民主主義の最高峰として共産主義にあこがれていたのです。」

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