過激化する共産党
田沼はだまって聞いていたが、あいのてを入れた。「なるほど、そういうことなんだね。僕自身も、そのあたりの資料をだいぶ読んだんだけど今ひとつ頭の中が整理されなかったけど、君のまとめでだいぶわかったよ。つまり、僕らはGHQや共産党や大学自治会や労働組合の各視点から物を見ないといけないということだね。君はだいぶ上手にそれを書き分けているようで感心したよ。・・・で、それ以降のことが聞きたいな。」
「お褒めの言葉ありがとうがとうございます。おだてりゃ豚も木に登るということで、いい気になってこの先を続けさせて貰いますか。・・・さて、1951年の10月に武装闘争に方向転換した共産党に先立つ1950年、自衛隊の前身である警察予備隊が軍隊は持たないという憲法をねじまげてGHQの指令で発足しました。1951年九月には吉田首相はサンフランシスコにおいて第二次世界大戦では日本の敵であった連合国49ヵ国との講和条約を締結し、米国とは日米安保条約を結びました。こうして1952年4月28日にサンフランシスコ条約は発動して、戦後属国状態だった日本は独立国としてGHQの干渉もなく再スタートを切ることになったのですね。・・・そうそうこのころ日本で作られた製品にはメイドインジャパンでなくオキュパイドジャパン(占領された日本)と刻印されていることを僕は突然思い出してしまいました。戦争に負けた日本は日本であって日本ではなかった。ということですね。
1952年5月1日には主として共産党が主導するメーデーのデモ隊が皇居前広場で警官隊と激しく衝突しました。武装革命に方針転換した共産党ですから、デモが激しくなるのは当然ですよね。警察側は重軽傷者750人デモ隊側は射殺死一名、負傷者200名逮捕者1230名という戦争のような状態になってしまったのです。これを『血のメーデー』と読んでいます。
6月25日の早朝、朝鮮戦争の即時停戦を求めるデモ隊1000人が暴徒化し用意してあった火炎瓶や硫酸瓶を使って交番や、笹川良一邸を襲撃してデモ隊の人4名がピストルで撃たれて重傷を負ったのです。」